本願他力の宗教倫理                                                                                                     辻    友久 本願他力の宗教倫理 目次 第一部 本願他力の宗教倫理 第一章    本願他力                    3 頁 第二章    有限と無限                   11 頁 第三章    因果性と法則性                 15 頁 第四章    悪と深信                    19 頁 第五章    宗教倫理                    23 頁 第二部   補論 第一章 ユダヤ教、キリスト教の宗教倫理         25 頁 第二章    仏教自力門の宗教倫理              27 頁 第三章     マックスヴエーバーのプロテスタンテイズムの   29 頁    倫理と資本主義の精神について 第四章    現代の哲学者、エマニエル:レヴィナス      33 頁                                                               おわりに                           35 頁 第一部   本願他力の宗教倫理      第1章  本願他力 真実の教え、浄土真宗  親鸞は「教行信証」で浄土の真実の教えは大無量寿経であり、行は南無阿弥陀仏の名号、信というのはその名号を信ずること、証というのはそれによって得るところのさとりのことであると記しました。 大無量寿経は釈迦が阿難を相手に阿弥陀仏の本願を説かれたものであります。阿弥陀仏が浄土を建立され、その浄土に衆生が往生することを明らかにした経典であります。阿弥陀仏がもと法蔵菩薩であったとき、世自在王佛のもとで一切の衆生を救いたいと願われ48願の大願を起こし、長載永劫の修行によって阿弥陀仏になられたことを明らかにしました。 衆生が浄土に往生する正因は、ただ弥陀の名号を聞いて信心歓喜するより他の道が無いことを明らかにしました。 釈尊の出世の本意が記されております。「教の巻」に「この経の大意をいえば、阿弥陀仏がすぐれた誓願をおこされ、ひろく法蔵をひらいて、愚かなる凡夫を救うために、功徳の宝である名号を成就された。釈尊がこの世にあらわれて、一代の教えを説かれたのは、真実の利益となる弥陀の本願を説いて、一切の衆生を救わんがためであった。ゆえに、弥陀の本願を説く事がこの経の主要であり、弥陀の名号がこの経の本質であるといわねばならぬ。」。  釈尊がこの世に出たのは弥陀の本願の教えを、弥陀の意を解して一切衆生を救うために、その法として弥陀の名号の選択と回向成就が、如来の本願として、月を指し示しその恵みを広めようというこの一点にありました。 釈尊の求道が釈尊一人のみが、無上尊になり成就することでなく、全ての人々が無上尊になること、一人一人の命が取り替えられることが出来ない尊厳をもっている無上尊になること。  親鸞はそこに釈尊出世の本意をみました。 また、親鸞は「大無量寿経」の顕す仏教を弥陀と釈尊の二尊教と捉えました。 「信の巻序」で「釈迦如来の真実の教えに従い、三国七高僧の宗義をうかがい、ひろく三部経の教説をいただき。」 真実の教えを明らかにしました。  親鸞は大無量寿経の第18願を至心信楽の願と名づけて、信心の成就を誓う願として領解し、至心:信楽:欲生の三信は往生の正因である信心を三つとしたものであります。本願のいわれを疑いなく聞いて信ずる心を信楽といい、如来の真実心によって与えられたものですから至心といい、信心はさらに浄土に生まれたいと願う心でありますから欲生というのであります。本願の三信は疑いの挟む余地のない真実心でありますから、それは信楽一心に納まるものであります。 真実信心を発することを喚かける願であります。しかし 衆生の一人として親鸞は自らの経験から、また、衆生の迷いの中に自らを没して法蔵菩薩がその因位の時に誓願を発したことを思い、真実信心を発し得ない衆生に対しての如来自らが衆生になって真実信心を開こうとする誓願であることを親鸞は尋ねあてました。 親鸞は大無量寿経第十八願の成就文として読み直して、「あらゆる人々が、その名号のいわれを聞いて信心歓喜するとき、その一念の信心は仏の真実心からあたえられたものであるから、浄土に生まれたいと願えば、たちどころに往生することのできる身にさだまり、そのまま不退転の位に住するのである。しかし五逆罪を犯したものと、正法をそしったものはこの限りではないと。」。諸有衆生、一切の衆生を救済の対象とし、その根本は親鸞を含めた凡夫のための教えで、信心というものは如来から頂くもので、それは凡夫が自身で起こすところのものでありません。すなわち他力回向であり如来が第十八願で誓われた至心:信楽:欲生の三信を一つの信楽に入れ込んで回向したものです。 称名念仏  親鸞は諸佛称名の願とは大無量寿経の第17願の事で、「もしわたくしが仏になるとき、十方世界のかずかぎりない諸佛たちが、ことごとくわたしの名をほめたたえないならば、わたくしはさとりを開かないと。」 阿弥陀仏の因位のとき、南無阿弥陀仏の名号一つをもって一切の衆生を救いたいと誓われ、さらにそれを十方の諸佛にほめてもらいたいと誓われたのです。 諸仏によって称名:称讃された名号が衆生の浄土に往生する真実の行業であることしめされ、また、阿弥陀如来が選択摂取された行に他ならないことをしめされたのであります。 親鸞は念仏を大行と言い、南無阿弥陀仏という称名して自らに現れている深い目覚めを大信と言い表しております。大行:大信の獲得によって開かれた仏道を浄土真宗と呼んでおります。   いずれの行に励んでも仏になることの出来ない罪悪深重の我が身を念仏の智慧によって人の計らいによる行でなく、むしろ計らいを破る念仏は穢土のそらごとたわごとのなかにいる人間に浄土という真実の世界を開かしてくれる行であり、すべての衆生の往生道として選び取られた選択本願の行であり、それは阿弥陀仏の本願が衆生の念仏となり、その念仏する衆生を往生の一道に立たせしめる大行であるからです。選択本願の行と信は別のことでなく、よきひとに、遭うことによって獲得した信は、必ず念仏として現れるそれを親鸞は大行:大信として顕わしました。 念仏をとなえることは衆生の一切の無明を破り、衆生の一切の志願を満たす事であります。ゆえに称名はもっともすぐれた行であり、それが念仏であり、南無阿弥陀仏の名号であり、そのまま信心であります。無明のまどいをひるがえして、無上涅槃のさとりをひらきます。 竜樹は「難行道と易行道の二道を示して、難行に堪えられない凡夫には信方便の易行を説かれ、念仏の道に立つことを説かれました。大乗の仏道、自利利他の道を自由に行き来する不退転にいたろうとする凡夫に恭敬の心をもって佛の名を正念することが自然の境地に入らしめる。」と述べています。阿弥陀仏の本願を深く憶念すれば、凡夫はおのずと、そして同時に、必ず仏になるべき身と定まり、如来の大慈悲弘誓の力によって、必ず菩薩の世界に入らしめられる。つねに阿弥陀仏の名を称念して、如来の恩徳に報いたてまつれと、勧めているのであります。 天親は「名号すなわち大行の意味を示して、法蔵菩薩の五念仏の行を成就され、自利と利他、すなわち衆生に功徳を施させる利他の行も成就して、すみやかに無上道の佛果を成就されたのです。阿弥陀仏の本願力を信ずるものはむなしく生死にとどまることなく、すみやかに功徳の大宝海を満足させいただけるのでありますと」。 曇鸞は「佛の願力によってかの清浄な浄土に往生し、佛力の住持によってただちに大乗の正定聚の位に入ることが出切る、その正定聚というのは不退の位のことを」明らかにしています。 善導は「一切善悪の凡夫が浄土に往生するのは阿弥陀仏の大願業力によるもので最上のものであります。 南無ということは帰命と訳し発願回向の意味であります。阿弥陀仏というのはすなわち行であり、必ず往生できるということであります。 往生を願う念仏者が生命を終わらんとする時、日ごろから願力を納めているのでたやすく往生できえるゆえに摂生増上縁といいますが、一方、あらゆる善悪の凡夫に自力の心をひるがえさせ、本願の名号を信じて称念して、残らず往生させることが出来るのを証生増上縁といいます。 無明の迷いの因果を滅ずるのは、弥陀の名号であります。他力の念仏によって浄土に往生し、真如の門に入ることが出来る。」と説いております。   親鸞は教と機について、「念仏と諸行を比較して、念仏の法は絶対価値であり、本願の一乗海は功徳を円融して満足し、さとりは極速、無碍、絶対不二の教えであります。本願の一乗海の機は、金剛の信心は絶対不二あります。また、敬って往生を願う一切の人々に、本願に誓われた名号すなわち、弥陀の本願は、一切の人々を三界の迷いの城から救い出して、二十五有という迷いの門を閉ざし、真実の報土に往生するようにされ、よく道の正邪の見分けをつけさせられ、よく愚痴をなくして本願海に入らしめられるのであります。ひとたび浄土に往生すれば、一切智のさとりの船に乗って迷いの海に現れられ、福徳と智慧を円満にして、方便の法を説いて衆生を化益されるのであります。誠にあおぐべきであり、いただくべきであります。」と説いています。行の巻の最後の処で再び弥陀の誓願について記しております。「真実の行信と方便の行信とがあります。その真実の行を誓われたものが第17願の諸仏称名の願であり、その真実の信を誓われたのが第18願の至心信楽の願であります。これがすなわち選択行信であります。その救われる本願の対象は、一切の善悪大小の凡愚であり、またその往生は難思議往生であります。また佛土は報佛報土であり、これがはかりがたい弥陀の誓願の不思議であり、真如法性にかなった一乗海で、それが大経に説かれている宗致であります。他力の本意を開顕した浄土真宗の教えであります。」。 二種の回向: 往相と還相  親鸞は教の巻で「つつしんで浄土真宗の教えをうかがってみるに二つの回向がある。一つはわたくしが浄土に往生してさとりをひらかせてもらう往相の回向であり、二つは浄土からこの世界からかえってきて他の人々を救うという還相の回向である。その往相の回向については真実の教行信証がる。」。衆生が浄土に回向する往相と往生して佛になり、衆生を救うためにこの世に帰ってきて利他教化する還相、それら二つの回向も弥陀本願の他力回向によってなされます。 自力回向とは一般には自分の善を他の人々にほどこして、それによってともに浄土に向かう事を云います。往相の回向のみで、これを聖道門の回向と言っております。 天親は「五功徳の果を得て、自利利他円満にして、無上仏道を成就することを明らかにしてものであります。」が、曇鸞はそれもう一歩進めて、「愚悪の凡夫は元来その心薄弱で堅固な一心を確立することが出来ず煩悩妄信に妨げられて五念の清浄な行を起こすことが出来ない。弥陀如来の深重な大悲はこうした凡夫のために、願を起こして行を修して、真実の一心と清浄の五念の行とを成就して、これを凡夫に回向したのであり、安心起行ともに凡夫自力の発起するところでない。すなわち、天親の一心五念の因を行者の修するものとせず、阿弥陀がすでにこれを成就して凡夫に与えたまう。」と解釈いたしました。二つの回向が、衆生が浄土に往生すること、また、浄土からこの地に帰ってきて衆生を済度教化することを、それらがまったく、阿弥陀の他力回向によってなされるということを、さらに一層明らかにしたのが親鸞であります。 