教行信証の弁証法                                                                     辻   友久 教行信証の弁証法 目次                            頁 はじめに:                            3                          第1編:  親鸞の時代とその生涯         第1章    親鸞とその時代                    7 第2章    親鸞の生涯                      9 第3章   三願転入                       12 第4章   非僧非俗、愚禿の親鸞                 17 第5章   悪人正機                       26 第6章   善鸞義絶                       29 第7章   親鸞の聖徳太子観                   31 第8章   自然法爾                       41  第2編: 教行信証の読解ノート 第1章   教行信証の作成、構造、完成              44  第2章   教行信証・序                     47 第3章   教の巻                        50 第4章   行の巻                        54 第5章   信の巻                        73 第6章   証の巻                        96 第7章 真佛土巻                       100  第8章 化身土巻                       106 第3編:  教行信証の弁証法 第1章 弁証法の歴史的展開                  126 第2章 宗教と科学                      131 第3章 有限と無限                      134 第4章 因果、因縁=縁起                   138 第5章 自力と他力、自利利他                 143 第6章 自然                         148 おわりに                            149 はじめに:    私が親鸞に興味を持ったのは、35年ほど昔、檀家寺の彼岸の法話で龍谷大学の教授が親鸞の生きた時代の歴史と親鸞の教えを話されました。その後自分で親鸞の解説書を買ったりして、益々、興味を持つようになりました。 平安末期;鎌倉初期の1173年に生まれ、90歳までの一生を日本の中世の混乱期に一人の人間として、又宗教家としての主体性を失うことなく、全ての人々を平等に救うと言う、釈尊の「法」、「ダルマ」佛教本来の教え、大乗仏教の教えを基に、親鸞は自我のとらわれから解放し、真実信心の立場に立ち自由平等人格の尊厳を認めた同朋集団を考えておりました。現在の私たちから見ても合理性があり、科学性を持ったものであることに驚きを覚えました。それ故に、当時の歴史的制約の中では革命的であったと思われました。  35年、45年前は1960年、1970年 安保闘争の時代、今と比べて世の中、若い者を含めて社会や政治にもっと関心を持っていました。皆それぞれ、社会科学の勉強をいたしておりました。その分野は、経済学、社会学、哲学、歴史学、ケインズ、マックスウエバア-、カント、ヘ-ゲル、サルトル、など等、多くの分野にまたがりました。1970年初頭頃までは、いまだ、マルクス経済学、弁証法的唯物論、史的唯物論の全盛時代でありました。  戦後の親鸞研究は思想史研究の部門から転回されました。はじめに、服部之総の「親鸞ノート」はマルクス主義歴史学者として歴史的親鸞像(歴史上の親鸞)、親鸞の定位する信仰の基盤が、封建支配階級の農民、女性にあることをマルクス、エンゲルスの古典的解釈、教条主義的史的唯物論の適用をもっておこなわれました。 宗教的契機のみで、その時代と社会の直接的な反映としてのみ把握することは宗教を研究するには大きな限界を持っておりました。しかし、その当時の親鸞研究の突破口として果たしたものは画期的なものでありました。 その後、井上光貞、家永三郎、笠原一男、等はマルクス主義者でないが親鸞の依拠する基盤、下部構造についての論争を深めていきました。 