「和」の思想の欺瞞性

キリスト教原理主義やイスラム教原理主義の跋扈に眉をひそめる人は多かろう。私もまた、文字通りの「原理主義」 -というのは例えば、進化論はまちがいで人類は約1万年前に神によって創造されたと信じる考え方(創造論)が代表的なものだが- を批判するのに躊躇はない。アメリカ人の3分の1から半数近くがこういう原理主義-創造論を信じているらしい。アメリカによるイラク攻撃の背景には、もちろん、単純にキリスト教原理主義者によるイスラム破壊への欲求だけでなく、石油資本による野望があることを知らねばならないにしても、オウム真理教とはくらべものにならないほどに強大なカルト的宗教勢力が国際政治を動かしていることには恐ろしさを感じる。

それでは、というので、「和」の思想が日本の知識人によってもてはやされたりするのは、私にはどうにも気に入らない。論語の「礼之用和為貴」(礼はこれ和を用ふるを貴しと為す)が、例の十七条憲法の「以和為貴」(和をもって貴しと為す)の原型であることはよく知られているが、論語と十七条憲法の間には似た表現を使っていても根本的な違いがある。というのも、論語ではこれに続けて「知和而和、不以礼節之、亦不可行也」(和するを知りて和するも、礼を以てこれを節せざれば、また行はる可からざるなり)とある。礼とはケジメとか規範の意味であって、だからこそ「和而不同」(和して同ぜず)ということが重視されるのである。ところが、十七条憲法(これが本当に聖徳太子の作であるかどうかは今は問題外とする)においては「不同」はみごとにカットされてしまっている。

十七条憲法原文を引用してみる。

一曰 以和爲貴 無忤爲宗 人皆有黨 亦少達者 是以或不順君父 乍違于鄰里 然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成

書き下し文は次の通り。

和を以て貴しと爲し、忤ふこと無きを宗と爲せ。人皆黨有り、亦達れる者少し。是を以て、或は君父に順はずして、乍た隣里に違ふ。然れども上和らび下睦びて、事を論ふに諧ふときは、則ち事理自ら通ふ、何事か成らざらむ。

現代語訳は、いろいろ試みられているが、とりあえず、http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm から引用してみる。

和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

これだけを見れば、結構づくめであって、異を唱えるに及ばないと思われるかもしれない。しかしながら、第三条に「承詔必謹」(天皇の命令は必ず謹んで従え)と言っているのを見落としてはならない。この第三条は、天皇は天、臣下は地であり、天皇が絶対的に君臨することが自然の摂理であると主張しているのであって、これと第一条をあわせ読むならば、「和」というのが単純に「なかよくしましょう」などという能天気な平和主義を唱えているのではなく、「天皇のもとに臣下が一致団結していきましょう」という、上下の秩序体制を鼓舞することが目的だとわかる。

私が敬愛する佐倉哲さんはさすがにこの点を見逃さず、

これは、明らかに、誰かが絶対的真理や正義をもっていて、それゆえそれを他に強制することが出来るという独善主義であり、そこで、必要とされるのは従順だけであり、論議の必要性もなくなります。そういう独善主義を強く否定して、衆議の必要性を説いた和の思想と完全に矛盾しています。
明らかに、十七条憲法は矛盾しているのです。なぜこのようなことが起ったのかといえば、聖徳太子の作とされる十七条憲法が、実は複数の人物の手によるものだったからです。それは、異なった思想を持つ政策ブレーンの妥協の産物だったのです。といっても、これはもちろん僕の仮説です。

と述べている。(http://www.j-world.com/usr/sakura/japan/wa_and_tenno.html)
これはたしかに炯眼である。が、私はこれを矛盾とは考えない。佐倉さんが見逃している点、それは第一条の「事理自通」にある。多くの現代語訳では「事理」を「道理」と訳しているが、「事理」と「道理」は違う。仏教に少し詳しい人なら、これが「事相と理性」のことだと気づくはずだ。聖徳太子が仏教に精通していたことは確かだから、もちろんこれが仏教用語であることを知った上で用いていることはまちがいない。

では「事理」とは具体的になにか。事相(じそう)とは現象ないし事実、迷いの現実世界のことといってもよい。理性(りしょう)とは普遍的な真理、覚りの世界である。この両者の関係については、学派によって解釈の仕方が異なる。十七条憲法制作にあたっては、朝鮮半島から渡来した三論宗系の学僧の影響力があったと思われるが、「事理自通」という表現から推定されるのは、両者の関係が「不即不離」ではなく、「不離一体」または「事理無碍」ととらえていただろうこと。すなわち、上記の書き下し「事理自ら通ふ」は読み方として誤りであり、「事と理自ら通ず」(事[現象]と理[本質]とは本来別のものではなく、一つの事柄の現われにすぎないことが会得される)となるはずである。