信の巻で「いままで述べてきました往生の行も信も、一つとして阿弥陀如来の清らかな願心から回向してくださったものでないものはない。ゆえにわたくしたちが浄土に往生することの出来るのは、因があって初めて往生することが出来ます。その因というのは他力回向の信心で、この因のほかに他の因があるのではないことをよく知っておくべきです。」 証の巻で「阿弥陀如来の大悲心の回向によって与えられる利益である。ゆえに衆生が浄土に往生する因も果も、すべて阿弥陀如来の清浄な願心によって成就されたものである。このように往生の因が清浄であるから、浄土の果もまた清浄であるといわねばならぬ。」「二つには還相の回向というのは、浄土に往生したものが、他の衆生を教化するはたらきをいう。すなわちこれは、第二十二願の必至補処の願に誓われているもので、還相回向の願ともいう。」。 そこで曇鸞の「浄土論註」を引用して還相回向を明らかにしています。 * 浄土と仏と菩薩との三種荘厳の功徳成就は法蔵菩薩の願心によって成就されたものであり、みな大乗の正定聚に入って清浄の法身を得ることができます。還相という証果も佛力の成就であります。これを浄入願心と言っております。 * 浄土の菩薩が柔軟心をおこして三界の衆生の虚妄のありさまを知り、これを救いたいという真実の慈悲を起こし迷える衆生を救済し、善巧摂化するのであります。 * 智慧、慈悲、方便、によってあまりの恵みで心が遠離する、菩提心の得の妨げになることから離れること、これを離菩薩障の心であります。 * 菩薩はこのように菩提を妨げるこの三種の法を遠離して菩薩の心を満足させる無染清浄心、安静浄心、楽静浄心をもつこと、これ順菩薩門を説いております。 * 無染清浄心、安静浄心、楽清浄心は三種を一つにまとめると妙薬勝真心となり無上菩提心、一心となる。これすなわち名義摂対となります。 * 身業:口業:意業:智業:方便智業、この五種の功徳はよく清浄佛土に生ずることができ、この五種を和合して往生浄土の法門にかなって自由自在の業が成就でき、すなわちこれを願事成就といいます。 * 漸次に五種の功徳が願事成就して還相の菩薩が衆生を済度することは自由自在で済度しておきながら済度した思いがないような遊戯のような感覚で衆生を救済する、これは弥陀の本願回向によってなされるものであり、自利、利他の行が満足して還相のはたらきがなされる教化地、第五の功徳相:利他満足といいます。  親鸞は証の巻の総結の文として、「 釈尊の言葉より大涅槃をさとるということは阿弥陀如来の本願力の回向によるものであり、浄土からこの土に返ってきて衆生を救うという還相の利益は阿弥陀如来の衆生摂化の本意であります。天親は娑婆世界の人々を導いてくださり、曇鸞は往相:還相の二回向はともに弥陀如来の大悲回向によるものであることを示し、他力の深いわれ:他利利他の深義を述べられました。」。往還二回向は真宗教義の重要な要素であり特に還相回向は親鸞が独自によりあきらかにしました。 自力と他力  親鸞は信の巻で「菩提心について二つの種類がある。一つには竪(自力)であり、二つには横(他力)である。またのの竪の中に二つの種類がる。一つには堅超、二つには堅出である。そしてこの堅超と堅出の中に聖導門の教えがある。これらは長い時間かかって遠まわりをしてさとりを開く菩提心で、自力の金剛心であり、また菩薩がおこすところの大心である。また横の中には二つの種類がある。一つには横超、二つには横出である。その横出というのは、正雑の二行や定散の二善を修して往生を願うもので、他力の中の自力の菩提心をいう。横超というのは、弥陀の願力によって回向されるところの他力の信心をいい、これまた佛になりたいという願う心でもあるから願作佛心ともいう。この願作佛心がとりもなおさず他力の大菩提心であり、これを横超の金剛心ともいうのである。まちがった雑行にかかわることは誤りであり、真の道を疑うことは過失である。」。 すなわち、 堅出――――難行道の自力聖道門    証果が遅く得られる教え  法相、三輪の教義 堅超――――難行道の自力聖道門    証果が早く得られる教え  真言、天台、華厳 横出――――易行道の浄土門      自力念仏   「観経」、「小経」の顕説の立場 横超――――易行道の浄土門      他力念仏   「無量寿経」の教え 二双四重の教判を示しました。  親鸞は「尊号真像銘文」にも、「よこは、よこさまという。よこさまというは如来の願力を信ずるゆえに行者のはからいにあらず。五悪趣を自然にたちすて、四生をはなるるを横という。他力ともうすなり。こえを横超といふなり。------横超はすなわち他力真宗の本意なり。」と述べられ、他力真宗の地位を確立し、この他力信心が大菩薩心であることを明らかにされたのであります。 行の巻で「南無阿弥陀仏の名号は不回向の行であり、念仏は自力の造作でなく、自力を捨てて他力に帰することが、経:論:釈の一貫した本義であります。 如来回向の大行によって衆生は浄土に往生するから、大行は如来からの回向のもので、衆生はまったく不回向のものであり、ゆえに衆生が自力によって修した功徳をさとりに振り向けて往生を願ってもそれは自力の行にもなりえないのであります。不回向の行といわれるわけであります。」。「おおよそ往相回向の行信について考えるのに、行には行の一行があり、また信には信の一念があります。その行の一念というのは、名号を称える称名の最初の一声に選択本願の他力至極の法の働きがあります。」 「他力と言うは、如来の本願力なり。」 曇鸞の「浄土論註」を引いて他力を明らかにます。「本願力というのは法蔵菩薩がさとりの中で、種々の身、種々の神通、衆生の説法をして衆生を救うために願心を起こしました。法蔵菩薩は四種の門に入って、自利の行を成就して、それをなした自利によって利他をすることが出来るようになりました。第五の回向門において功徳を回向される利他の行を成就されました。それら全ては衆生利益でないものはなかったのです。自利することで利他をすることが出来、利他することによって自利がなり、法蔵菩薩はこのようにして五念の因行を修して自利利他を満足し、阿耨多羅三脈藐三菩提を成就されたのであります。仏のさとられた法を阿耨多羅三脈藐三菩提といい、このさとりを得られたというので仏といいます。阿耨多羅三脈藐三菩とは無上正偏動と訳しております。どういうわけで「浄土論」に、阿耨多羅三脈藐三菩提を成就したまえりというのかと問うて、法蔵菩薩は五念の行を修して自利利他を成就した故であると答えています。衆生が佛果を得るその根本を明らかにして、推し量ってみれば阿弥陀仏のすぐれた因縁となってくださったからであります。他利と利他とはその表現のことばに相違があります。仏の方からでは利他であるべきで、いまは仏力をいうのですから利他といわれたのであります。衆生からして言えば他利ということになります。衆生が浄土に生まれ、そこで聖衆が起こす諸行も、みな阿弥陀仏の本願力によるものであります。もし仏力によるものでなかったなら、48願いたずらに設けられたのでしょうか。第18願に仏の願力によるからただ念仏して往生が得ることが出来、往生を得るから三界に流転しなく、速やかに仏のさとりを得ることが出来るのであります。第22願は仏の願力によるから常なみに超え、諸地の行も現れ普賢の徳を修めることが出来るので速やかに仏のさとりが得ることが出来るのであります。こいうわけで、如来の本願力すなわち他力のすぐれた因縁であるということがわかります。」。   自利と利他  天親は『浄土論』で「本願の三心を一心とされ、一心帰命の信の上に」、さらに「法蔵菩薩は五念仏の中の前四念(礼拝、讃嘆、作願、観察)を修し、第五の念仏(自然におこる慈悲によって、名号の功徳を一切の衆生に回施する事)、自利の行を成就させ、それによる四功徳(安楽浄土に生まれる事、浄土の聖衆の数に入る事、如来のさとりの世界に入る事、法味楽を受ける事、)第五の功徳(大慈悲をもって一切の苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の世界に還り苦悩する衆生を教化していく事)で衆生に功徳を施させる利他の行を成就し、自利と利他の行をし、すみやかに無上道の佛果を成就する道に立つことができる。」と説きました。  曇鸞の「浄土論註」を引いて「法蔵菩薩がさとりの中で、種々の身、種々の神通、衆生の説法をして衆生を救うために願心を起こしました。法蔵菩薩は四種の門に入って、自利の行を成就して、それをなした自利によって利他をすることが出来るようになりました。第五の回向門において功徳を回向される利他の行を成就されました。それら全ては衆生利益でないものはなかったのです。自利することで利他をすることが出来、利他することによって自利がなり、法蔵菩薩はこのようにして五念の因行を修して自利利他を満足し、阿耨多羅三脈藐三菩提を成就されたのであります。」。巻末において、「どういうわけで「浄土論」に、阿耨多羅三脈藐三菩提を成就したまえりというのかと問うて、法蔵菩薩は五念の行を修して自利利他を成就した故であると答えています。衆生が佛果を得るその根本を明らかにして、推し量ってみれば阿弥陀仏のすぐれた因縁となってくださったからであります。他利と利他とはその表現のことばに相違があります。仏の方からでは利他であるべきで、いまは仏力をいうのですから利他といわれたのであります。衆生からして言えば他利ということになります。衆生が浄土に生まれ、そこで聖衆が起こす諸行も、みな阿弥陀仏の本願力によるものであります。」と説いています。 親鸞は信の巻で、真実信心によって獲る十種の利益を挙げ、「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣:八難の道を越え、必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸佛護念の益、五つには諸佛称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心他歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚には入る益なり。」 冥衆護持の益とは、人間の精神性か暗闇にうごめく冥衆への怖れから解放されることであり、至徳具足の益、転悪成善の益とは、至徳の名号が悪を転じて善となすことであり、諸佛護念の益、諸佛称讃の益とは、諸佛によって育まれることであり、心光常護の益とは、如来の心光に摂取せられ照護されることであり、心他歓喜の益とは、求道の要求が深く充足されることであり、知恩報徳の益とは、忘恩の徒であった者が恩徳を知る身に転生されることであり、常行大悲の益とは、真実信心によって如来の大悲の行に参加する身とならしめられることであり、入正定聚の益とは、まさしく仏となるべきともがらとなるということであります。 この十種の利益の要は第十の入定聚の益であります。金剛の信心を獲るとき、二度と迷いの世界に退転する事がなく、必ず如来の証りにいたるべき身となることであり、しかもそれは、決して遠い未来に獲る利益でなく、この現生において獲得される利益であります。 摂取不捨の利益の意味を現生不退:現生正定聚として明らかにいたしました。 真宗における現生利益として上記の現生利益を信心の利益としてあげていますが、これはあくまでも信仰による精神的な利益をいっていますのであって、物欲的な現生利益をいっているのではありません。呪術的な、非合理的な、因果の道理を無視した、人間の努力を否定した、非科学的な、迷信的な現世の物質的な欲求をすることを現に厳しく批判しております。 