上のような思想史的、社会史的な研究が宗教の立場を社会の諸条件の反映のみとして考察することの限界に気づき、川崎庸之は「親鸞自身がいわば一個の偉大な被抑圧者であったことを踏まえ親鸞の社会的立場への確かな見通しのもとに、親鸞の宗教の成立における具体的な環境の考察、思想と社会的条件の関係の考察をする必要があります。」と述べております。 最近では亀山純生の「中世民衆思想と法然浄土教」で唯物論学者でありますが、「親鸞研究に於ける哲学的:思想的と歴史学的研究の乖離を指摘し、前者は社会思想的意義やイデオロギー的意義を論ずるに止り、親鸞その人と中世人における救済の人間的意味や信仰の内在的論理の追求は極めて希薄である。また、後者は史的唯物論の立場を明示する親鸞論には親鸞の信仰的な内面的な意味や主体的な意義の位置づけ、とりわけ宗教の視点からの解明はほとんど皆無に等しい。 他方、親鸞の信仰を内在的に理解し、その内面的意義を標榜する人、学者、信徒:門徒は哲学的思想的研究、歴史学的研究の視点を持たないで、唯時代を超えた、歴史を超えた普遍的な宗教的真理としてのみ扱い、その歴史を分析し、親鸞の救済の論理そのものが中世社会の歴史的条件によって内在的に媒介規制されていることの視点は皆無と言って過言ではない。教学に於いては歴史を超えた宗教の普遍的あり方を歴史や社会生活と断絶した内面的自覚に還元する呪縛、歴史を社会科学的に階級社会関係から明らかにしようとする史的唯物論の呪縛、近代西洋哲学の親鸞研究がその一方的短絡的解釈による近代主義の呪縛、歴史法則主義や社会関係還元主義を批判して、身体的感性的の現実に定位して人間と社会をトータルにして理解すべきである。」と述べています。  しかしながら、私は亀山純生もまた、哲学、歴史学、宗教学の三角形の中にぐるぐる舞いしてその呪縛が解けていないことがよく判ります。 彼は唯物論の立場に立っており、学問研究の方法論は何と言っても唯物論を基盤にして進めてきています。宗教と言う特殊な分野を研究するには、彼も言っていますが身体的感性的の現実に定位する事とはどういうことか、それは、その教説をある程度身体的に理解し、その教説を受け入れる態度が無くては、宗教心が無くては、いかなる宗教の研究も発展させることできないのではないかと思われます。宗教は時代を超えた、歴史を超えたところに普遍的な真理を、佛教では{法}={ダルマ}佛教の根本的立場を受け入れること、親鸞ではその根本的立場を基本的には受け入れてこそ、親鸞研究が進められるのではないかと思われます。  この問題について、二葉憲香は「親鸞研究は私の生涯の課題であり、宿業と言えるものであるかと思う。真宗寺院に生まれ、龍谷大学に学んだ私にとって親鸞は最も近いはずであるが、その教説を素直に受け入れることは出来なかった。教義を学ぶことに疑問を持ち始めた私は仏教史研究を志した。しかしそこでも私は行き詰まってしまった。根本的に仏教を知ることが出来なければ、その歴史的意義を知ることが出来ない。30歳を過ぎて(非我)に行きあたった私は、漸くして親鸞に帰ることが出来、その門に立つことが出来た。」「自我、自執へのとらわれから解きはなし、人それぞれの我執をひるがえして、人間の苦悩を抜く利他の力をそなえる。親鸞が本願というものを対象化させる世界から本願を自らの主体にした如く、自力の心を捨て我執を離れ、本願他力の不可思議、他力の本願に主体的に立った時、自らの生き方の主体性が生まれてきた。」と述べています。二葉憲香は親鸞研究の歴史学的研究と歴史を超えた宗教の普遍的真理についても、「我々は社会史的立場の有効性を認めると共に、それが宗教の立場を社会諸条件の反映としてのみ考察すると言う限界を認めなければならない。しかし、宗教の立場は単なる社会条件としての反映としては十分に把握することは出来ない。宗教の立場は超時代的であり、その根底は歴史的世界を支える前歴史的地盤である。従って、社会的な諸条件をもって原理的に宗教の立場を解明しえると考えるのは誤りである。宗教を社会の反映と見ることは、宗教の主体性の剥奪することに他ならないが、宗教は社会:歴史以前の自己に関する人間の自覚としての主体の確立を可能とするのであって、宗教的立場の社会:歴史との関係は反映でなく対決である。 宗教史の成立は、社会条件の反映として捉えるべきでなく、宗教的契機と社会的契機、超時代的契機と時代的契機の対決として捉えなくてはならない。