解放の仏教の可能性

-菱木政晴『非戦と仏教』を読む-

カバー絵 著者は、哲学(特にホワイトヘッド)と宗教学を専門とし、西山短大教授、真宗大谷派僧侶(元同派教学研究所嘱託)でもある。また、大谷派反靖国全国連絡会事務局長としていくつかの靖国訴訟に関わり、真宗の戦時教学を鋭く批判している。<左翼>と目されることもあるが、菱木氏自身は御自分のことを社会主義者とは思っていないし、批判的でもあるのだから、まったく見当違いのレッテルである。国を批判したら左翼、とは時代錯誤であろう。

菱木氏は、前著『解放の宗教へ』(緑風出版)において、(1)宗教および国家神道を定義し、(2)仏教が国家神道の中核的な役割を果たしたことを論証し(神道を国教化したのが国家神道、ではない!)、(3)日本仏教、真宗教団が戦前戦中に戦争推進のイデオロギーとなったことを明らかにし、(4)その批判の上に、浄土仏教が国家を批判し続けるものでなくてはならないことを主張した。そしてこの書の中で「解放の真宗」(これはカトリックにおける「解放の神学」になぞらえた造語である)が語られるが、それはまだおおまかな方向性を指し示したにすぎなかった。その「解放の真宗」あるいは「解放の仏教」がどういう内容を持ち、仏教の教義とどう関係しているかをより具体的に論じたのが本書である。いわば前著の続編といえよう。

目次に沿って内容を要約してみる。

第一章「近代ヒューマニズムと暴力」では、近年盛んな、「西欧近代」における「理性」に基づいた「ヒューマニズム」(人間中心主義)に対する疑念や批判を検討している。近現代における拝金主義や人命軽視などの風潮を憂え、その原因が西欧近代であると断定して、「東洋の叡知」なるものを高く評価するのが最近の流行のようだが、このような西欧近代批判に多くの仏教者が安易に同調してヒューマニズムを否定する動きがあることを指摘し、論理的な再批判を加えたのがこの章の主題である。菱木氏は「近代の超克」や「伝統回帰」等の最近の流行を危険なものとみて、近代の組織的社会的暴力(戦争など)は、理性主義・ヒューマニズムの産物ではなく、むしろそれを否定する動きと密接な関係にあることを論証している。日本が西欧近代に学んだことは多い。が、それを学び尽くしたとはとてもいえない。それほどに西欧思想の伝統と蓄積は深い。単純に、仏教=東洋思想=自然との共生といった図式で以てヒューマニズムを批判できるはずがない。むしろ、仏教はヒューマニズムにもっと謙虚に学ぶべきであろう。

第二章「仏教は『苦しみ』からの解放をもたらすか―『解放仏教』試論」は、仏教の最大のテーマである「苦」を観念的に解釈することなく、実践的な問題としてとらえることを主張している。「苦」とは、心理的な苦悩もあるが、同時に現実的な苦悩もある。すなわち、貧困・差別・暴力・殺人・戦争等の問題で、これらは社会的な不正義に由来するのである。いわゆる仏教哲学なるもの(その代表が本覚思想―衆生は本来覚った存在だという思想―)は、深遠な外観を備えながらその実支配体制を補完してきた歴史があり、「覚りの眼で見れば、否定すべきいかなるものもなく、すべてはありのままで真実だ」という思想が不正義を批判する智慧を曇らせてきたのだし、浄土教も「現実の解決を観念的な天上での解決に置き換え、結果的に、この世の不正を隠蔽する」かぎりにおいては、支配者にとって都合の良い宗教でしかない。解放の仏教たりうるためには、「批判原理としての浄土」が中心にならなければならない。ここで思い起こされるのは、法然と同時代の高僧・明恵である。明恵は真面目な求道者であったがために、菩提心を否定する法然を許せず、厳しい批判を浴びせた。また、「人は阿留辺幾夜宇和と云う七文字を持つべきなり」として、各人が分を守る(天皇は天皇らしく、下層民は下層民らしく)ことを主張し、「往生の条件は念仏だけであって、それに僧侶も俗人も天皇も下層民も関係ない」という平等思想に嫌悪感を示した。真面目で人格高潔であることが、人間を現実の苦悩から解放するのに役立たない、むしろそれを妨げ得ることの一例である。