さらに、信の巻で「{真佛弟子}と言うは。{真}の言は偽にたいし、仮に対するなり。{弟子}とは釈迦:諸佛の弟子なり。金剛心の行人なり。この信:行に由って、必ず大涅槃を超証すべきがゆえに、{真佛弟子}と日う。」。信心の行者、他力の信心を得た人は他力回向信行によりて、まちがいなく涅槃のさとりをひらき真佛弟子となりますと説いております。 親鸞は証の巻の冒頭、「必至滅度の願」「難思議往生」で、それは難思儀往生であることを述べております。この往生定聚と必至滅度との二つの願が誓われていますが、他宗にあっては往生定聚の願と名づけて衆生が浄土に往生してただちに正定聚に住し、やがて滅度をさとるという、これを彼土にとって解釈していますが親鸞は他宗と違って他力の信心を得たならば直ちにこの世で正定聚に住し、さらに生命が終わり次第に浄土に往生し、そして直ちに滅度をさとると解釈しております。さらに難思議往生をあげていますのは往生即成仏という立場から、はかり知ることが出来ない往生であることを明示しております。 証の巻の巻末で、曇鸞の「浄土論註」還相回向の第九文を再度引用して、「漸次に五種の功徳が願事成就して還相の菩薩が衆生を済度することは自由自在で済度しておきながら済度した思いがないような遊戯のような感覚で衆生を救済する、これは弥陀の本願回向によってなされるものであり、自利、利他の行が満足して還相のはたらきがなされる教化地、第五の功徳相:利他満足といいます。」と総結の文として、「しかれば大聖の真言、誠に知りぬ。大涅槃を証することは、願力の回向に藉りてなり。還相の利益は、利他の正意を顕すなり。ここをもって論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。」。釈尊の言葉より大涅槃をさとるということは阿弥陀如来の本願力の回向によるものであり、浄土からこの土に返ってきて衆生を救うという還相の利益は阿弥陀如来の衆生摂化の本意であります。天親は娑婆世界の人々を導いてくださり、曇鸞は往相:還相の二回向はともに弥陀如来の大悲回向によるものであることを示し、他力の深いいわれを述べられました。往還二回向と自利利他は真宗教義の重要な要素であり特に還相回向と利他:他利は親鸞が独自に明らかにしたものです。   第2章  有限と無限 有限と無限の同一性  日常の生活の忙しさにかまけてなんともなく生き永らえているとき、病:老:死という思わぬ不幸がわが身の近くに及んだとき、また、自分の人生の生きている意味を深く考えるとき、この生きている社会が有限であり、その中に生きている自分も有限である事に気付きます。有限である人間、その自分の確かな根拠を求めることが宗教の出発点になります。 有限である人間がいつまでも有限でありたい、それは生病老死=人間の寿命=無常から言って矛盾であります。有限は無限でなく、無限は有限でない。両者はまったく異なる世界であります。この二つの異なった要素を認めることが宗教の始まりであります。しかしながら、有限が無限であり、有限と無限の関係がきわめて同一性でありたい、有限の領分を去って無限の境地に行きたい、これが宗教の最終目標であります。 有限の世界で有限の人間が無限とは何かと決して語ることは出来ません、沈黙しかないわけです。語りえないものを語るには、その媒体を必要といたします。釈尊の求道が釈尊一人のみが、無上尊になり成就することでなく、全ての人々が無上尊になること、釈尊は絶対沈黙を破り他者との関係、他者を必要としました。 釈尊一人が絶対智を正覚したと言っても、それは主観的のものであり、他から観れば錯覚:妄想と思われる可能性があります。 妄想でなく絶対智を受け入れるには、他の正気の人が理性的存在として正覚者としてこの世に存在する事が、主観的な自己確信から客観的他人の万人の絶対智になるとき、それが釈尊の到達した絶対智、正覚、無上尊を真実の意味で完全なものにすることでありました。 この意欲と釈尊の義務の願望が釈尊をして、弥陀の本願の教えを、弥陀の一切衆生を救わんがための思いに、釈尊は月に指を示してその恵みを広めようとしたのであります。 それが釈尊出世の真実であります。 その教えは親鸞の「教行信証」によって「大無量寿経」と示されました。 大無量寿経――― 真実の教え、 浄土真宗 大無量寿経は王舎城の耆闍崛山で阿難を対象に阿弥陀仏の本願を説かれたものであります。それは、如来浄土の因果、衆生往生の因果を阿弥陀仏が浄土を建立され、その浄土に衆生が往生することを明らかにした経典であります。如来浄土の因果とは、阿弥陀仏がもと法蔵菩薩であったとき、世自在王佛のもて一切の衆生を救いたいと願われ48願の大願を起こし、長載永劫の修行によって阿弥陀仏になられたことを明らかにしました。 衆生往生の因果が説かれ、衆生が浄土に往生する正因は、ただ弥陀の名号を聞いて信心歓喜するよりほかに道はないことを明らかにしました。 人間は有限であり阿弥陀仏は無限であります。 宗教では阿弥陀仏と同じ無上佛になることが希望であります。無限としての阿弥陀仏と有限な人間との間には絶対な深淵が横たわっております。この深淵を飛び越えて初めて、この世俗の世界に生きる無明、煩悩にまみれた存在からの脱却は仏陀の智慧を獲得する事です。阿弥陀仏による呼びかけ、有限への摂取の呼びかけ、それへの称名と念仏での応答、有限の円と無限の円とが呼びかけと応答が重なり合って、それが目覚めであります。 その目覚めの証言が自分に向かっても無限に向かってもその証が念仏ということになります。目覚めは絶対条件であります。有限が無限に帰命することであります。ここに有限と無限とは絶対的矛盾でありながら、有限と無限が絶対同一になる事です。 有限:無限と自力:他力  親鸞は信の巻で「菩提心については、横超というのは弥陀の願力によって回向されるところの他力の信心をいい、これまた佛になりたいという願う心であるから願作仏心ともいう。この願作仏心がとりもなおさず他力の大菩薩心であり、これを横超の金剛心というのである。」行の巻で「その行の一念というのは、名号を称える称名の最初の一声に選択本願の他力の至極の法の働きがある。」「他力と言うは、如来の本願力なり。」。  他力は無限であり、他力は有限的な物(生きている自然、人間を含む)とは異質であり、それを超えている。他力は他性であり、有と無とか有と非有とかは有限者の有限の世界の言葉であって、他力の他性は人間の言語表現を超えている、あえて言うのであるなら、「空」であります。  仏教の中には自力修業門と他力救済門とに分かれます。  自力門は現に存在する有限の我々の内部に無限を見て無限の本性と能力があると自力を奮励して修業によってこの潜在的無限を開発して展開しようとするものです。有限の内部であるため因果:因縁の法則があり、解決は世間から出世間になる事はできません。有限者はその修行中に時間が経てその達成が不可能になってしまいます。その達成が成されないゆえに心の安らぎも得ることができません。それ故に、自力修行は、計算された結果を得ようとして、即ち有限世界の中で有限な手段を持って救済しようとしても本来的に無限に属することを実現しようとしても不可能なことです。そこで非科学的な手段を取ってみたり、呪術的手法を取ってみたりします。  一方、他力門は有限の外部に無限があると信じて、無限の覚知をさとり、真覚の習性を知り、有限者自身の力を使うことでなく、無限、他力の顕在的能力を外部に見てこれに依拠して行います。全ての運動ないし活動は不可思議な他者:他力の働きにより、すなわち本願他力(阿弥陀仏による摂取不捨)への帰依によって、浄土往生をする事が出来るわけです。 有限世界に居りながら無限を認知して他力の恩恵をこうむり、生き生きした自分の存在を無限の心の中にゆだねて、心安らかにもたらすものと同時に、有限世界にある因果:因縁の世間に存する対他関係を新しい関係改善する。それは 阿弥陀が摂取不捨の行為を繰り返すのと同じく、他者を摂取することになります。有限の世界で無限の世界の媒体で新しい対他関係作ることは、無限の世界の理法:「法」ダルマ、「自然の哲学」「自然の弁証法」に依拠する真実の対他関係になります。他者迎え入れの倫理であります。  自力門の修行は自己への配慮だけであり、自己配慮は自分中心の配慮であり、他人との関係は自己配慮のための他人との関係になります。 そこには個人的モラル:徳目的道徳しか生まれません。倫理というものは生まれません。他力門のみが倫理を語ることが出来ます。 無限:有限と往相:還相回向(自利:利他) 親鸞は教の巻で「つつしんで浄土真宗の教えをうかがってみるに二つの回向がある。一つはわたくしが浄土に往生してさとりをひらかせてもらう往相の回向であり、二つは浄土からこの世界からかえってきて他の人々を救うという還相の回向である。その往相の回向については真実の教行信証がる。」。有限者である衆生が浄土に回向する往相といい往生して佛になり、無限より衆生を救うためにこの世に帰ってきて利他教化する還相、有限の現世内の他者との現世内関係持つ、すなわち、無限が自己を迎えたように我が、他者を迎え入れて、現世に於ける対他関係は、阿弥陀が我に振舞ってきたと同様に我個人がその反復を担います。それら二つの回向も弥陀本願の他力回向によってなされます。 本願の意味は浄土往生=往相と還相回向の統一であります。 一方、有限内世界で自己開発し自力で目覚めを得ようとするのが自力回向で、一般には自分の善を他の人々にほどこして、それによって浄土に向かう事を云います。往相の回向のみで、浄土門の自力念仏と聖道門の自力門がこれに当ります。 阿部謹也は「日本人の歴史意識」で、世間の否定を{世間:出世間}における{贈与:互酬}の関係で解説いたしておりますが、同じように現世の世界と無限の世界との間にも贈与:互酬の関係、贈与の論理があると同じく今村仁司も述べております。「無限に依る包摂、摂取、迎えを感じるとき人間はホスピタリテイと贈与の論理に厳密にしたがって必ず自己贈与を行うものである。それは無限の世界を訪問する礼儀作法である。 無限の阿弥陀佛による包摂、摂取不捨されて、無限内自己、(無我)に迎えいれられること、これに対して、必ず、有限としての人間:自分自身の存在を無限に贈与するものです。 無限との接触によって無限内存在なることは無我、すなわち無限的自己になることです。目覚めまたは正覚というものです。」この俗世間に生きる個人の自我は欲望に満ちた五濁の中にあり、他者と自我との闘争であります。現世の中の自我は悪人の源泉であります。 この悪人の自我から解放されたいのが自己であります。自己自身の何であるかを絶対的に知ること。諸行無常、諸法無我、諸法実相を通して自然の中に住む自己の本性:真実を開示して正覚を知ったとしても、ただ我一人の自己満足であるかもしれないし、自己確信であるかも知れない。つまり他者がそれを再確認するものでなければならない。自利は一人だけの正覚であるかもしれぬ。 主観的確信から客観的確信にならなければなりません。つまり、他者の確認を必要とします。 人間の言葉で言い表せない、それに答えるのが、無限の呼びかけが念仏であり、それに応答するのが念仏であります。それを行うのが慈悲であります。  無我としての自己のあり方は他者を迎え入れ、他者への抜苦与薬としての他者への働きかけ、他者の善悪を超えて他者を迎え入れること、自我から自己=無我への道は新しい他人関係を作ります。 他者配慮は自己配慮を基礎にした他者への配慮となります。他者配慮は自己配慮の絶対必要条件であり、絶対必須条件になります。 