真仏教における信と覚

- 信楽峻麿『真宗の大意』を読む -

カバー絵 信楽先生は、本願寺派の碩学(龍谷大学元学長)であり、「信心の社会性」「信心一元論」「真俗二諦論批判」「反靖国」などに精力的に発言を続けておられる。数多い著書の中で、私がこの本を選んだのは、これがアメリカでの講演を元にしているからである。というのは、私の目下の問題意識が、<普遍宗教としての真宗>にあるので、日本語で日本人のために説かれた真宗入門書は後回しにして、異文化を背景にした人々のために説かれた真宗入門書が読みたかった、という私なりの事情による。

信楽先生自身のあとがきでは、つぎのように述べられている。

「私がこの講義を通じて実感したことは、真宗の教義が、これからの世界に通用するためには、何よりも、それが東洋の論理、ことには大乗仏教の原理の上に、明確に立脚して語られなければならないということであった。もしも真宗が、今までのごとき観念的、宗我的な、教団内教学にとどまる限り、それはもはや、まことの仏教といわれることもなく、またキリスト教やイスラム教に対応して、世界の人々に受け入れられることは、絶えてありえないであろう。したがってまた、現代の人々に、充分に興味を持って学ばれることも決してありえない。伝統の真宗教学は、すべからく、直ちに大乗仏教の原点に回帰し、また開祖親鸞の根本意趣に直参して、これからの新しい世紀、世界人類の諸問題に即応しうるところの、新しい教学を目指して変革されるべきである。」

カバー絵 一読した感想としては、本書は上記の指標に沿いつつ、難解な論理や表現によることなく、新鮮な感動を与えてくれた、ということである。こういうレベルの話が、寺の法話でも日常的に語られるようになれば、真宗はほんとうに生き生きとしてくるはずだ。もっとも、いくつかの点では、論理展開に飛躍があったり、説明が不十分と思えたり、考え方として同意しかねることもあり、手放しで礼讃はできないのだが、優れた真宗入門書であることは確かである。

ところで、本書には日本語オリジナル版と英訳版がある。日本語版のタイトル横には英訳タイトル"The Essence of Shinshu"、ところが英訳版のタイトルは"A Life of Awakening, The Heart of the Shin Buddhist Path"であって、この違いは興味深い。私は、後者のほうが気に入っている。Shinshu ではなく、Shin Buddhist Path とした訳者(デビット松本さん)のセンスはさすが、と思う。日本語でもこれからは、仏道の体系をいうときには「真仏教」を、一つの宗派をいうときには「真宗」としてはどうだろうか。「禅仏教」「禅宗」というのも同様である。そしてこの仏道を、「めざめの生活」として明確にしているのもよい。めざめ awakening とは覚りであり、覚りを抜きにした仏教などありえないからである。

本書は、1999年アメリカ・バークレーでの集中講義をもとにしており、大きく三章よりなる。「真宗の仏道」「真宗の信心」「真宗の生活」である。

「真宗の仏道」では、仏教とは何かを明らかにした上で、真宗が仏教の流れ・展開の中で必然的に生じたことが歴史的そして論理的に解説されてある。たとえば、真宗における「教行証」とは初期仏教における「信行慧」と同じ構造を有していること、あるいは、阿弥陀仏は如来(タター・アガタ)にしてかつ如去(タター・ガタ)であることによって勝義諦と俗諦の二側面を有したシンボル的存在であること、このあたりの解説は手際よい。そして、念仏がなぜ「めざめ」体験をもたらすのか、また、どうして人格主体の成長につながるのかが平易に語られる。従来の真宗教学(特に大谷派?)では、「自我が破られる」ことは語っても、人格の形成・覚り・成仏ということをどこかに置き忘れてきたのではないかと思われるのだが、信楽先生はそこをきちんとされている。

次に「真宗の信心」において、もっとも力点を置いているのは「信仰と信心はどう違うのか」についてである。私自身、本書を読むまでは、そのことがはっきりしていなかった。信楽先生はいくつかの特徴をあげながら信心(サンスクリット原語でプラサーダ)の特性を説明しているが、基本的にそれは知的な営みであるということ。これは親鸞が「信心の智慧」と言っていることと重なる(例:「信心の智慧なかりせばいかでか涅槃をさとらまし」正像末和讃)。そして、キリスト教などでいうところの信仰が「信じる主体と信じられる客体」という二元論に基づいているのに対して、仏教の信心とは、「一元的、主体的な信」「三昧、サマーディにかさなるところの『めざめ』体験」であるとされる。興味深いのは、覚如や蓮如によって確立された封建教学(それはキリスト教と同様な二元的、対象的な信を説くものであるのだが)への批判である。なお、信楽先生のいわれるような一元的主体的な信を英語でどのようにいうかは、大きな問題である。belief は世俗的な意味での「信頼」、faith は対象的な「信仰」である。信楽先生は true mind, true heart を提案されている。これはもう少し検討が必要かも知れない。

