社会的平等の原理としての仏教

- アンベードカル『ブッダとそのダンマ』を読む -

アンベードカル肖像 ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(1891-1956)。インド初代法務大臣で、「インド憲法の父」と呼ばれる。カースト制度の最下位(アウトカースト、不可触賎民)に生まれ、人間としての扱いを受けられない境遇の中で、その生涯をカースト制度の廃止と非抑圧カースト解放に捧げた。カースト制度を容認したガンジーとは激しく対立した。ヒンズー教の枠にとどまる限り、カースト制度の実態はなくならないことをさとり、晩年には、約三十万人の非抑圧カーストの人々とともに、集団で仏教に改宗した。インドにおける仏教復興運動(ネオ・ブッディズム)はここに端を発する。

以上の短いプロフィールによっても、アンベードカルがいかに傑出した人物であるかが分かる。彼の苦闘のすさまじさについては、『アンベードカルの生涯』(ダナンジャイ・キール著、山際素男訳、光文社新書)をぜひともお読みいただきたい。


山際氏はこの訳書前書きにおいて、次のように述べている。

『アンベードカルの生涯』表紙
彼と共に仏教に改宗した三十万人のインド仏教徒は今や一億に達するという。この一大奇蹟を生んだのがアンベードカルであり、また逆説的にいえば、そのような人間を生み出したのはカースト制とカースト社会であるといえる。(中略)
そのような存在が、その戦いの中から見出したのが仏教であり、畢生の書『ブッダとそのダンマ』である。だから日本のみならず、諸々の仏教国の既成の仏教教団、仏教者の信奉している"仏教"とは自ずから異質なものがあって当然といえよう。(中略)
彼は優れた"近代思想"としての人権、人間、なかんずく女性の平等性、などを含む民主主義社会の根幹をなす新憲法と、新しい人間復活としての"仏教"という偉大な遺産を残していった。(中略)
アンベードカルの仏教には"悟りがない"などという、悟りがなんであるのか知っているかのようなものいいをする人がいるが、己の人生とアンベードカルやその同朋たちの生涯を対比してみるがいい。

アンベードカルにとって、仏教とは何か?それは、彼の講演(1956年5月)のうちに端的に述べられている。

私は何故仏教を選んだか。それは、他の宗教には見られない三つの原理が一体となって仏教にはあるからである。すなわちその三原理とは、理性(迷信や超自然を否定する知性)、慈悲、平等である。これこそ人々がより良き幸せな人生を送るために必要とするものである。神や霊魂で社会を救うことはできない。

もちろん、アンベードカルの仏教がすべてではなく、それは仏教の一つの解釈だというのは確かだ。『ブッダとそのダンマ』は、かなりの程度において著者の主観を色濃く反映し、「アンベードカリズム」と評する人さえいる。しかしアンベードカルはガウタマその人ではないし、親鸞はアンベードカルではない。時代と社会の中で仏教を創造的に展開していく時、創造的解釈と逸脱とは紙一重の差でしかない。もっとも、逸脱と異端との間には大きな差があるのだが、私たちの周りには、何が逸脱で何が異端であるかを見分けれられないほどに異端が溢れているのかも知れない。

アンベードカルのような虐げられた階級に身を置いた者に、かつての仏教(異端化した仏教)であればひたすらの忍従を説いたことだろう。実際に、封建時代の日本仏教では、「前世の業」(宿業)を説いて、現世における貴賎・貧富ないし心身の障害は個人の前世における行為の報いであると教えてきたわけだが、それは実のところ、仏教ではなく、逆に仏教が批判したところの輪廻転生を前提とするバラモン教的な倫理世界観(業報輪廻)に基づく。アンベードカルが前近代的な身分差別と闘い、その経験から、バラモン教の後継たるヒンズーイズムを徹底的に批判し、仏教こそが社会的平等の原理として唯一受容できる宗教であるとして、自らの意志により改宗に踏み切ったことの意義は、とてつもなく大きい。翻って、今日の私たち日本人が因襲を批判する原理として仏教が機能し得ているのか、心許ない気がする。むしろ異端化した日本仏教は因襲を手助けしてきたのだから。

さて、本書は大部の著作であるが、平易な日常用語で語られており(訳者の山際氏は仏教の専門家ではなくジャーナリストである)、仏教にまったく素養のない読者も、きっと魅了されるのではないか。アンベードカルは仏教学者ではないのだから、専門的な教義や難解な仏教哲学はここでは語られることはない。直接にパーリ経典から引用しつつ、著者としての解釈を述べていく、というスタイルである。ただ、これは裏を返せば、著者の世界観(無神論、無霊魂論、反差別、合理主義...)を根拠付けるための引用、ともいえる。難を言えば、章節の構成にまとまりがあるとはいえないとか、出典がほとんどの場合明記されていないので読者は原典で確認するすべがないとか、言えばきりがないのではあるが、難点を補ってあまりある魅力に溢れている。

私が個人的におもしろいと思ったのは、第一部第一章から第四章まで、ゴータマ誕生からさとりに至るまでの過程が、文献的にではなく、著者の自由な想像力によって描かれている箇所だ。特に、「なぜゴータマは出家したのか」については、通常の仏教書でいうような「無常を感じて」という類いのこと(四門出遊の故事)はあっさり無視し、「隣国コーリヤとの間の水利権を巡る争いから、シャーキャ国の議会(サンガ)で主戦派と非戦派に別れ、主戦派が多数を占めたためにゴータマ家が迫害されそうになり、それを避けるために半ば追放処分を受けた形で出家した」と描かれる。従来の仏教の釈尊伝に慣れ親しんだ者からすると、とんでもない妄想かもしれない。しかし逆にいえば、四門出遊の故事はあまりにもゴータマをナイーブに描きすぎているという問題もある。そもそも、いい年になるまで老人も病人も死人も見たことがない、などということはありえないではないか。四門出遊にある程度の事実性があるとすれば、ゴータマが城外で見たものは老病死一般ではなく、虐げられ放置され無残に晒された老病死、すなわち社会的差別の典型的な現われだった、と私は考える(これは尾畑文正先生の受け売りだが...)。

アンベードカルは、初期仏教のサンガに社会の理想を見出した。真宗教団においていわれるところの「同朋社会」は初期サンガとは違うとはいえ、人間が人間を見出しつながりあっていく、という理想においては同じことだ。強者vs弱者、貴人vs賎民、支配者vs被支配者...といった上下関係においてしか、かつての日本人は生きてこなかった。日本において、その上下関係を打ち破り、水平的連帯を打ち立てた初のケースは、おそらく真宗である(長続きしなかったとはいえ)。そういう伝統を背負う真宗門徒としても、私はアンベードカルの理想、彼の仏教観に心からの感銘を覚える。

本書データ :『ブッダとそのダンマ』アンベードカル著,山際素男訳、三一書房刊,1987年,ISBN4-380-87202-5,A5判 ,433頁,2900円(税別)