他者配慮なしに自己配慮が成り立ちません。 自利:利他は一つの事の裏表になります。 同時であり、同立でその行為が慈悲となります。 この慈悲は、俗世間でいわれるあわれみの感情でなく、自己と他者との苦痛からの解放の実践的行為であります。阿弥陀佛と同様に有限、往相回向、還相回向、有限世界帰還を無限の多数がこれをループのように繰り返します。無限と有限の架け橋を感じ取る事で還相を自ら再確認できます。絶対無限あるいは絶対他力が還相として帰還して有限性のフィルターを通過して無限的な性質を温存しながら有限世界の法則に従うとき、有限世界の中で無限他力がとる姿であります。 有限世界から往相:還相回向され正覚して、絶対無限に向かうこの有限世界に遊ぶプロセスを心安らかに楽しみ、この状態を相対無限と呼ぶことができます。 相対無限には条件に応じて作られた現実に有限の衆生を大悲の方便を施して、阿弥陀仏のように、衆生を教化する還相回向、即ち有限世界の浄化を自らも施され、対他関係にも施すという役目と、一方に絶対的無限に進むプロセス、それは自然界の法則、自然の弁証法、仏教の法=ダルマ、絶対的無限の不動の真理の知ることこれは有限世界では正定聚の境地に入ったことかもしれません。 人間が娑婆の縁が切れ、滅度のとき即、相対的無限から絶対的無限の世界へ移行、無上佛、無上涅槃、空 これらの移行は相対無限である阿弥陀仏の媒介で行われます。阿弥陀仏と無上佛、無上涅槃、空は地続きのようであり、阿弥陀佛も絶対無限ということになります。   衆生が自ら菩提心を起こして、優れた修行をして悟りを開こうと考えている自力聖道門の人々は、有限の中で諸諸の徳や善の修業を通して無限を迎え入れ、有限と無限の同一性を確保しようとしますが、結局のところ有限の中に無限を生み出す事は矛盾であり現世の中ではその同一性を作ることができず、悟りを開くことのできなく娑婆の縁が尽きるとき、臨終に来迎して浄土に往生したいという願に、また、十方の衆生が自力念仏をとなえて、それを因として浄土に往生したいという願いを、 それらを必ず果たしてやりたいという願、それらは方便往生であり、方便化土の往生といい、浄土に往生する事ができますが、浄土の過渡期、僻地の往生ということになります。 自力聖道門や自力念仏では修行が自己修行のみでおのれのみしか考慮していません。それで無限世界に入ることを考えているのですから、自己に対する徳目的道徳しか考えられません。 それに反して、無限、他力、還相回向は有限世界の出世間を考えております。自力門の俗世間を基礎にする人間関係、俗世間の中における道徳でなく、出世間の倫理の問題として提議されることになります。これが還相としての対他倫理ということになります。        第3章   因果性と法則性 横超  親鸞は信の巻で、「一つには横超、二つには横出である。その横出というのは正雑の二行や定散の二善を修して往生を願うもので、他力のなかの自力をいう。横超というのは、弥陀の願力によって回向されるところの他力の信心をいう。」「横超というのは、本願他力、真実円満の教え、すなわち真宗の教えがそれである。さらにまた横出というのがあるが、これは三輩:九品:定散自力の教えで、化土や懈慢界に往生する遠回りの善である。本願によって成就された清浄の報土には、位や階級などなく、一念のところに速やかに佛果菩提をさとるから横超というのである。」と記しております。  横超というは本願他力、真実円満の教え、すなわち真宗の教え。本願によって成就された清浄の報土には、無限の世界が開かれ、無上真道を証して下だされる。横超という横的、水平的関係、の万物相関の理法によって、必然的に、人間にも佛性が与えられるという事になります。それに目覚める、菩薩心、万物相関的に生きる、自然の法則、仏教の法(ダルマ)の下で生きる、我一人宇宙の中で唯一無比の存在として生きていく、有限の世界で、無限の阿弥陀仏に摂取不捨されて生きていく、それが横超の世界で生きて行くという事と思います。  釈尊は、原因だけでは結果生じないとし、間接的要因(縁)によって結果はもたらされるとする、因縁果。そこで、因果=因縁と呼ぶ法によって全ての事象が生じており、結果も原因も、そのまま別の縁となって、現実は全ての事象が相依相関として成立しているわけです。 釈尊は、「此があれば彼があり、此れがなければ彼がない、此が滅すると、彼が滅す。」と説いています。これは、此と彼とがお互いに相依相成しているのであり、それぞれ個別に存在するものでないことを言っていうのであり、すなわち有無によって示される空間的社会的にも、生滅によって示される時間的歴史的にも、すべての存在現象は、孤立でなく相互の関係によっての現象していることを説いたものであります。「一切のものはすべて独一存在でなく無我である。しかし、無我でありながら、無我のまま価値を持ち存在性を持ち得るのは、すべてが縁起の法である。此は彼に対して此であり、彼と対さなければ此は此でない。このような関係においてのみ存在は存在性を獲得すること出来る。」と説いています。 縁起の法の下に因果の法則があります。この二重性を既に釈尊の説いた教説の中に見出す事が出来るのであります。  明治に入り、浄土真宗の立場からこの問題に哲学的に立ち入ったのが清沢満之であります。彼は「宗教哲学骸骨」と「他力門哲学骸骨」の二つの小著で彼の言う有機組織論(清沢満之の弁証法)として、哲学的に、理論的に、縁起の理論の再構築を試みました。 その解説を今村仁司が致しております。それを参考にして私の考えを整理しています。 彼の生成の法則は、原因は条件とともに結果の中に発展してきました。有限世界の事象はみなことごとく変易の法に従い因(原因)と縁(条件)との二要素より果報(結果)生ずるとしました。 原因  |      条件---------------結果(原因)                           |     条件-----------------結果(原因)                                  |                     条件--------------------結果(原因)                          |                         条件--------------------結果(原因)                 また、有機組織論を述べています。 「有限世界の中では全てのものが相互関係の中にある。万物は個々のものとして生成する。この相関性はそのつどの条件(縁)との出会いの集合が万物相関論の意味であります。一個のものは、万物相関の空間的及び時間的連続の産物であり、相関の結果であるわけである。 万物は世界のあらゆるものの生産過程の結果であり、その要素は顕在的なものもあれば、潜在的なものもあり、可視出来ないもの、不在的で現前するものでありながら確固として捉えきれないもの、そのようなものを不在の要素の膨大な集積」として注目しました。 彼は因果論の中に二重の因果論を見出しました。「1)は、先なるものが後なるものを決定する。原因〜〜縁因〜〜結果  と言う演繹的方法と、2)は、後なるものが先なるものを生む。 結果〜〜縁因〜〜原因 と言う帰納的方法、結果から出発して世界を把握する方法、万物が結果であり、結果を生み出した生産過程へと視点を移して、結果の原因と縁因を分析的に取り出す。」これが彼の有機組織論の中の主伴互具論でありました。  万物の相関のなかで「主」として結果をすることもあれば、「伴」として結果することもあります。いやむしろ、万物はつねに同時に「主」たり「伴」たりとして存在すると、 又一方、事物は個別の観点から見れば、偶然の出会いの結果でありますが、よくよく結果を分析して原因と縁因を取り出し相関関係を再構築した場合、万物はつねに必然的相関関係にあることを有機組織論として理論化しました。ここで、二重性についてその対象が無機的自然一般の存在と、有機生命体とによって異なることを明らかにして、清沢満之の有機組織論をより解り易くする必要がでてきました。 万有が無機的自然一般である場合、万有の相関関係は水平的:横的関係で法則性の関係であります。法則性と必然性の関係であります。あるがままに存在し、事物は必ず必然的であり、時間と場所をどのように変更しても、永遠に事物の本質を変更しないまま存在すると云う事です。 因果性は有機体生命体にのみ有効であります。それは垂直:竪の関係であり、原因と結果はその作用原因=条件があれば必ず結果を生ずるものであります。 もう少し大胆に云えば、縁起の法則性:必然性を基礎としてその横の法則性の上に原因:結果の竪の因果性を重ねて、有機組織論を語れば、自然宇宙万物を動かすものがあります、それは、自然の法則であり、それが絶対他力であり、親鸞は横の法則と竪の法則を教行信証で上記に引用した信の巻の中で「横超」で言い表しております。  上記の因果:因縁と縁起を現代の科学分野の区別を入れて大胆にまとめて見ますと もう少し分りやすくなります。 科学というものには、自然科学、社会科学、人文科学の三つの分野が在ります。その中で自然を扱った分野にさらに三つの分野に分けることが出来ます。 1)自然の中での無生命体  ------------------- 無機質自然界 2)自然の中での人間を除く、生命体---------- 有機質自然界 3)人間、この特殊な動物------------------------- 有機生命体の特殊なもの人間 1)は自然の物質、宇宙、等 の無機的自然科学の学問。2)は有機的生命体(人間を除く)の学問、 1)と2)は自然の中に絶対的な法則が貫かれている、自然の法則、自然の弁証法の下の世界であります。 3)は生命のある動物の一種に過ぎないものありますが、全く特殊な動物である人間、それを扱う学問、それは別枠で既に社会科学、人文科学として扱われております。 2)と3)は宇宙万有のなかに、有機質生命体が出現している世界、そこには 垂直、竪の関係。 有限の世界、相互=相依の関係の世界、そこには原因があって条件=作用原因=起生原因があれば、それを因果性と呼び、必ず結果を生ずる。 しかし、3)特殊な動物、人間は単なる有機質生命体の領域でないのであります。因縁の法則性と因果性を分けて考えますと、自然の弁証法と相互反応行為とに分けられます。 A) 万物が相依相関関係にあるときはつねに法則性と必然性があります。自然の弁証法が貫徹しているわけであります。 しかし、B) 行為する生命体が相手に働きかけ(客体)それを変形し、別のものにする変形行為は行為する主体をも変形変換するという主体と客体相互に共同して変形変換するという、主体が客体に相互反応行為をしてその結果新しい主体が出来、又新しい客体が、これの行為によってあれが生ずる。 この行為は人間の自由な行為がなされ、特殊な動物である人間社会では、因果性に対して自由な行為が加わり、目的論的意図的な行為に基づいた独自の(したがって単に生物学的な=自然弁証的な因果関係でなく)因果性が成り立つのであります。 仏教には「悉有佛性」すべての万有には佛性があると言うことです。しかしながら、この特殊な動物、人間のみが佛性を持ち合わせておりません、まさにそれ故に人間だけが例外的に精神的に佛性を求めねばならない。これが宗教、仏教なのであります。人間の世界は、時間的であり、歴史的であり、空間的であります。人間のみが自由な行動を起こし、目的:意識的行為が働いて独自の結果が生まれ、自然の絶対的な法則から外れた行為を続けているのであります。