以下の拙文は、日本仏教エスペランチスト連盟の機関誌 "La Japana Budhano" 329号(2005)に掲載したものです。

靖国参拝問題について

靖国問題に関する議論が白熱している。この問題はもちろん最近始まったわけではなく以前から議論されてきたのだが、最近は外交問題と関連して問題がいっそう複雑化している。

私が靖国問題に関心を持ち出したのは、1982年、大学を卒業して仏教の勉強を始めようとしていた時だった。当時は、政教分離・信教の自由を守るため、靖国神社の国家護持および政府要人の公式参拝に反対するという、いわば憲法擁護の観点からの関心であった。もちろん、その観点は重要なものであり、政教分離が大切な国是であることに変わりはない。

しかし、仏教徒にとっては国法は第二義的なものである。法律に書いてあるから従う、というのは世俗の立場であり仏教徒の立場ではない。仏教徒にとって第一に問われるのは、仏法に従うことである(仏教徒は法律を守らなくてもいい、という意味ではないので念の為)。憲法に政教分離が謳われているから靖国国家護持・公式参拝に反対するというのは、世俗の立場からのものであって、それはそれとして大切である。

しかし、<仏教徒として>靖国問題に対して発言する場合は、別の観点、すなわち宗教問題としてとらえることが必要である。仮に、いつの日にか憲法が改正(改悪)されて、政教分離原則が廃止されたとしよう。その場合、憲法を根拠にして公式参拝に反対することはできなくなる。しかし、宗教問題としてとらえる限り、憲法でどのように言われようが、反対する根拠がある。

宗教問題としての靖国とは何か?

靖国神社はたんに戦死者を慰霊する為の施設ではない。慰霊(霊を慰める)とか鎮魂(魂を鎮める)というのは、日本古来の宗教観念であるが、靖国神社の特異性は、戦死者を神(英霊は人霊ではなく神霊とされる)として崇拝することにある。日本の伝統的神道では、人間が神になることは非常に特殊なケースであって、通常は「人は死んだら神になる」という観念は神道には存在しない。実は、この靖国の教義「国家の為に戦死した者は神になる」は、通俗仏教の「人間は死んだらホトケになる」を援用したものである。だから、小泉首相が「日本では死んだらみなホトケ」と発言したのも、「ホトケは仏教じゃないか」と失笑を買ったとはいえ、無理からぬことなのである。靖国神社は神道の形式をとっているが、内容的には神道というよりも人為的かつ政策的な新興宗教である。

問題は、ヒトをカミにしたてあげるからくりである。御存知のように、靖国神社の祭神は戦死者であって、戦争犠牲者一般ではない。軍人でも戦地で病死したもの、あるいは空襲で死んだものは祀られないことになっている。なぜならば、そのような死は国家の為に役立っていないと見なされるからである。

人はだれでも死にたくないのだし、殺されるのはもっといやだ。親しいものが殺されたら悲しい、二度とこういう悲劇はいやだと思う。それが自然の感情である。しかし国家は、戦争遂行の為には「国の為に喜んで命を捨てる」人間を作り出すべきだと考える。そのために愛国教育が必要となる。同時に、戦死を悲劇ではなく栄誉と感じさせるための宗教装置が必要となる。それが靖国神社である。靖国神社では戦死者=英霊神にたいする接し方は「痛ましく悲しい死」ではなく、「褒め称えられるべき死」となる。戦死者は天皇にさえ崇敬を受けるのである。かつて中曽根元首相が「国のために倒れた人に対して国民が感謝を捧げる場所がある。当然のことである。さもなくして、だれが国に命を捧げるか」と発言したのも、この事情をよく表している。

ここで注目すべきは、「国のため」ということ。戦死者の遺族の素朴な感情は「国のせい」で死んだのだから国が何らかの償いをすべきだ、というものである。しかし靖国を通じて戦死が名誉とされることにより、「国の利益の為に立派に死んだ、名誉だ、ありがたいことだ」に変質させられる。実際、戦死者遺族への年金は、補償金という性格ではなく、恩賞なのである。靖国神社は戦死者の死を悼む場所ではない。戦死を顕彰し、見習うべきだと教える宗教施設である。

「不戦の誓いを新たにする」場として靖国ほど不似合いな場所はなかろう。戦死者を褒め称えず神と祀らず、全戦争犠牲者(相手国も含め)を静かに追悼すること、慚愧の思いを新たにすることが不戦の誓いであるはずだ。

(2005年9月11日脱稿)