このように考えると、親鸞研究のためには、まず彼によって立つ超時代的な立場すなわち仏教的立場を明らかにして、次に、彼の仏教的立場が、時代の思想及び社会の諸条件と対決してどのように彼の思想を形成し行ったかを明らかにしなくてはならない。」と述べております。社会:歴史との関係は反映でなく対決であると強調されています。  私はこの点については理解を致しますが、対決とは一体どういう事なのか。私たちはここで、哲学的アプローチも必要であると思います。  終戦間際の獄死する前に三木清は未稿の「親鸞」を著していました。 哲学的親鸞像を求め、人間学的立場から生の自己性=阿弥陀仏の救いによる内在的超越の自己の主体性の確立、普遍的原理としての客観的教法(仏法)、歴史的社会性に規制されるもの、(普遍的原理はそれ自体として直接に現れるもので無くて、歴史を通じて表れる)これらを三位一体とした論理の展開をはかり、三木は歴史性と客観性の統一を図り、哲学的に解釈しようとしましたが、その完成を見ることなく、太平洋戦争の終戦を待つことなく獄死し、その後「親鸞」が発見されました。友人でもあった服部之総の温かみのある批判であったが史的唯物論の立場から三木の哲学的親鸞像の非歴史性の痛烈な批判を受けるのみでした。それに対する議論を深めることが残念ながらできませんでした。  哲学的立場から、弁証法的唯物論者であった林田茂雄は「親鸞の信心が疑いそのものによって固められる信」である。それが「信心の弁証法である」と述べた、これは林田が唯物論者であり教学が理解できていないところを雲藤義道に厳しくつかれ、「本願を疑う心そのものをもって本願を信ずる」とは一体全体どういう事なのか? それは弁証法的思弁の世界だ、「弥陀の本願を疑う輩は、浄土往生を得ざることは言うまでも無い。」と切り捨てられました。雲藤は「機の深信と法の深信、二種の深信の対立止揚(アウフヘーベン)の弁証法によって益々研ぎ澄まされていく。捨てようと努めても捨てきれぬ自力の執心、その愚かなる機想に対する親鸞の深刻な内省から如来の本願を信ずる以外に救われない自己を発見した親鸞、そこに親鸞における「信心の弁証法」があると述べています。  野間宏は晩年、「親鸞」の中で「親鸞の佛法理解、その日本における再構成というべき教行信証による精密なる宇宙論としての浄土理論にもとづくその到達点が必然的に釈尊のうちに生まれた仏法の法(ダルマ)であることを理論でもって明らかにした。 自から然らしめる大きな働きが宇宙に(自然)にそなわっていることを見出し、この働きを佛の法として捉えようとしたのである。私は自己運動としての自から然らしめる虚空(宇宙)の働きとするという親鸞の重要な考えは、ここから引き出されてきたと言っても良いと思う。親鸞は長い生涯にわたる大きな苦痛を繰り返してようやく到達したものである。宇宙論としての浄土理論は全体としての流れを理解して弁証法的に作り上げられた。」と述べています。  現代の日本における最高の理論宇宙物理学者である池内了は「宇宙論において私たちはいまだお釈迦様の掌の上でうろうろしているだけというものだ、現在の宇宙の領域とされているものから、たったの300分の一しか観測していない。その狭い範囲で決定した値が本当に宇宙を代表しているのだろうか、人間中心宇宙論、天動説、今の300分の一から推し測った宇宙論は人間の傲慢さでないか、自然の法則に矛盾しない限り、宇宙は無限無数に存在する。」という、その自然、宇宙のなんともいえない不可思議を述べています。  比較宗教学者である、W。ランドルフ:クレツリ、は「佛教のコスモロジー」の中で浄土教の宇宙論を研究しています。外国の宗教学者が浄土教を宇宙論で研究しようとしている事は興味のあることです。  大峯顕がそのものズバリ「親鸞のコスモロジー」で「親鸞の宇宙論は宗教的信仰のコスモロジー、調和と秩序ある完結した世界、親鸞の念仏とは如来の宇宙の法則に従う事である。普遍的な真理に従う人間存在の道であると言わざるを得ません。佛教の法(ダルマ)、 大乗仏教、浄土教、親鸞の往相還相回向による浄土教における大きな寄与、浄土教のコスモロジーは親鸞によって大きく展開しました。既成の佛教のコスモロジーが、自力のコスモロジーが破られ自己の主観的な世界に意味が無くなり、客観的弁証法的な世界、宇宙の中に信仰によって開かれた独特のコスモロジー、往相と還相との二つの大きな生命の還流の流れに乗せてくる阿弥陀仏の本願、本願の念仏に自分の存在の意味を見出した。」と述べています。  