罪悪の自覚と覚りと天国の門

- 八木雄二『イエスと親鸞』を読む -

カバー絵

増谷文雄先生の『仏教とキリスト教の比較研究』(筑摩書房,1968)は今でも名著だと思う。これは、およそ30年ほど前、私がはじめて手にした宗教書だった。それ以来、キリスト教を体系的に学ぶことはなかったものの、私の中では、仏教とキリスト教の比較というテーマは関心事であり続けている。自分を知るためには、他者の眼を通じなければならないのと同様に、仏教を知るためにはキリスト教のフィルターを通すことが有効だと思うからだ。

しばしば、真宗とキリスト教との類似性が指摘される。本書もまたその観点から執筆されているが、著者がどちらの宗教にも属さない哲学者であることが、類書とは異なる独自性をなしているように思われる。このことは、長所でもあり短所でもある。長所とは、伝統とか権威とされている神学・教学にとらわれないことであり、短所とは、二つの宗教への理解が表面的になっているのではないか、という危惧である。

まず長所というか、著者ならではでの理解によって落ちた私の目の鱗について、箇条書きふうに記してみたい。

第一。洗礼者ヨハネは仏教の影響を受けて洗礼・懺悔の手法を確立した。イエスがそれを受け継いだ以上、仏教がキリスト教の成立に影響を与えたといってもよい。(逆に、キリスト教が浄土教の成立の影響に与えたかも知れないと著者はいうが、それをいうなら、ゾロアスター教の影響だろう。)
第二。キリスト教の教説の多くは、イエス独自のものではなく、ヨハネから受け継いだと想定される。
第三。イエスは自らが罪人という自覚をもっていたが、それは師ヨハネを見捨てて逃げたことを深く悔いたことと結びついている。
第四。イエスは律法を緩やかにしたのではなく、逆に厳密に解釈した。罪悪を形式的表面的なものではなく内面的にとらえていく、すなわち心の中で起こす欲望自体が罪悪であると教えることで、逆に万人に天国への門を示そうとした。
第五。唯一神とは、一個人における神の唯一性をいうのであって、世界中に神が複数いてはならない、といっているのではないことが、聖書を文字通り読めば明らかになる。(これは真宗における阿弥陀仏の位置と同じだろう)

前述のとおり、私はキリスト教神学をきちんと学んだわけではないので、上記のことはおそらく伝統的キリスト教会の教えることとは異質だと私が感じたまでであって、ひょっとしたらこういう理解が神学者によってはすでになされているのかも知れない、とお断りしておかないと公平ではないだろう。あるいは、著者のキリスト教理解はまちがっている、あるいは表面的にすぎるのかもしれない。もともとの専門家ではない著者が、伝統神学・教学をふまえないで解釈する以上、誤りや不十分さは避けられない。じっさい、著者の仏教理解には誤りがある(と私は思う)。

その仏教理解の誤りとは、一つは輪廻の解釈であり、もう一つは「大乗仏教でも自分の救い(成仏)が先にあって他者の救済はその後のことだ」というくだりである。また、歎異抄の読み方についても、あまりにも淡泊すぎるのではないか、というのが私の印象である。

とはいえ大筋でいえば、イエスと親鸞がほぼ同様の自覚をもっていたこと、それはすなわち罪悪の自覚であり、その自覚だけが、キリスト教でいえば天国への門に入ること、仏教でいえば浄土へ往生する(ないし成仏する)唯一の道であることを示す論理の組立には説得力がある。それゆえ本書は、私の立場でいえば、すぐれた「キリスト教入門書」であった。キリスト教徒が読めば、「真宗入門書」になるのかもしれない。ただし、過信しないほうがいい。

最後に。著者が終章「幸福とは何か」で語っていることは、やや難解ではあるが、本質的には真宗門徒であれば十分にうなずくことのできる内容ではないか、と思う。それは真の意味での幸福とは喜びではなく悲しみであり、欲望の充足から得られると幻想されるものは真の幸福ではないということ。存在の不安感を解決できるのは宗教だけであること。

「イエスや親鸞の語っていたことは、徹底して合理的であり、疑似的にしろ西洋化したわたしたちの理性能力を突き破って、わたしたちの精神を本当の自分に目覚めさせる論理にほかならない。(中略)世界を突き進んでいるのは、きれいごとにされている欲望なのである。それは『努力』という名の権力であり、『善行』という名の悪徳なのである。」(231頁)

がんばって何かを成し遂げることが幸福の鍵だと錯覚してはならない。

本書データ/『イエスと親鸞』八木雄二著,講談社刊,2002年,ISBN4-06-258245-7,19x13cm,235頁,1500円(税別)