人間は自己意識があるために、自己の行為を自覚し、現在の自己を先行過程の結果として自覚し、自己としての結果に至る過程を遡及的に理解します。そのとき、原因は過去性を、結果は現在性(と未来性)を示します。厳密には人間は時間と歴史を持っており、特殊な動物である人間は、行為をし、自覚をし、それを契機として過去全体の認識までに至ります。それぞれの事情に応じた角度を持って収斂するのであります。すなわち、3)、と B)の立場に立っていることになります。 人間以外の存在者はすべて佛性のまま生きています、いまさら目覚める必要が無いのであります。人間以外の存在者は既にして仏陀であるのです。 他の存在者のようにあるがままに生きられない例外的存在者、人間。人間存在の悲しみ、人間のみが佛性の中に生きていない、自然的宇宙論的な法則の認識、それは1)の自然の法則の確認であり重要な事でありますが、 自然の法則を悟性的科学的に認識する我、その我が一体何者なのか、その我を把握する事のできない我、そこに自己矛盾があり、アプリオがあります。縁起の法の下に因果の法則、縁起と因果の二重性を形成しているのであります。それを宗教的認識に目覚めること、これには不可思議の世界を超えていく媒体が必要であります。これが仏教であります。大経の世界であります。      第4章    悪と深信 人間そのものの悪性  自然宇宙の生成の中で有機生命体が一番遅れて到来しました。 その有機生命体の中でも特殊な動物である人間が自然世界に一番遅れて到来したと考えて、それを取り返すために自由な行動を起こし、目的意識的に行動を起こし、人間以外の有機生命体の生命を奪い、自己の生命を維持してきています。 欲望を満たすために、他の有機生命体を排除し、脅かし、自己の優越性を誇示して、それをもって人間の存在をアッピールし、自然宇宙世界に挑戦しているのが人間であります。人間存在が根源的悪でもあることを深く心に留めておかねばなりません。他の有機生命体のように自然の法則に従って生きていけない、自然宇宙世界の中の唯一つの例外的存在者、人間存在そのことが悪である事の自覚なくしては、涅槃経の「一切衆生 悉有仏性」「一切の衆生はことごとく仏性がある」と記していますが、人間には仏性がなくなっています。そこで、教行信証の信の巻で涅槃経より引用していますように、「一切の衆生はやがては必ずこの大信心を得るので、一切の衆生はことごとく仏性があるといったのである。ゆえに大信心を仏性と名づけ、仏性もまた如来と名づけたのである。」と、自然の掟を知り、自然の法を知り、大経の大信心を得ることなくして、一切衆生の仏性はないのであります。 教行信証の信の巻で涅槃経より引用して、「闇は世間のことであり、明は出世間のことである。また闇は無明のことであり、明は智明であると説いている。」「一切の衆生は久遠のむかしから無明の迷界にさまよい、さまざまの迷いの境界に沈み、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽もなければ、真実の信楽をおこすこともない。こいうわけであるから、この上もない功徳のこもった名号にあうこともできず、すぐれた信心を得ることもできない。一切の凡夫はあらゆる時に、貪愛の心によっていつも善心がけがされ、瞋憎の心によっていつも法財が焼かれてしまう。頭の火をはらいおとすように、あわてて善根を積んだところで、すべては毒のまじった修行で、うそいつわりの行といわれ、真実の行業といわれないのである。」 法然も「罪悪有力 善根無力」、「人間の悪しき性根はいかにしても拭い去りえないほど強力であるのに対してその善根は脆弱で確固とした基盤をもちえない」と述べております。 親鸞は末法を生きる一切の衆生は無明の闇の世間をさ迷い歩き、善性のかけらもないのが、それが人間の本来の姿であると考えました。 人間の意志を超えたいかんともしがたい、人間にまつわる悪はこの世間の中の絶対存在だと考えました。  明は出世間であり、それは智慧であり、目覚めであります。 無限である阿弥陀如来による包摂が、迎え入れることが既に用意され、成就され、摂取不捨の状態にある事が、我々には気がついていない、目覚めていないのであります。 現世の人間が既に成就している摂取不捨の状態を知らないのは、五濁悪の俗世間に溺れ無数の煩悩に汚染されて、そのなかで安住しており、無明と光明を取り違え、悪を善と取り違え、真実と不真実取り違え、 正義と不正義と取り違え、自分は知性も教養もあり、道徳的に常に正しい、一般大衆よりも優れて善人であると思い上がり、それが他人と違うという欲望となり、世俗社会でその欲望が益々肥大化していくのであります。 その欲望は他人も同じ欲望を起こしますので必ずお互いに衝突を起こしていくものです。 その欲望の達成のためには、さらに不自然に貪欲に追求していきます。 欲望欲求を多く達成したものがその世間の支配者階級として君臨するものです。彼らは自らを悪人とは決して自覚しない人々であり、賢と愚、善と悪、の価値判断はその時代の歴史的、社会的制約の中にあり、一般に錯倒することが多くありました。 上記の三通りの悪、人間の悪は存在としての悪、煩悩として内から出てくる悪、その歴史的社会的制約から発生する悪、本質的にすべての人間は悪人である事に自覚する事であります。摂取不捨、迎えられて生きている状態にあることの機が待たれているのであります。 悪人正機  教行信証の化身土の巻(二十願、真門の機)で、「およそ大乗小乗の聖者たちやすべての善人たちは、本願の名号を称えてそれを自分の善根とするから、まことの信心をおこすことができず、また不思議の佛智を了知することができないのである。すなわち阿弥陀如来が浄土往生の因を建立されたことを知らないために、真実の報土に往生することが出来ないのであります。」 化身土の巻(三願転入の文)で、「久しく修しなれた諸善万行の自力の仮門をぬけいで、そのさとりである双樹林下の化土往生をながくはなれることができた。 それから善本徳本の名号を自分の善根としてはげむところの真門に入って、難思往生の化土を願う心おこしたのである。ところが今は、その方便の自力念仏の真門をいでて、弥陀の選択された他力弘願の願海に転入し、難思往生の自力の心をはなれ、難思議往生をとげる身にさせていただいた。これもひとえに果遂の誓いである第二十願の思召しであるということである。」 信の巻(信楽)で、「一切の凡夫はあらゆる時に、貪愛の心によっていつも善心がけがされ、瞋憎の心によっていつも法財が焼かれてしまう。頭の火をはらいおとすように、あわてて善根を積んだところで、すべては毒のまじった修行で、うそいつわりの行といわれ、真実の行業といわれないのである。このようなうそいつわり、毒のまじった善根をもって弥陀の浄土に生まれたいと思ってみても、それはとてもできないことである。〜〜〜〜〜この信楽というのは、如来の大慈悲心からおこされたものであるから、それは必ず浄土に生まれる正因となるのである。如来は苦しみ悩んでいる一切の衆生をあわれんで、威徳広大である清らかな信心を人々にあたえてくだされる。」 化身土の巻(観経の隠彰)で、「阿弥陀如来の弘願を顕わし、衆生ひとしく往生する他力回向の一心をのべたものである。すなわち提婆や阿闍世の悪逆が縁となって、阿弥陀大悲の本願が開設されるにいたった。〜〜〜〜{本願の救いの対象は愚かな悪人であることをしめして}韋提希夫人が悪人往生の実機であることをしてめされた。」 信の巻(散善義)で、「一には、自分はいま罪ふかい迷いの凡夫であって、久遠のむかしから生死に流転して、迷いをのがれ出る手がかりがないと深く信ずることである。二には、彼の阿弥陀仏の四十八願は、こういう罪ふかい衆生をおさめてとって救ってくださるのであると、疑うことなく、ためらうことなく、その願力に乗託して、まちがいなく往生することができると深く信ずることである。」 信の巻で、「必ず報土の正定の因となる」「必ず佛になるべき身に定められた機」 信の巻(至心)で、「如来はこの至心をもって、一切の悪業煩悩にけがれ、よこしまな心にみちた衆生にほどこしをあたえてくださったのである。」  教行信証によれば往生には三機、三願、三種があります。 第十八願  他力の機  難思議往生      報土往生 第十九願  自力の機  双樹林下往生     化土往生 第二十願  半自力半他力の樹 難思往生    化土往生 この内第十九願、第二十願の人は自力作善の人でありますが化土往生することができます。彼らも自力の心をひるがえして、第十八願の他力をたのむものは、すなわち自己の愚悪を自覚するが故に第十八願本願の正機を得て報土往生をとげることができます。 自力作善の人は化土往生をすることができますが、それは報土往生ではありません  自力をひるがえした悪人こそが本願の正機であります。「善人なおもて往生する、いわんや悪人をや」 ということになります。 人間そのものの悪性の自覚、自力をひるがえして、本願他力をたのむとするものは、本願の正機となることを明らかにしています。 二種の深信  親鸞は信の巻で自己省察による悲嘆の表白をして、「まことに知られる。悲しいことに、この愚禿親鸞は、あさましい愛欲の広海に沈み、名聞利養の太山に迷っている。そして信心を得たものはこの世において、浄土に往生することが定まった仲間になっていることもいっこうに喜ばず、浄土のさとりに近づいたこともうれしいと思わない。まことに恥ずべきことであり、傷ましいきはみである。」と宗教的懺悔による自己批判をしています。極悪劣機、罪悪深重の凡夫は、ただただ如来の本願に救われるよりほかにみちのないことを顕しております。  信の巻(散善義)で、「一には、自分はいま罪ふかい迷いの凡夫であって、久遠のむかしから生死に流転して、迷いをのがれ出る手がかりがないと深く信ずることである。二には、彼の阿弥陀仏の四十八願は、こういう罪ふかい衆生をおさめてとって救ってくださるのであると、疑うことなく、ためらうことなく、その願力に乗託して、まちがいなく往生することができると深く信ずることである。」 一に機の深信、二に法の深信、他力救済論の根底を成すもので、極悪劣機の凡夫、罪悪深重の衆生の救われるみちは阿弥陀仏によるしかほかはないという他力救済の原理が明らかにされています。 深心というのは自己の心を深める自力の信をいうのでなく、他力の真実心を深く信ずるという信心であることを明らかにしています。 機の深信は自身は三世を通じて、生死を出離する縁のない地獄必定の機であることを信ずることいい、その法の深信とは阿弥陀仏の四十八願はこの地獄必定の衆生をまちがいなく摂取して、往生させてくださるということを信ずることをいいます。                  第5章     宗教倫理  この章で述べる倫理は第一章から第四章までで明らかにした本願他力を基にした宗教倫理であります。 社会問題や国家問題等はこの現世社会では重要な問題であります。その分野の学問には社会科学が在ります。 その中には世俗的普通の倫理とか徳目的道徳が研究課題となっており、それらは世俗社会の中の事であり相互に依存し、又相反して矛盾することが度々あります。  宗教倫理と社会科学の学問である通常の倫理、徳目倫理とは、二つの違った別個の領域であります。  宗教倫理は目覚めの倫理であり、そこから現世社会を眺めれば、もっと高度の地点にたった社会問題の解決の可能性があります。  