第三章「近代の日本と仏教思想」においては、真宗大谷派という教団の生み出した「近代教学」批判、とりわけ清沢満之批判が中心である。清沢満之は確かに、大谷派教団を改革するのに功績があった。しかし、清沢が本当に親鸞仏教を近代的に発展させたのか、それとも矮小化・歪曲したのかは、あらためて問われねばならない。清沢満之は3年前に百回忌を迎え、その前後から様々な研究書が出されているが、本格的な批判書はまだ少ない。大谷派の戦時教学(戦争を推進するための教学)が清沢満之の意思に反するものであったのか、その必然的展開であったのか、大谷派内では前者の見解が主流のようだが、私は後者であるとみている。菱木氏による清沢批判のポイントは、「如来と自己との主観的関係だけが問題になり、浄土がすっぽり抜け落ちている」というものである。この点は、清沢擁護派も認めざるを得ないであろう。正直な話、私自身が大谷派教団に身を置いて感じるのは、清沢批判をしにくい雰囲気がいまだにあることである。多くの大谷派僧侶にとっては、清沢は偉大な思想家であり続けている。しかし、真宗に「思想家」は必要ないのではないか。禁欲的求道者であった清沢は、法然・親鸞よりも明恵を彷彿とさせる。

第四章「仏教は暴力を防げるのか」は、今村仁司『清沢満之の思想』(人文書院)の批判的書評を中心とする。知の問題を論じながら、菱木氏は、「本来、縁起の理法とは、(中略)苦しみの原因と条件を考察し、それらを除去解体することによって苦しみを取り除き解放の道を歩む具体的な運動論であり、そういう運動のための道具としての知である」とする。これは清沢満之や今村氏がいうような「根源的な知(智慧)」とか「万物一体の相依相待の原理」というのとは、完全に対立する理解である。

さて、本書を一貫するテーマは「殺してはならない、殺させてはならない」である。「殺してはならない」は、自分の決意の問題であり、不殺生は仏教の第一の戒であるから、理解しやすい。従来の仏教者が語る平和とは、そのレベルであった。しかし、「殺させてはならない」は難しい。自分だけの問題に留まらない。現実に殺し合いがあって、そこに踏み入って「殺させない」ことは、観念的な「いのちをたいせつに」というスローガンでは力を持たないのである。では具体的にどうすればいいのか?菱木氏の答えは実につつましくしなやかである。「肩の力を抜いて軽やかに念仏を唱えて、反戦デモにも出てきて<しるし>を見せよう」(しるし、とは親鸞の著作に出てくる「世をいとうしるし」に由来する)そんな単純なことでは暴力は防げない、もっと根源的で究極的な原理が必要だ、という今村氏のような考えに対してはあっさりと、「不必要とは言わないが、趣味のレベルでやってくれ」と言い切る。ファナティックな誠実さはしばしば傲慢になる。それがむしろ暴力を生み出すこともあるのだ。

菱木氏のいう「解放の真宗」を理解する上で、比較対照されて良いと思われるのは、福岡精道氏(清水寺教学部長、のち勧学局長)の提唱する「解放の仏教」構想である。菱木氏のいう浄土とは批判原理であって、浄土を娑婆世界(穢土)において実現せよ、という主張ではない。娑婆はあくまでも娑婆である。それと対峙し続ける理念として浄土がある。福岡氏は、仏国土を娑婆において実現せねばならない、と主張している。

しかし福岡氏の教学的根拠は明らかとはいえない。清水寺は元来法相宗(瑜伽行唯識派)の寺であり(現在は分派して北法相宗本山)、娑婆世界も仏国土も識が作り出した幻影である、解深密からすれば一切は清らかな存在だ、とするのが公式の教義のはずである。しかし福岡氏の言う「この世を仏国土に」、すなわち浄仏国土あるいは霊山浄土という思想は法華経にみられるもので、特に日蓮宗において強調されるが、法相宗の教義と矛盾しないのだろうか。福岡氏は別のところでは「五姓格別説」(法相宗の公式教義であり、一切衆生悉有仏性を主張する天台宗と論争した)をもちだし、具体的な政治家の名前を出して、「彼らは成仏が絶対に不可能な無性種に属する」と決めつけているが、仏ならぬ福岡氏にそれを判定することがどうしてできるのだろうか。福岡氏が平和を愛し進歩を願う気持ちは分かるが、きちんと教学をふまえた主張でなければ説得力に欠ける、と思う。

本書データ/単行本: 261 p ; サイズ(cm): 20 ;出版社: 白沢社 ; ISBN: 4768479111 ; (2005/01)