ところで、このような信のとらえ方は妥当であろうか?今の私には明確な答が見つからない。なるほど、初期仏教においては、自己の外に何ものかを対象にして信ずる、という発想はなく、ひたすらに自己の変革、めざめを強調していたのだから、その意味において、仏教正統の流れでいえば、信は一元的主体的でなくてはならない。しかしながら、主体を過度に強調することは、大我思想や境地主義に堕落していくおそれはないであろうか。問題は、主体と自我の関係であるような気がする。私は、自我が破られていくためには、絶対他者(完全なる至高の存在という意味ではなく、全く自己ならざるもの、という意味で)の存在は欠かせないと考える。絶対他者は、所与というよりも、いわば自己によって要請された存在といえる。そしてそれは縁起、無我の思想に立脚するかぎりにおいて、仏教の正統を裏切るものではないと思う。とすれば、そのような絶対他者に対する時、信は二元的対象的にならざるを得ないのではないか。もっとも、このような場合の信はプラサーダではなくして、シュラッダーといわなくてはならない。無量寿経に「信こそ幸いなる世界に到るための根本である」とある、この「信」はシュラッダーである。このように考えてくると、曖昧な言い方ではあるが、真宗の信心とは一元的でもあり二元的でもある、あるいは重層的であるということになろう。

第三に「真宗の生活」について。ここでは、はじめに「真宗におけるすくい」とは人格主体の確立であることが説かれる。これは重要な指摘であり、従来ともすれば、死後に極楽往生することが決定すること(現生正定聚)をもって救いとしてきた伝統教学からの脱皮を志したものという印象を受けた。そしてここから、「信心の社会性」論が展開される。すなわち、信心に生きる者は日々に自己を成長させつつ、社会の中でどのような生き方をするのかが重大な課題になってくる、というわけである。この問題をめぐっては、本願寺派の中で議論があると聞く。反対者がいうには、「信心の社会性という概念は親鸞にはない」「私が仏に成る事が一番大事な事であって、その他の事は適当にしておけば良いのである。凡夫が菩薩の真似をして、他者を導こうなどという事は傲慢である」そうだ。なかなかに微妙な問題らしく、他派の私には伺い知ることのできない 事情があるのかもしれないが、あまり難しく考える必要はないのではないかと私は思う。自利利他円満は大乗仏教の基本なのだから、傲慢であっても菩薩のまねをするほうが、謙虚に(謙虚なふりをして)自利のみを求めるよりもはるかに仏教徒らしいのではないか。もちろん程度問題というのはあるので、社会運動をしていればよし、というわけではもちろんない。が、念仏原理主義のような反対論にはあまり説得力がない。

本書を読んで、疑問に感じる点はいくつかあるが、そのうち一つだけ挙げておきたい。それは還相回向についてである。曇鸞の『浄土論註』によれば

「還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。 」

ということだが、要するに、浄土に往生した者がそこに安住せずに穢土に立ち戻り、衆生教化のためにはたらく、そのはたらきを阿弥陀仏から与えられること、という意味だろう。問題は、浄土往生そして成仏が死後のことであるならば、なぜ死して後にそのようなはたらきが可能なのか、ということである。信楽先生は、「私たち真宗者は、死んだのち、また新しい他者成仏のための運動をはじめるのです」と言うが、これを単純に考えるなら、死んだ者が再びこの世で生まれ変わって菩薩的なはたらきをなす、ということになる。これでは輪廻を実体的なものと認めてしまうことになるではないか。そういうことを釈尊や親鸞が想定していたとは思われない。おそらくは往相回向・還相回向という時の「相」(アスペクト、すがた)ということがポイントになる。つまり、どのように見えるのかということ。浄土を自らの目標として仏道を歩む(回向だから、「歩ませられる」というべきだが)すがたは、同じく仏道を志す同朋からは、浄土の菩薩に見えるはずだ。例えば、親鸞が法然を勢至菩薩の化身と仰いだように。この点で、藤場俊基氏が「還相回向とは、凡夫の上に現われる菩薩道の相である」(『親鸞の教行信証を読み解く』第3巻)と述べていることに私は説得力を感じる。

ともあれ、真宗学の素養のない私が面白いと思ったまでのことである。真宗学を専攻された方には「何を今さら」と言われるかも知れないが、いわゆる宗学ふうの味付けではないという点だけでも、おすすめしたい。

本書データ/『真宗の大意』信楽峻麿著,法蔵館刊,2000年,ISBN4-8318-8654-8,19x13cm,222頁,2000円(税別)