明治の初め清沢万之は精神主義の中の「全責任主義」で「現世俗的存在は、相互依存の関係であり、万有は全て倫理的に言えば我自身であり、自分が全てに責任を持つことが万有に責任を持って生きることであり、そのような倫理的理想主義を掲げて、全責任主義をもって生きていく、しかし、我は有限である故にこの全責任を完全に全うすることが出来ない、責任を果たすことは不可能である。」この清沢満之の苦しみを経て出てくる彼の宗教的内観内省は親鸞の言っている二種の深信を深く知らしめ、新しい相互依存関係を見出そうといたしました。  これを発展させて、今村仁司が贈与互酬の論理に全責任主義を乗せて説明いたしております。「無限による包摂、摂取不捨の迎え入れを感じた時、人間は贈与:互酬の論理に厳密に従って無限からの贈与に対して自分の存在を自分自身の返礼として無限の世界を訪問する礼儀として贈与する。それは即ち現世内自我の無限内自己(無我)への一つの移行であり目覚めの正覚といわれるものである。」「有限より無限に接触することは有限の円より無限の円の中に入り込む、有限と無限が絶対同一になることであります。有限として無限の関門を通り過ぎるときは、有限である人間は自力で通過できません。そこが人間の有限である事実であります。この関門がどうしても通過不可能であり、通過できないことがパラドックスであり、アポリアであります。このアポリアを解消することが求められます。絶対的不可能性の可能性への転化が絶対に要求されます。宗教的目覚めであります。それは宗教の領域であります。」と解説いたしております。  アポリアの解消は宗教的目覚めの道であり、宗教への淵を横に飛び超える道であり、浄土門の大経の世界であり、本願他力の世界であります。 人間の働きかけとはまったく関係なく、久しく前から無限からの一方的贈与であります。本願他力の包摂:拙取不捨の状態が既に成就されている事、このことは阿弥陀佛より贈与された回向であり、第十八願の願力であり、ただただ念仏して往生することができ、往生を得れば三界に流転することなく、速やかに佛のさとりを得ることができるのです。この回向が往相の回向であります。摂取不捨として迎え入れられた後に、無限より衆生を救うためにこの世に還ってきて利他教化をするのが還相回向、これ等二つの往相還相が裏表一体となって統一されているのが本願他力の二種の回向であります。  往相回向することで自利の行を成就し、それによって還相回向によって衆生に功徳を施させる利他の行を成就させることができるのであります。還相の回向は阿弥陀如来の衆生摂化の本意であります。 還相回向で衆生を教化するために還ってきたこの現世で、阿弥陀佛の信、本願の信は有限の人間のまま無明の衆生に対して阿弥陀仏の側から回向して呼びかけることができます。智慧、慈悲をあたえる事を衆生に繰り返すことであります。 自利の成就は、自我:我執の絶対的否定であり、無我を知ることであります。自己の生存の事実、自己と自然宇宙世界との関係、自然の法則性、この世界の中で特殊な動物である人間は有機生命体の中でも、無機的自然界にも自然の法則従って生きていないという事実、人間そのものの悪性を自覚することであります。 自利の成就は利他の成就を絶対条件とします。 他者を迎え入れることは対他関係を配慮する事であり、他者配慮は自己配慮を基礎にした他者への配慮となります。 対他関係を改善することは現世の人間関係のみを改善することを言うのでなく、人間関係、有機生命体、自然宇宙世界、との関係を人間生存の歴史的社会的に限定された枠内、世俗の道徳的;一般倫理的な学問的な領域内で問題とするのでなく、 自然宇宙世界の存在そのものを考え、自然宇宙世界を貫いている法則、自然の法則、自然の弁証法まで他者配慮を拡げると、現世の道徳とか一般倫理規定では判断成し得ない問題の回答が出せることになります。 特殊な動物である人間は佛性を持ち合わせおりません、人間のみが自然の法則から外れた生き方をしています。大信を得て初めて「悉有佛性」すべての万有には佛性があります。 対他関係を自然の法則に従わせ、本願他力の自利利他を成就することであります。しかしながら、人間は常に欲望:欲求が襲ってきます。 本願他力を与えられているといえども、己を謙虚に内観内省し、二種の深信をかみしめることになります。  これが本願他力の宗教倫理であります。  仏教自力門は自己への配慮のみであり、自己自身の自力の修行で有限の中の絶対無限を悟ろうとすることは無理なことで、いまだ第十九願二十願の世界であります。そこには還相回向はありません。他者配慮がなくて自己配慮はのみであります。自己配慮は個人の徳目的倫理道徳、世俗的普通の倫理観であります。 また、ユダヤ教、キリスト教では人間はそもそも神に作られた者であり、啓示宗教であります。その倫理観は禁欲的であり、徳目的道徳的なものになってしまいます。  仏教自力門、ユダヤ:キリスト教の宗教倫理は結局学問としての社会科学が領域としている倫理学に吸収されてしまいます。 宗教倫理として存在するのは本願他力の宗教倫理のみということになります。  第二部の補論で社会科学としての倫理:道徳を学び、本願他力の宗教倫理の違いを明らかにしてみたいと思います。 第二部       補論         第1章   ユダヤ教、キリスト教の宗教倫理 ユダヤ教  古代ユダヤ人(ヘブライ人)は紀元前2000年前頃からパレスチナ地方の土地にやってきました。 パレスチナの地は、東のメソポタミヤ、西のエジプトにはさまれた両勢力の衝突する地域でした。その中にあって古代イスラエル王国が独立を保てたのは、ダビデ王(紀元前1002-962)を頂点とする500年程でした。  紀元前932年ソロモンが死んだ後国家は分裂して、それからユダヤ人は長い間、他民族に支配され民族としての国土を持たず苦しい生活をして、各地で流浪の旅を強制されました。苦難の下にあったユダヤ人は自分たちをヤーウエ(エホバ)から唯一選ばれた特別な民族であるという選民意識;思想をもって、現在の苦しい生活を我慢をして、ヤーウエの意思として示されたきまり:律法だけを信じ、守ってゆくことが、将来、神が私たちを救ってくださると信じて生きてきました。ユダヤ教はユダヤ民族のための典型的な民族宗教であり、唯一神宗教であります。 ヤーウエはユダヤ人の祖先であるアブラハムに現れたことから、彼とその子、孫の名をとって「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼ばれます。 エジプトで奴隷生活を送っていたユダヤ人たちは紀元前13世紀頃モーゼに率いられて脱出しますが、その途中水や食料に困窮した人々は奴隷生活を懐かしみ金の子羊を作って拝んでいましたのをモーゼが見てエジプトのシナイ山のふもとの荒野で基本的な規則を人々に公表します。  これがモーゼの十戒といい、ユダヤ教の全ての律法の基礎になっています。 最初の4ヵ条が社会と神の関係であり、残り6ヵ条が社会のなかの人間同士の関係を規定しています。  この他に創世記、出エジプト記、レビ記、民数紀、申命記をモーゼ五書と呼ばれ特に神聖視されています。モーゼを通して神が啓示したものと信じられております。これらは思想や信仰のみならずユダヤ人の日常生活全般にわたる規範や指針を示しています。  ユダヤ教の神は天地の創造者であると共に、意志をもった世界と人間の歴史を支配する人格神で、自然よりもむしろ社会:個人の両面を含めた人間生活の領域に深く結びついた宗教であります。 この宗教がユダヤ人の歴史の過程のなかで特殊な契約が結ばれたこと、ユダヤ民族がこの神に選ばれたという選民思想があり、人間生活に深く結びついている神から啓示された律法、その倫理的特性を備えた人格神に呼応するため、また選ばれた民族として、その倫理性を厳しく要求されました。  それが後々までのユダヤ民族とユダヤ教に大きな影響と重石になりました。 第2次世界大戦後新イスラエル国家が樹立され、時を越えた神の啓示の妥当性は主張しつつも現代社会の中で妥協できるものは妥協していますが、いまだユダヤ人の排他的民族宗教として唯一神教と律法に基づく倫理観でユダヤ教はユダヤ人およびその周辺の人々に大きな影響をあたえています。  キリスト教  紀元前後頃、このパレスチナの土地にイエスが誕生しました。ユダヤ教徒として育ちましたが当時のユダヤ教に疑問を持ち、本来の神との契約に立ち返り、全ての人間は神の愛によって平等に救われると説きました。 厳格なユダヤ教徒の反発を招き、イエスは反乱の罪を着せられ十字架につるされ処刑されてしまいました。死んだはずのイエスがよみがえったという噂が人々の間に拡がり、弟子たちは「イエスこそが神によって交わされた真の預言者である」と確信するようになりました。ここにキリスト教が誕生し、ローマ帝国内に広められていきました。 キリスト教の理論的発展を基礎付けたのはパウロの書簡とヨハネ福音書であると言われております。 キリスト教の歴史とそれに伴う教義で4回の分裂を繰り返しますが、現在主たる教派はローマカトリック教会とプロテスタント教会及び東地中海とロシアに広まる東方正教会であります。 キリスト教がローマ帝国内で拡がると共にローマ当局からの迫害も拡がり殉教する者も出てきました。 キリストの真の弟子になるためには殉教者になる事と思い、禁欲生活の中に同じ意味の精神的殉教を見出しましたが、いまだキリスト再臨がおこらない事による終末への焦りがさらに禁欲生活の新たな期待となりました。 その後、教会に対する一般社会の影響が教会自体の世俗権力との結びつき、教会自体が世俗化しての堕落していく、それらに反発して純粋に霊的、信仰的立場に立つキリスト者は修道院に入り禁欲生活を送り、中世は修道院が大きく発展して、キリスト教は禁欲的傾向を益々強めていきました。 修道院の中での世俗外的禁欲、一般大衆を完全に無視した一部の人間だけが神との理想的な関係に生きようとしたその限界を打ち破る宗教改革が起こり、世俗外的禁欲としての修道院内組織的生活態度の禁欲をも修道院から引き出し一般大衆にまで求め、又、従来の合理的といわれているキリスト教的禁欲との二重の禁欲的倫理観を作り上げました。  キリスト教的禁欲は貧しさ、貧民に対する愛徳(カリタス)、清貧の倫理的生活が模範とされ、その貧しさの後ろに神の存在を見て、その神に従うこと神の意図を認知することが倫理的人間の理想像とされてきました。他人の弱さや身代わりになること、受難を強調して殉教者として聖人として生きていくことを一般信者にも強要しました。 禁欲による自己放棄が反対に自己認識を強め他者配慮を益々遠ざけてきました。 最後の預言者であるといわれているムハンマドに神の啓示が下されたといい、イスラム教が生まれたのであります。 唯一神である、ユダヤ、キリスト、イスラム教は全て一神教であり、各々が神の啓示を受けたという独断と、禁欲生活の中に神の言葉、神の愛が授けられるという、共通の神を信仰する兄弟宗教でありながら、三つの宗教間には争いが絶えません。 共通して言えることは、これらの宗教が教義に神が自然を征服するとか、神が人間関係を支配するとかという、自己意識の強さ、自己配慮のみで、他者配慮に欠け、自然を全く無視して、対他関係を配慮しないことが、現在三つの宗教が平和共存に苦しんでいる原因であるのかもしれません。           第2章   仏教自力門の宗教倫理 仏教はBC500年頃インド古代思想家の覚者(ブッダ)真理体得者(如来)の集まりが実在の釈迦の思想:説法に収斂してきたものです。インド仏教の上座部がパーリ語:パーリ聖典を使って厳しい寺院生活、瞑想禅定、黄衣を着て南伝仏教としてスリランカ、ヤンマー、タイ、カンボデイア、ラオスに伝わっております。