人間理性への信頼こそ仏教の土台

- ダライ・ラマ来日講演集『未来への希望』を読む -

カバー絵今年6月に、私が住職をつとめるお寺の講演会にチベット仏教僧侶を招聘するにあたり、私としてもチベット仏教について勉強しておく必要があるため、いろいろと読みあさっているところである。ところが、日本で出版されているチベット仏教関連の本は、単なる外形的知識の紹介か、でなければ専門書がほとんどで、その本質をつかむのに適した本が少ないのが実情である。もっとも、チベット仏教は相当に難解で、顕教は中観派哲学を継承し、更にその上に密教が構築されているので、複雑極まる様相を呈している。

いっぽう、チベット仏教は、日本ではかつて「ラマ教」と呼ばれて、大乗仏教の亜種くらいの扱いしか受けていなかった時期がある。『チベット死者の書』により、日本でも徐々にチベット仏教に関心が持たれるようになったとはいえ、どちらかといえばエキゾチックな関心ではなかっただろうか。そもそもこれは主流派のゲルク派の書ではない。

ところが、今や世界中を見渡してみると、最も注目を集めているのはチベット仏教、次いでテーラワーダ仏教であり、禅仏教はかつてほどの勢いはないようだ。チベット仏教の盛況の理由は、チベット仏教そのものが持つ理論的性格にくわえ、なんといってもダライ・ラマ14世の活躍ぶりにある。上田紀之氏によれば、次の三点が指摘されうる。(以下、引用は『増補 チベット密教』(ちくま学芸文庫)解説文による)

(ダライ・ラマ14世との対談を通じて)驚かされたのは、その徹底した論理的思考であった。チベット仏教は、その教理も論理的に構築され、修行においても僧侶同士の問答を重視する、きわめて論理的なものなのである。さらに、それは明晰な論理でありながら、慈悲-「愛と思いやり」の実践に常に支えられた、大きな温かさに満ちたものであった。
ダライ・ラマは常々、密教を学ぶためには、その前に上座部の経典を、そして大乗教典を徹底的に学び、その後に初めて密教に進んでいくという、三段階の学習の階梯を強調するが、それはゲルク派の宗祖ツォンカパの主張そのものであり、顕教と密教の統合を重んじる、バランスのとれた見方を提示している。
(中国政府による弾圧により)チベット仏教は国境を越え、教理的にもより現代性を強めて、世界仏教化することになった。チベットという閉じた世界の中で、それを伝統として保持する内部の人間にのみ理解可能であればよかったチベット仏教には、1959年のダライ・ラマのチベット脱出と亡命政府の樹立のあと、外部の人々に自らを説明する必要性が求められることになる。そもそも論理的なチベット仏教とはいえ、それを世界に通用するものとして提示することは容易なことではない。それを可能にしたのは、ダライ・ラマ14世の類い稀な「編集能力」であった。

こういうわけで、それまでツォンカパの著作をどうしても読破しきれなかった私は、ダライ・ラマ14世の著作を読むことにしたのであった。その中でもいちばん読みやすいのは、(講演録だから当然ではあるが)本書『未来への希望』である。本書のもとになったのは、2007年に来日した折の講演6本である。講演のはじめにはナーガールジュナ(龍樹)の帰敬偈が唱えられる。このことからしても、ダライ・ラマ14世がいかに中観派の空の思想を重要視しているかが分かる。

『未来への希望』という書名は、ダライ・ラマ14世の世界観と人間観を端的に表しているようだ。20世紀という時代がどうであったのか。私は大谷派の僧侶であるが、大谷派の研修会では必ずといっていいほど、「近代的知性の闇」「人間性の喪失」が語られる。「人間の知性ではもはやダメなんです」というわけである。しかし、ダライ・ラマ14世は言う、「一世紀の間に、実に多くの悲惨な出来事が起こったにもかかわらず、一般的には、人間はより成熟してきたのです。ですから、世界はより良くなっていると私は思いますし、これを理由に、未来への望みがあると言えるのです」と。私はダライ・ラマ14世の意見に賛成だし、何よりも温かみを感じる。自らは厳しい苦難にさらされながら、冷静に現実を把握している人の発言には重みがある。

私はチベット仏教を信奉するものではない。とりわけ、その中有(バルド)論=実体的輪廻転生説にはどうしても納得できないし、無上ヨーガタントラが導入されねばならぬ必要性もまったく理解できない。しかしながら、納得できない・理解できないことは多々あるにせよ、ダライ・ラマ14世の仏教の本質的部分にはあまり関係ないように思われる。本質とは、知恵(智慧、空・縁起の理解)と慈悲(利他行の実践)、である。人間がドグマに従属するのではなく、人間のために仏教がある。私がダライ・ラマ14世に教えられたのはかくの如くである。


本書データ/『未来への希望』ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ講演集、マリア・リンチェン訳、大蔵出版刊、2008年、ISBN978-4-8043-3069-3、211頁、1900円(税別)