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同朋会交流のページ:投稿(釋唯廣)

共に語り、共に生きよう

こんにちわ! 私は、1999年11月19日に京都東本願寺で行われた帰敬式で、釋 唯廣という法名をいただきました。

名古屋教区第30組、教心寺の門徒として、真実の教えを依り処として生きていきたいと思っています。これまで勉強会、講義、講習会などいろいろな催事に参加していますがまだまだ不明なことが多くあります。今後とも機会あるごとに参画して行こうと思います。

この世に生を受け、今を生きている自分の姿と社会状況を見て、考え、広く先人に学び、知識と情報を得て、自分一人の力の限界と可能性の有様を、そして、同朋と共に出来ることを掴んでいきたいと思っています。

御遠忌テーマに思うこと

宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマ【今、いのちがあなたを生きている】とは、どう理解すれば良いのだろうか? 感じたままを記してみる。

【今】とは、釈尊が生きた時代より遥かに昔から今日までつづき、未来へつながる時、
【いのち】とは、【今】を生き、はたらいている本願他力、阿弥陀仏、そして、生あるものすべてを意味し、
【あなたを】とは、私たち自身が【いのち】に生かされているということだと思う。

人間は一人一人バラバラではあるが【いのち】として同じである。だからこそ、すべての人々の平等な幸せが求められるのではないだろうか。

私自身のテーマ[下記]との整合性を高めていきたいと思う。

【今、この時を生かされている私は、どう生きていくべきなのか?】

*「生かされている」とは?

誰も自分一人で生きているとは思っていないし、家族、隣近所、職場、学校、国家、政治経済などあらゆる社会的状況に影響され支配される、と誰もが感じている。その社会的状況は、歴史を創ってきた権力闘争の繰り返しによって形づけられる。現代を含め、それらの時代、場所、立場などによって、「生かされている私」は、受身の私であり消極的で受難の姿として多岐多様に表現されることが多い。しかし、自分の力ではどうしようもないということに気がついているから「生かされている」と感じるのだ。つまり「生かされている私」は消極的で受身なだけでなく立派に意思を持ち心まで拘束されているとは言えない。

*「どう生きていくべきなのか?」とは?

多くの人は現代のその社会的状況の中で『いかに自分を守り、安心安全を確保し、長寿を全うするか。』などと考え、思い巡らすのではないか?残念ながら、生き方を問われると、自己中心的な考えに、いとも簡単に陥るものだ。「生かされている」のに。しかし、交流があり情報があると、一人単位の考えが自分一人にとっても不利である事に気づき、種としての認識に目覚め、それらの集団(地域、職場、大きくは社会的経済的階級など)としての「生き方」を模索し始める。そのほうが自己中心的考えによる生き方をも満足させそうだからだ。「どう生きていくべきなのか?」を考え行動することは欲でもある。だが欲こそ、生きる原動力だ。「生かされている」のに欲を持って生きる。矛盾ではあるが確かである。

以上をもって挨拶とします。今後ともよろしくお願いします。

釋 唯廣

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