北伝仏教として中国、朝鮮、を経由して日本の仏教として現在も日本のあらゆる部門に大きな影響力を持っています。それらは大乗仏教といわれ大乗諸経典が出来ており、八万四千の法門が有るといわれております。教条的ドグマは少なく異説排除も少ないが仏教論争は多いにありますが、暴力行為で自説を通す様なこと全くありません。 釈尊と大乗諸仏とに対する敬慕や崇拝:帰依は全て心情的には共通したものを持っています。  日本仏教(=大乗仏教)は南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗)北嶺二宗(天台宗、真言宗)そして初伝以来600年を経て、鎌倉仏教として、浄土宗(法然、親鸞)、禅宗、日蓮宗が生まれました。 これらの仏教の僧侶は出家して修行を積み自ら厳しい戒律を課しました。その戒律は各宗派に現在も受け継がれております。 善というのは仏教の六波羅密の徳、すなわち布施:持戒:忍辱:精進:禅定:智慧の徳を指し、悪というのは十善戒によって戒められる殺生:兪盗:邪淫:妄語:綺語:悪口:両舌:慳貪:瞋恚:邪見の悪を指します。 悪をするな善をせよという単純な言葉でありますが仏教の規範的道徳が一般在家の信徒にも広く説かれております。   親鸞は7歳の得度から29歳まで比叡山で修行を積みますが、自らの修行のままならぬこと、疑問に感じていた頃に法然に出会い比叡の山を下りて、自力から他力へと転入してきます。   親鸞は教行信証の中で、八万四千の法門がありますが、それらは全て自力の行であり、衆生が自ら菩提心を起こして優れた修行を行えども修し難い事を、善導の「玄義分」より引用して 「生死の海に迷っている凡夫は定善の行(心を統一して真理を観ずること)も散善の行(日常の悪を止めて善を修めること)も修し難い。たとい1千年の寿命をもってしても智慧の眼はなかなか開かない、ましてや無想離念の智慧などどうして得る事ができようか。門余という言葉があるが、八万四千門は方便仮門であり、余というのがそれ以外の、即ち本願他力の一乗法というのである。」。 親鸞は次に聖道門と浄土門を対比し、聖道門を浄土の真実の教えに入らせる為の方便の教えに他ならないとし、浄土門の中に真実の教えと方便の教えを解明し、本来浄土往生の教えでない聖道門の諸行を浄土に回向して往生を求めてもそれは出来ない。それは自力の行としては廃すべきとしました。大経」第19願、至心発願の願、「十方の衆生で諸諸の善根を修し、まごころを込めて浄土に往生したいと願うものは、臨終に来迎して浄土に往生させるという願であります。これは対象となる機類は自分の力をたのんで諸諸の徳や善を修め浄土に生まれようとするもので、第19願の行者が方便化身土に往生することに名づけたものです。」。大経」第20願、至心回向の願、「十方の衆生で自力念仏の名号を称えて、それを因として浄土に生まれたいと願うもので、それを必ず果たしてやりたいという願であります。方便化土に往生するのに名づけたものです。」  聖道門の諸教は釈尊の在世のときの正法でありましたが、すでに時代遅れになっており浄土真宗が時期に適っている事を示しました。 道綽の「安楽集」を引用して「正法、像法、末法の三時代を明らかにして、正法500年、像法1000年、末法10000年、聖道の教えは末法の時代には適さない。末法の時代には修行する衆生も少なくなり、如何に修行に励んでも道を修めても、おそらく一人として悟りを開くことが出来ない。」 第十九願も第二十願も両方ともに往生できますが方便化身土であり、真佛土には往生できるのは浄土の他力門のみであることを明らかにしました。 自力門は信念の確保と有限無限の認識に他力門とは大きく違い、自力門は我と無限の関係を潜在的無限であると考えます。つまり、我の奥底に無限が潜在しておりそれを際限なき修行と訓練によって顕在化させ、自分の中にある内在する無限を修行して開発し、不断にそこへ到達すべく努力いたします。 それには良い観想をもって祈ってみたり、特定の理想を掲げそれを実行したり、呪いや呪文を唱えてみたりして、無限を引き寄せんと功徳を重ね、それに応じた救いを得ようとします。  すなわち、有限世界の中で有限な手段をもって救済という本来的には無限に属することを際限ない修行:苦行を続けても、時間空間に存在する有限者にとっては不可能なことであります。自力門の人々は六波羅密の徳、十善戒という仏教的規範的道徳を追求し修行を積み功徳を重ねて、それに応じた救済を求めます。  自力門は往相回向のみであり、他力門のように往相:還相の二つの回向はありません。 自己修行が中心であり、自利:利他といっても実際は自利が中心で自己配慮が主たるものになります。 親鸞は特に還相回向を取り上げ、二種の往相:還相回向を成就するには自利の成就は利他の成就を絶対条件とすること、自利:利他、自己配慮:他者配慮、対他関係を明らかにし、二種の回向を成就するには他力門の宗教倫理が絶対に必要不可欠であることを知ります。 二種の回向が他力門の宗教倫理を生み出す源となります。 仏教自力門には還相回向というものがない故に宗教的倫理というものはなくて、それは従来から言われている仏教的規範的道徳と言われているもので、ユダヤ教:キリスト教と同じように倫理と言われているものが実際は規範的道徳であります。 これらは学問としての社会科学の道徳:倫理の分野に吸収され、社会科学の用語に混乱が見られ、仏教自力門やユダヤ教:キリスト教の倫理と言われているものが実際は道徳規範であったりし、いまだに社会科学の用語に混乱が続き、それに巻き込まれているわけです。       第3章  マックスヴエーバーのプロテスタンテイズムの倫理と            資本主義の精神について  マックスヴエーバー著の「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」(1905年刊)を翻訳した大塚久雄の解説を参考にして、この著作の概要をまとめてみますと。近世初期の西ヨーロッパにおいて資本主義経済が勃興してくる過程で、その動きを人々の心の中から推し進めていった心理的起動力あるいは精神、それを通常「資本主義の精神」と呼んでいますが、それと禁欲的プロテスタンテイズムとの一つの限られた期間の歴史的関係を追求した、あくまでも社会科学の研究著書であります。  古代イスラエル(旧ユダヤ教)の宗教意識の中から生まれた宗教的規範道徳がキリスト教の中に流れ込みキリスト教的禁欲を生み出しました。 まずカトリックの中世修道院の世俗外的禁欲を生み出し宗教改革後はそれを越えて、プロテスタンテイズム=ピューリタニズムの世俗内的禁欲の姿にまで拡がり、一般信徒の間にまでに禁欲的規制が強制されました。 中世のカトリック教会は暴利の取り締まりとか利子の禁止とか、そうした商業上の道徳的規範規制をいたしました。また、プロテスタンテイズムたちも暴利を貪る商業やその担い手を敵視しました。  宗教改革のマルテインルターの聖書の翻訳をきっかけとして生まれた天職という思想は世俗の職業そのものが神の召命であり、神から与えられた尊い使命と捉えました。 マルテインルター派は教義的限界のためキリスト教的禁欲と結びついて世俗内禁欲を生み出すことができませんでしたが、カルヴィニズムに於いて世俗内的禁欲が生まれました。 それが禁欲的プロテスタンテイズムといわれるものです。ここで言う禁欲は自己の欲望の全てを抑えて積極的に何もしない非行動的態度を言うのでなく、大変な行動力を伴った生活態度あるいは行動様式であります。 世俗内での聖潔な職業生活は神から各人に使命として与えられた聖意に適う大切な営みであるという考え方であります。  世俗内禁欲はあるいは天職義務という行動様式は宗教教育の中ではぐくまれ、しだいにひろく民衆のものになりました。 そもそも禁欲的プロテスタンテイズムが本来もっている反営利的なる性格がどうして、逆に営利と結びついて資本主義の精神に変わっていったのか。  プロテスタンテイズム、ピューリタンの中に多くの世俗内的禁欲の持ち主である小商品生産者が居たと言うことです。彼らは金儲けのためにしようと思ったのではなく神の栄光と隣人の愛のために、つまり、神から与えられた天職として自分の世俗的な職業活動に専念いたしました。しかも富の獲得が目的でないので無駄な消費はしない、それで結局は金が残り又残らざるを得なかったわけです。 彼らのそうした行動の結果が意図しなくても資本主義発展の再生産資金を積み立て、合理的経営を促進する土台を作り上げる準備をし、歴史的に全く新しい資本主義機構をだんだんと作り上げていきました。 それがスッキリ出来上がると今度は儲けなければならない資本主義の機構が逆に彼らに世俗的禁欲を資本の側から強制するようになり、信仰は薄れ宗教的核心はしだいに失われ、金儲けすることが道徳的義務になりこれを是認するようになりました。次に金儲けを一生懸命することが今度は資本主義の最大の目的になったわけです。  通常一般は近代に入って商業が発達しその担い手である商人たちがその営業上の利害から内面から出てくる営利原理、営利精神を発揚して社会のあらゆるところにその勢力を拡大した結果近代の資本主義が生まれたと思われていますが、マックスヴエーバーは歴史上の事実はそうではない、近代資本主義の発展はその資本主義に道徳的に徹底的に反対する経済思想が公然と支配しているところに勃興していると言っているわけです。 古典古代、近世オリエント、中国、インドでも本質的に商業に対する道徳的規制をしていない自由なところには近代資本主義の勃興を見ることができません。 その歴史上例外となっているのが中世カトリックから引き継がれた禁欲的プロテスタンテイズムの暴利を貪る商業やその担い手、営利を敵視するピューリタンの反営利的な倫理的信念の中から近代資本主義の成長を内面から力強く押し進める経済的エートス、資本主義の精神があることを見出しました。 以上がこの著作の概略的内容であります。 マックスヴエーバーは「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」の論文作成の最大の動機は、第一は、数ある宗教:宗派のその宗教的禁欲的主義を取り上げて、経済の合理主義との内在的連関を調べて、彼の比較宗教社会学の研究の発展を図ろうとしました。第二は、マルクシズムつまり唯物史観、史的弁証法、歴史的一元論の徹底的批判にありました。 マックスヴエーバーは古代ユダヤからの各時代の歴史の中での倫理観が変遷を遂げてその時代に応じた倫理が作り上げられたことを見ました。彼は徹底した史的多元論に立ってその理論を作り上げようとしました。 市民的な経済的に合理的な生活様式の傾向を促進させるような宗教倫理を無数の歴史的要因の錯綜する中で捜し求めその因果関係を研究しようとしました。 その中にプロテスタンテイズムの世俗内禁欲生活の中における天職という職業観念を基底にその当時の歴史上勃興しつつある経済諸関係の適合的連関を見つけその結果として経済や歴史に与えた宗教の機能を基本的な枠組みとして、それを理念型の枠にはめ込み、東西の文化、宗教社会の比較の方法として、彼の宗教社会学の研究の中心としました。 歴史のなかの社会的行為を多元論的に解明しつつ理解してこれによって経過とその結果を因果的に解釈したにすぎません。 マックスヴェーバーの宗教社会学は歴史の中に見られる諸宗教とその社会の内的外的諸利害関係を多面的に多元的に捉えて、歴史の中の一つの限られた期限の事実を研究しているもので、その中のある一つ事柄の規則性は認めても歴史の中に流れる基本的法則というものを絶対に認めませんでした。  