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法話:何を感謝するのか

何を感謝するのか
教心寺 釋 眞弌(山口真一)

「朝に礼拝 夕に感謝」という言葉があります。日々のあくせくした暮らしの中で、せめて1日に2回(起きた時と寝る前、あるいは出勤前と帰宅後)はお内仏に向き合って、礼拝と感謝を捧げましょう、という呼びかけです。

ここで、感謝ということについて考えてみましょう。

よく、「こんな恵まれた暮らしをさせていただいてるのも、ご先祖様のおかげだから、感謝せんとバチがあたるで...」とおっしゃる方がいます。「恵まれた暮らし」というのがどの程度のものかはともかくとして、年輩の方の感覚としては「昔は食べるにも事欠いた、今はぜいたくさえ言わなければ食べていくことはできるのだからありがたい」ということのようです。

私はこういう言い方を耳にすると、内心で違和感を感じてしまいます。それというのも、世界では毎日2万4千人が餓死し、8億人の生命が飢餓にさらされ、そのうち3億人は児童だという国連のアナン事務総長(前)の演説が記憶に新しいからです。この事実の前では、「自分は飢餓には無縁だからありがたい」という感覚は、いかにも思いやりに欠けた傲慢さの表れでしかありません。宮沢賢治は『農民芸術概論綱要』冒頭で、世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ないと述べています。飢餓に無縁であることは、少なくとも現時点においては、真の幸福ではなく、自己満足に過ぎないのでしょう。

江戸時代に、幕府は「上見て暮らすな、下見て暮らせ」という価値観を人々に押し付けました。今でもこれが美徳だと信じている人がいるようです。しかし、これは身分制や現実の差別に不満を抱かせないための封建主義道徳に他なりません。一方に贅沢三昧に暮らす人々があり、一方に飢餓で死ぬ人々がいる、その現実の中で、我が身一人が「恵まれた暮らし」にあることを喜ぶありさまは何と非人間的でしょうか。

「健康で暮らせることが何よりもありがたい」という感覚にも、私は「そうだろうか?」と疑問を感じます。世の中には、難病に苦しんでいる人がたくさんいます。それに、病気はいつ襲ってくるか分かりません。「健康でいられることに感謝」している人は、病気になったとたん、「何でこんな体になってしまったの」と、悲嘆をかこつにちがいありません。ふだん、「ご先祖様のおかげ」を口にしている人は、ここで「ご先祖様の祟り」のせいにするのでしょうか。感謝されたり怨まれたりでは、ご先祖様こそいい迷惑でしょう。

健康で長生きを願うのは、人間である以上あたりまえのことではありますが、それはいつかは「儚(はかな)い夢」であったことが知られてくるに違いありません。感謝を捧げる意味は、物欲が満たされたことへのお礼であってはならないのはもちろん、我が身一人の見かけの幸福に浸ることであってはなりますまい。

源信(天台宗の学僧、浄土真宗七高僧の一人)は『横川法語』で次のように書いておられます。

「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。(中略)世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。 」

人間に生まれたからこそ、「儚さ」をのりこえて真の幸福(菩提)を求めることができる、それは大いなる喜びである、と源信は言っているのです。人間として今・此処にあること、そのことにまず感謝を捧げるのが筋ではありますまいか。


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