法話:引き裂かれないいのち

引き裂かれないいのち
明岸寺 釋 嘉章(伊藤嘉章)

3月11日の東北地方太平洋沖地震により、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

震災の直後のニュースの中で、幸いに助かった若い女性が、身近にいた人が亡くなって、自分だけが助かったことに、深い心の痛みを感じ、まるで助かったことが間違っていたごとく、罪の意識に苦しんでおられる姿が印象に残りました。大きな事故や災害の中で、九死に一生を得て生き延びた人の中に、同様の心の苦しみを訴える人は少なくないようです。

自分が助かったのだから、有難いと喜ぶべきなのに、とても喜ぶどころではない。どうしてこのような気持ちになるのでしょう。私だけ生き残ってしまった、という苦しみは、私だけが・・・と、私の命と他者の命を区別する意識によって、より絶望的な渕へ、自分を追い込みます。

でも、その始まりにある心の痛みは、本当は何処から来るのでしょうか。人の命が失われた悲しみ、自分が生き残った悩み、それだけではない、もっと深いところにある痛み、それは、本当は共にあった、一つであったはずのいのちが、引き裂かれてしまったと感じる痛みではないでしょうか。

私たちは、一人ひとりが命を預かって生きている現実の中で、一つ一つの命にかけられた「共に在れ」という願いを忘れています。でも、死に直面する時に、引き裂かれたくない、「共に在りたい」という、自分自身の根源的な願いに気付くのではないでしょうか。その願いの中にこそ本当の私が生きているのです。

そのことに気付いた時、どんな悲しみや苦しみの中でも、私は一人ではなかった。「共に在れ」という願いに包まれ、一つの命の死によって引き裂かれることのない大きないのちを生きているんだという喜びに出遭うことができるのではないでしょうか。