資本主義の機構が発達して禁欲的プロテスタンテイズムの役目も必要もなくなり、歴史と共に後退していかざるを得なくなった歴史の皮肉をここに見るのであります。 マックスヴエーバーはマルクスの史的一元論、史的弁証法を厳しく批判いたしたのでありますが、現在、二十一世紀の初頭に入って益々資本主義が発達して、グローバル資本主義:カジノ資本主義といわれてその弊害も大きく人類に影響を与えております。 新しい経済倫理が要請されております。 しかしながら、マックスヴエーバーの宗教社会学は方法論としては注目され、社会学に何か新鮮味をもたらしましたが、その研究の延長線から資本主義の文化:社会:経済の学問的発展を見ることができませんでした。  真宗の僧侶であり社会学者である大村英昭はマックスヴエーバーのキリスト教における禁欲の思想、禁欲のエートスについて、禁欲のエートスが結果的には人間の欲望をある一点に集中させ、かえって煽ることになりました。経済活動に於いて儲かった金は再投資する型で資本となり、つまり営利の欲望ということでいよいよ煽られる結果になりました。鼻先にぶら下げられたニンジンを目指して空しく走り回る馬のように誰もが充足感のない競争に駆り立てられています。   アクテイヴィズム=業績主義を生み出し、それを煽りそれを広く世俗大衆にまで及ぼしたピューリタニズムが評価されたのですが、そのアクテイヴィズムが結果としているのは彼らの善意がどうであれ、アクテイヴィズム、フロンテイアスピッリト、もっと正しくは拡大膨張主義を世界中に撒き散らしました。 もはや禁欲のエートスは何の正当性をももてないわけです。 既にその歴史的使命を終わっているのです。 現在のグローバリズム、一国覇権主義をもたらしているのであります。 煽りになってしまうような禁欲に対して、仏教は鎮欲とも呼んで区別すべきでしょう。 わが国の真宗では禁欲はそもそも不可能であるというより不健全であると考えております。 人間の自然な姿、自然の理に従って、鎮まっていこうというものですと、述べております。  次にマクスヴエーバーは日本の大乗仏教の一つ真宗を取り上げて、「一切の達人的行為のない誰にでも行うことのできる世俗内的祈祷宗教意識と信仰宗教意識を、つねにもっており、もっぱら阿弥陀仏に対する敬虔な帰依を意義付け、一切の善業往生を拒否した。 阿弥陀仏は救難聖人であり、それを信頼することが、ただ救済をもたらす内面的態度であった。そのいみで、真宗は、多くの点で、ヨーロッパ:ルター派のそれと類似した方法で発展し、市民的社会の中に多大の勢力を持ったが、 この宗派は世俗内的禁欲を持っていなかったし、ルター派のように発展しなかった。 そして真宗は中産階級の、封建的束縛を受けた救済論的かつ情緒的な感情要求に相応する救済者宗教意識であった。」  マックスヴェーバーとゆえども、日本の仏教の一宗派である真宗のことを、言語の問題か、比較宗教社会学の研究が及んでないのか、その批判に対して参考にする事は何もありません。  現在の世界のあらゆる場所で民族問題、宗教問題に係わる紛争が耐えません。その中でも特に三つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教間の争いが主要なものです。これらは兄弟姉妹の宗教でありながら、一神教であり、啓示宗教であり、各宗教の独自の世俗内禁欲をもって自己拡大を図ろうとしています。    ユダヤ教はユダヤ民族の選民意識の下、自らの戒律で禁欲を守り、歴史的に4千年もの間領土失ってきた民族として自らのアイデンテイテイを守るためにパレスチナとの戦いをいまだ執拗に続けております。 コーランに忠実であろうとするイスラム教徒は人間の根源的な自由への願望を抑圧して、酒も、タバコ、色恋も全てを堕落であると決め付け禁欲する、それらが経済だけでなく、世俗化した大衆文化が席巻していて、旧来の宗教的価値や倫理観を否定するヨーロッパ:アメリカ文化の退廃文化が伝統を重んじるイスラム文化と衝突するのは避けがたい必然であります。  キリスト教のピューリタニズムが禁欲のエートスで築き上げた資本主義が益々成熟発展して自己矛盾に落ちいって行きつつあります。それの経済的解決方法として、グローバライリズム:一国覇権主義で解決すべく世界の国々に強制しています。 一方、三つの宗教は各々が世俗的宗教原理主義を強め相互非難を強めております。 日本の大乗仏教はいかなる宗教:宗派とも論争はいたしましたが、物理的争いをしたことはありませんし、今後も紛争を起こすことは教義上考えられません。  現在、世界の中で仏教があらゆる層の識者に注目されつつあると聞いております。 私は、親鸞が最後に達した自然法爾の立場から、それを発展させて自然と人間のより良い関係とは何か、自然の法則と共に生きる人間の社会のあり方、自然の存在、自然の法則、自然の弁証法、哲学的思考を持った宗教に親鸞はすでに約八百年前に脱皮する道を示しておったと考えます。  道徳的規範に基づく規制でなく、往相還相回向と二種の深信をもってつねに内観と内省をかみしめ、大乗仏教の中で独特の本願他力の宗教倫理を生み出しております。            第四章    現代の哲学者、エマニエル:レヴィナス                  第一部、第五章の宗教倫理の最後の結論部分で、他者を迎え入れることは対他関係を配慮することであり、他者配慮は自己配慮を基礎にした他者への配慮となりますと、述べました。  現代の哲学者、エマニエル:レヴィナス(1905-1995)はハイデッカーの自己配慮の哲学は他者への配慮は要らない、あくまで自己が世界の中で本来的な自己を取り戻し、本来的な自己即ち無としての自己を引き受けて生きることであるからという主張を批判しました。 エマニエル:レヴィナスは、自己配慮にとって他者配慮はどうでもいいことなのかという問題を徹底的に問題にいたしました。現在のヨーロッパの思想、特に倫理思想の最高の到達点であると言われていますエマニエル:レヴィナスの倫理思想は難解であります。それを解説することは私の力の全く及ばないところであり、先人の解説を引用させてもらい、また、参考にさせてもらって次に纏めて見ます。  東京大学大学院人文社会系博士論文:上田和彦の「他者を揺るがす中世的なものアル:ilya---レヴィナスに向けられた問い」「レヴィナスの1950年代に同じものとして存在し続けようとする私にとって、おのれの存在に還元できない絶対的に他なるものは何かを問い、答えとして他者を挙げ、他者との関係の内に、私の存在の問い直される契機を見た。1960年代以降、レヴィナスがどのように、私と他者との揺ぎなき倫理的関係を展開していったかを見る。1970年代になると、レヴィナスは、他者に対する責任を引き受けることなく負うということが可能になるには、私がアルに晒され、底なしの受動性に追い込まれる必要があるという考え方を示す。又それと同時に、他者の責任を負うように定めるのは神であるという思想を示すようになる。私が他者の責任を負うには、アルの無意味に晒されることで、存在の秩序から追放され、あらゆる能力を剥奪されねばならないことを、また、たとえ神が他者への接近を命じるにしても、知ろうと欲する私には神が不在であり、神の意味作用はアルの無意味と区別がつかないことを強調しようとした。しかしレヴィナスは、アルに晒される忍耐の直中において、神の命令が泥棒のように忍び込んで知らないうちに私を触発し、たとえ思い出せないにしても私はこの命令に従って他者へと向かい、他者によって豪ること全てを他者のために負うことができる、といった考え方を示さずに入られなかった。私は他者に対して負いうると言うことを認めるように促すためであったのかもしれない。」 他者に対する責任を引き受けることなくして、責任を負うことは不可能である、それは無責任になります。それでは責任を負うことが底なしの受動性に追い込まれるという、アポリアを通じてパラドックスを生きることで、レヴィナスは倫理の成立のためのアポリアが無限の要請を呼び出し、無限と有限の中に倫理の成立を見出しました。 レヴォナスの倫理理論を、他者配慮と自己配慮の不可欠の関係を明らかにすべく、それを今村仁司はより解り易く図式的に要約しております。 1)自己の中かに閉じこもり自己の意識によって世界を解釈する。それに満足している自我はエゴイスト的自我である。 2)この自我が他人に出会い閉じこもりから世界に連れ出され、自分を外部の他人に全面的に晒す、自我が他者に責任のあることを知らしめる。他者は無限に接触した痕跡を持った視線で責任を負いつつ服従することを自我に対して命令する。 3)他者に出会い応答し、他者のために他者の代わりに、すなわち自己犠牲の構造の中に入る。 4)他者に向かって声を発して応答し、責任を負う、つまり他人の身代わりになるという我の振る舞いは現世的自我の放棄であり、自我以前の自己への目覚めである。言い換えれば、他者への配慮は自己配慮の決定的条件である。こうしてはじめて他者配慮と自己配慮の不可欠の関係が明るみに出されことになります。  清沢満之の全責任主義の実行不可能性は、我の無責任主義になる。目覚めの経験と宗教的倫理は全責任(対有限者)と無責任(対無限)を同時に引き受けることであります。 アポリアを通じてパラドクスに生きることです。  絶対的矛盾を生きることであります。 全責任命令の受け止めが無くてはならない。そうすることで有限な我の至らなさ;責任を負えないという不可能性をありありと感じることです。  全責任と無責任との絶対的対立が無ければ無限への願望はありません。  無限との接触が無ければ信心:信念もありえません。  宗教倫理観も生まれてきません。  本願他力の宗教倫理が、現代のヨーロッパの最高の到達点といわれているレヴィナスの 倫理思想に酷似していることが分かります。  ヨーロッパの倫理学が親鸞から数えて約700年遅れて自己配慮と他者配慮の根源的統一した理論にたどり着いたわけであります。     おわりに  今年(2005年)の初めより、日本において西武グループの堤一族の有価証券虚偽報告やライブドア:ホリエモングル−プの違法でないかもしれないが明らかに脱法行為である証券市場における振る舞いや、一方世界においてはグローバライリズムの名の下で覇権主義的経済行為が強行されています。  毎日の報道を見るたびに自分としての経済倫理を勉強したいと思っておりました。 だが、直ちに倫理そのものが何であるのかという問題に行き詰まってしまいました。  道徳と倫理の混乱が各分野で続いております。  それを解きほぐすことから始めなくてはなりませんでした。  丁度その頃、菩提寺の御院住様が月参りに訪問され、企業倫理、経済倫理についての話題になり、宗教的経済倫理についての問題提起をされて帰られました。   もう一度、教行信証を読み直してみよう、 そこから宗教倫理を考えてみようということで、今回、「本願他力の宗教倫理」をまがりなりにもレポートとしてまとめることができました。 今後、経済倫理、地球自然環境倫理、 生命倫理、などの倫理問題の解決方法には宗教倫理を無視することは出来ないと考えております。                                      完                     2005年8月5日     完稿                             辻   友久                  郵便番号654-0076                  兵庫県神戸市須磨区一の谷町2丁目8−53