現代のミリンダパンハ、真剣勝負の対話

- 『僧侶と哲学者 :チベット仏教をめぐる対話』を読む -

カバー絵 『ミリンダパンハ』では、ギリシア人であるメナンドロス王とインドのナーガセーナ比丘により、仏教教理に関する問答が交わされている。平凡社東洋文庫の邦訳では、『ミリンダ王の問い -インドとギリシアの対決-』 とサブタイトルが付けられているように、これはおそらく人類史上初の西洋と東洋の知的バトルであった。それから2000年の時を経て交わされたパーナドゥラ論戦(1873年にスリランカでなされたキリスト教と仏教の議論)に代表されるように、議論は常に真剣勝負であった。この点、最近のいわゆる「宗教間対話」など、あたりさわりのない話題での世間話、茶飲み話に過ぎない。

それで本書もまた、その類いのぬるま湯的対話かと思って、大した期待もなく読み始めたのだが、私の予想はうれしい方に外れた。ただ、議論の勝ち負けは問題にならない。それでも、取り上げられるテーマは多岐にわたり、かつ知的刺戟に満ちたものばかりである。本書の帯に山折哲雄氏による推薦のことばがあり、これが本書を手短に紹介するには都合が良いので引用する。

二人のすぐれたフランスの知性が奇蹟のような対話を交わした。
片や無宗教で哲学者の父、
片や分子生物学者の殻を脱ぎ捨てて出家しダライ・ラマの弟子になった子、
この稀有の親子が科学と仏教、世界と自己、西洋の精神と東洋の知恵について縦横無尽に議論の火花を散らし、驚くべき洞察の深みにわれわれを誘う。
いま西洋世界で最新のベストセラーになっているのも、むべなるかなだ。
大胆不敵な人間洞察の本書を、推薦する。(1998.9)

私自身はもともと哲学を志向していたし、どちらかというと父であるジャン=フランソワ・ルヴェルのような無神論に立場が近い。その一方で、子のマチウ・リカールは仏教者であるとはいえ、私は輪廻や中有(バルド)を実体的に認めるチベット仏教の教義には納得できない。だから、二人の対話を読みながら、どうしてもジャン=フランソワ・ルヴェルを応援してしまう。が、どちらが理路整然としているかといえば、マチウ・リカールの方である。

訳者の菊池氏によれば、フランスは今哲学ブームなのだそうだ。それも、生きる意味・生きる知恵を求めてのブームであるらしい。近代合理主義を最終段階にまで推し進めてきたヨーロッパの雄であるフランスが、キリスト教では満足できずに仏教を求めている、と聞けば、日本の仏教者のうちには「やはり近代合理主義ではダメなのです」と言い出す人が出てくるだろう。しかし、「人間の知恵ではだめなのです。必要とされるのは仏の智慧です」とか、「日本古来の伝統的信仰形態のよさを見直しましょう」とか、その程度のことを言っている仏教者は、マチウ・リカールの 「信仰は理性と対立する時は迷信となります」という警告をよくよく心得ておく必要がある。

本書は対話であるとはいえ決して読みやすくはない。とくに前半の形而上学に関する議論は難解である。しかし、他の何をさしおいても読む価値があると思う。

最後に、私たちが常に考え続けねばならぬ問題を、二人の対話から引用することで提起しておきたい。

(ジャン=フランソワ)私が思うに、知恵にかんする見方は二つに分けて考えるべきだ。来世や、死後の何か、永遠なるものを信じる見方と、死は存在の完全な消滅であって、その先はないという原則から出発する見方だ。私個人としては、二番目のほうを信じている。こちらの枠組みで言うと、知恵の探求はいつも頼りない、つかの間のもので、現在の生の限界の中でおこなわれる。この生は、人間の知っている唯一の生、実在していると思う唯一の生で、そこにはより高い次元の解決への期待はいっさいない。だから、いつも根本的な区別が立てられることになる。人生の意味の探究、いわば世俗的な意味合いをもった知恵の見方と、宗教的な意味合いをもった見方だ。
(マチウ)その区別は、あなたが言われるほど根本的だとは、私には思えません。いまかりに、この世の生の前と後に一連の生の状態があることを認めるとした場合、それらの異なる生の状態は、本質的に私たちの現在の生と同じ性質をもっています。ですから、この現在の生に意味を与える知恵が見つかるなら、その同じ知恵が私たちの未来の生にも意味を与えることになります。こうして、認識、精神的完成は、人生のどの瞬間にも通用します。この人生が長くとも、短くとも、それが一回だけでも、何回あるとしても、変わりません。生に意味が見つかったなら、その意味を活かすのに、死を待つ必要はありません。(P.344)

この問題をめぐるやりとりはまだ続くのであるが、この「人生の意味の探究」が本書を貫くキーワードである。


本書データ :『僧侶と哲学者 :チベット仏教をめぐる対話』、ジャン=フランソワ・ルヴェル +マチウ・リカール、菊地 昌実+高砂伸邦+高橋百代訳、新評論刊、1998年初版、2008年新装版、ISBN-13: 978-4794807762 、364ページ 、3800円+税