仏教は「あの世」を語らない

-渡邊了生『親鸞の弥陀身土論』を読む-

お墓に行くと、ときとして「倶会一処」(くえいっしょ)と刻まれた墓石を見かけることがある。これは阿弥陀経という、浄土教(浄土宗や浄土真宗など)の基本経典の一つに由来する言葉だ。これについて、浄土宗の公式サイトでは次のような解説がある。

「たとえこの世で大切な方との別れを迎えようとも、南無阿弥陀仏とお念仏をおとなえする者どうしは、阿弥陀さまのお迎えをいただき、必ず俱(とも)に一つの処(ところ)、すなわち西方極楽浄土でまたお会いすることができるのです」
出典:https://jodo.or.jp/keyword/15127/

西方極楽浄土とは死後の世界、あの世のことだ、という通俗的理解が蔓延する中で、このような僧侶からの語りかけは仏教をゆがめている、と渡邊氏は力説する。

「また出会える世界」という言葉をよく耳にします。それこそが親鸞聖人の浄土観の第一義であるかのように。確かに「愛別離苦」の悲しみを抱える人たちにとって「また出会える世界」は、その苦しみを癒すための未来の理想郷ともいえましょう。けれども親鸞聖人は、そのような私たちの現実の苦悩や欲求を都合よく満足させていく世界こそが「浄土」であると説示されたのでしょうか?
(中略)
もし仮に来世の「出会える世界」が実在するならば、私たちは、どんな姿で復活し愛する人々と再会するのでしょうか?若き日の姿?臨終時の姿?白骨の姿!?霊魂での再会!?同様に「怨憎会苦」の対象となる嫌な人々とも否応なく再会ですか!!?迷いの「輪廻の生まれ変わり」との違いは?どうやら私には様々な疑問と矛盾の"?"が浮かんできます。こんな"?"を思う私は不信心者か異安心?

仏教では死後の世界を語らない。そういうものは存在しないのだ、と断定はしない。しかしそういうことについて、ああだこうだ、と議論することには何の意味もない。だから釈尊は、そんなことに係わずに現在の修行に集中せよと戒められた。浄土教も仏教であるからには、この点は変わらない。仏教の基本教義は、苦・無常(すべては変化する)・無我(固定的な実体はない)だから、肉体が滅びても存在し続ける霊魂のような存在は認めないし語らない。霊魂を想定しないのだから、霊魂の行き先についても語らない。実体的な輪廻(物理的な意味での生まれ変わり)はありえない。この点は決して曖昧にしてはならない。

ところが、どうやら本願寺派(西本願寺)では、浄土を死後の世界のごとく語ることがふつうになっていて、渡邊氏のようにこれを否定する学者には圧力がかかるらしい。当の渡邊氏がそう証言している。これは衝撃的だった。渡邊氏が「浄土は死後の世界ではない」とおっしゃることは、大谷派(東本願寺)ではむしろ常識だから。たとえば、尾畑文正先生は次のようにお書きになっている。

浄土とは阿弥陀経に「倶会一処」(ともに一つ世界に生きる)とあります。あなたも私もともに生きることのできる世界です。 それは、決して私たちが普通に考えているような死後の世界としての「あの世」ではありません。また、ユートピアとしての理想郷でもありません。それは、人間を見失ったものに人間を回復させる仏さまの世界なのです。
出典「東本願寺リーフレット いま浄土とは...」

もっとも、最近では大谷派でも、「親鸞聖人が往生という語で言わんとされているのは死後のことだ」という主張があるようだ。真宗教学に疎い私には、親鸞聖人の真意について判断することはできない。ただ、もしも親鸞が、往生は死後のことで浄土とは死後の世界だ、と考えていたとすれば(そうとは思わないけれども)、それは仏教ではない。浄土真宗は異端であることになる。浄土真宗が仏教であるとすれば、浄土とは悟り(涅槃)の表現でなくてなならない。そして阿弥陀仏とは神の如き実体的人格ではなく如(真実)の別名でなくてはならない。

以上のようなことを教学的根拠に基づいてなされた講義(安居)が本書の内容だ。決して難しいことは語られていない、素直に理解できる本である。

それならば「倶会一処」とはどういう意味か?阿弥陀経を素直に読めばよい。「衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり」、これが原文(漢文書き下し)である。「諸々の上善人」とは浄土の菩薩たちのこと、そのような菩薩たちと出会うことができる、ということであって、死に別れた家族と再会するという話ではない。すでに姿かたちを失っているのだから、誰それが父母、という区別はないのだ。

浄土とは、生老病死の苦が解決され、さまざまな執着(死んでもあの世で生き続けたい!!)から解放された世界のことだ。しかし葬儀をなりわいとする僧侶としては、悲しみにひたる遺族を目の前にして浄土を死後の世界として語りたくなる気持ちが生じてくるだろう。それは分かる。しかし何の根拠もなく法を説いてはいけない。そんな死後の世界だったら、他の宗教がさんざんに説いているではないか。今更それらの宗教の仲間入りをしようというのだろうか。思うに、死を縁として「癒し」を求める気分に応じようという発想が根本的に誤っているのではないか。癒し、というか精神的なリラックス。最近の流行で言えばスピリチュアル、か?「お経を聴いていると何となく落ち着きます」と言う人は多い。落ち着くかも知れないが、一時的な気の迷いに過ぎない。すぐにまた落ち込むのが関の山だ。自分が安心できればそれでいいのだろうか。そこを根本的に問うべきだろう。「あなたも私もともに生きることのできる世界」のために私は何をすべきか、を考えよう。


本書データ/単行本: 132 p ; サイズ(cm): 18.2 X 12.8 ;出版社: 真宗興正派 ; ISBN: 490757911X ; (2012/09)