これはヘーゲルの「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(『法哲学講義』)とはまったく逆の発想で、ヘーゲルは「理性の認めるものだけが現実に存在する権利をもち、したがって現実に存在するすべてのものは合理的であり、理性によってくまなく認識され、合理的に改造されうる」というぐあいに理性が主体である。両者に可逆的関係はない。したがって、理性が不都合な現実を変革する根拠となる。しかし、「事理自通」とは、現実的なものも理性的なものも一つの本質の側面に過ぎず、すべてを<ありのまま>に受け入れる(従う)のが智慧だ、となる。難しい言い回しをやめて普通の言葉でいえば、「クソミソ一緒」ということだ。言葉の印象からすれば、いかにも深遠な仏教哲学のように思われるかもしれないが、だまされてはいけない。ヘーゲルの弁証法は対立する二者を止揚していくものだが、「事理自通」とか「事理無碍」は、ヘーゲルの用語で言えば「無媒介に」(要するに、「いきなり」)「即」の関係にもちこまれたものである。なんでも「即」なのだから(一即多、差別即平等、煩悩即菩提...)融通無碍である。別名ご都合主義とも言う。「覚りの目でみれば」という形容詞を冠しても無駄だ。ブッダは、クソはクソ、ミソはミソ、と教えたのではなかったのか。

結論を言おう。十七条憲法における「和」とは、相互の矛盾、対立、批判というようなものを排斥することを狙いとしている。おそらくは、当時の豪族を懐柔し、天皇家に従わせることを意図したものだろう。そう考えれば、第一条と第三条とは決して矛盾するものではない。

ここで、聖徳太子の真の意図が何であったか、とか、聖徳太子は実在の人物ではなかったのでは、とかは問題ではない。問題は、十七条憲法の「以和爲貴」が実際に果たしているイデオロギー的役割である。企業の社訓に「以和爲貴」が掲げられている場合、それは決して、社長を批判してもいいですとか、内部告発をしてもいいです、という意味ではない。そういう和を乱すようなまねをするな、と釘をさしているのである。このような「和」とは、体制秩序を維持するためのイデオロギー装置、要するに、「みんなが仲良くやっていこうとしているのに、一人だけ逆らってはならない」ことを教え込むものなのだ。

以上のことから明らかなように、「和」の思想は平和主義ではない。しばしば、日本人は宗教的に寛容な民族だ、と言われるが、事実はそうではない。法然浄土教を弾圧したのも、大本教神殿を爆破したのも、「和」の思想である。異分子を排斥して成り立つ和とはいったい何なのか?もっとも、「和」の思想の持ち主は一筋縄では行かない。異分子に対してもあからさまに排除するそぶりはみせないからだ。かつて、比叡山を批判して山をおりた鎌倉仏教の祖師たちについて、当の比叡山はこういっている。

「彼らは後に比叡山を離れ、それぞれの宗派を開きましたが、私たちは今も、彼らは比叡山の学生、仲間であると考えています。」(小林隆彰・延暦寺学問所長 「宗教者の務めとしての対話、相互理解」)

これがくせ者なのだ。自分がどのように批判を受けたかを問うことなく、逆に相手をとりこむことを考える。どうしてもとりこむことがかなわない場合には、例えば次のような言明になる。

「西洋の一神教と日本の仏教の違いは、否定と肯定の違いだと思います。西洋の一神教は否定の宗教。自分の宗教は真の宗教である、他の宗教は違う。まちがったものはつぶすという考えになります。一方、仏教はそれも良かろう、あれも良かろうとなります。それぞれがそれぞれの特徴を発揮して、人のために尽くすことが仏教の基本なのです、」(同上)

「それも良かろう、あれも良かろう」ならば、西洋の一神教も良い、となるはずだ。しかし本音は違う。本音は、「西洋の一神教は否定の宗教」だから駄目だ、というのである。そうでないならば、このような通念にまかせた言い方はできないはずだ。

「仏教の論理から言うと、皆仏であり神であり、皆元は人間なのです。十界皆成仏からいうと、キリスト教の神さまも仏教の仏さまも一緒。お互いに平和ひとつを目標に、神仏を信じていきたい。これからも宗教協力を進め、手をとりあっていきたいと思っています。」(同上)

自宗を自画自賛しながら宗教協力もないものだが、おそらくこの方はまじめにそれが可能だと思い込んでいるらしい。本当の宗教協力を可能にするためには、「和而不同」の精神こそが大切なのだと思う。徹底した相互批判ぬきの、表面的な仲良しごっこはごめんこうむりたい。(その意味では、○○学会 -他のことでは批判を免れないが - が比叡山サミットをボイコットしたのはあっぱれだ。)

(2005年12月4日脱稿)