私の親鸞研究は、親鸞が著した書物を中心に教学の研究、歴史学の立場からの研究、哲学的=弁証法的方法論、これら三方向から、対決対立させ、統合化し、綜合かし、そころから親鸞が明らかにしてきたところを聞き思索し道を求めていきたいものです。   第1編   親鸞の時代とその生涯 第1章 親鸞とその時代 親鸞は西暦1173年下級貴族の出である日野有範の長子として出生しました。この頃はすでに政治の実権は平清盛に移っていました。藤原氏全体が勢力を失い藤原氏一族の中でも小さな分家であった日野氏の一家が豊かなはずはありませんでした。 この時代は律令制国家が崩壊し武家政治へと世の中が大きく変革していく時代でした。 645年の大化の改新から日本の土地は全部国有化し、班田収授の法により律令制国家を 作りあげてきましたが、いろいろな名目で例外的に私有地が残されました。屯倉、田荘、 神社寺院の領有地、又、口分田が足りなくなり、743年に墾田私有法を発布して土地の 開墾を奨励しました。 すでに私有地を持っている豪族や神社寺院の実力者が益々大きな 開墾をして私有地を広げていきました。これが荘園となりました。荘園は益々栄え荘園 領主は次第に律令制を無視して己の利益を拡大強化するため自らの武力を持ち始めました。 大荘園領主はその力で小さい荘園領主を配下に治め又農民をも支配に治めるようになり ました。 これに対して律令制度で支配権力を維持していた天皇皇室貴族までが自らの 荘園を持たざるを得なくなってきました。律令制度を崩壊させる荘園制度に自ら巻き込 むことになりました。 荘園制度の発展は藤原氏の勢力を強め宮廷貴族の繁栄は空前のものでありました。この 制度の発展維持のために荘園領主は管理のための自らの役人を任命しました。 役人は仕事遂行のため武力を確保し農民を武士集団に組織するようになりました。このような武士 集団が全国的に発生しますと律令制度を維持するための兵制も衰えていきました。これが 益々荘園を守る私有の武士集団を全国的に大きくし、平安の末期の白河法皇の院政の時には国家の公兵に頼れなくなり皇室の私兵である北面の武士まで作らねばならなくなるほど私有の武士集団が勢力を持っていきました。 荘園領主がその権力維持に作ったはずの役人が新興の武士集団として自分ら自身の支配権力を樹立しようしました。 荘園制度の発展が自ら守る役目のものが自らを掘り倒す役目を持ち始め没落へと導くと いう皮肉なことになっていきました。  1156年の保元1159年の平治の乱は 皇帝貴族から武家への権力が移動していく最初の動乱となりました。平治の乱で平家が 勝って平清盛が政治の実権を持ちました。しかし、平家の政治は従来の藤原氏と変わる ことない貴族政権のまねごとであり腐敗し栄華とひと時の隆盛を謳歌しましが、武士 集団の期待を裏切ったため源頼朝が挙兵し武士集団による新しい幕府政権が鎌倉に誕生 いたしました。 一方、神社寺院の荘園にはいかなる貢租もなかったので他の一般荘園領主から荘園 領土が預けられ又、謙譲されたため寺社領は大きく膨れ上がると共にそれを守るため の武力を寺社領内に組織化しましたそれが僧兵でありました。延暦寺をはじめとする 全国の名だたる寺院は僧兵を養い時の皇室や武家にも対抗できる大きな力を確保して 治外法権的な宗教的独立小国を組織化し行きました。 荘園制度の崩壊で新しい武士 支配階級が確立しましたが神社寺院の僧兵の力は強く武士集団に攻撃焼き討ちにあい ましたが信長の時代まで温存されましたが、戦国時代に入り神仏を恐れぬ激しい戦闘 が宗教的治外法権をも認めることができない時代に変化し寺院の内部腐敗僧兵と何人 たりとも恐れぬ振る舞いが内部からの崩壊外部からの攻撃に立ち向かうことができなく なり衰退していきました。 親鸞が1173年に誕生して1262年に入滅する90年の歴史は日本の歴史の中 でも激動の時代のひとつであったと思います。  その前後を省みますと時代を作り上げたその基本的特質の中にそれが発展していけばその矛盾が発生しその時代を否定していく そして新しい支配を作り上げるがこれもそのもの自身から発生する新しい矛盾にまた しても突き当たる古いものから新しいもの無常が生きていることを知らしめました。 これこそ歴史の弁証法を顕著に表した時代でもあったと思います。 第2章 親鸞の生涯 親鸞は1173年に日野有範の長子として生まれたことは最初に述べましたが、下級貴族としての日野家の分家では豊かな生活を営むことは難しい状態であったことがうかがわれます。平家全盛時代で貴族社会から武家時代に社会が変遷しつつあり世の中がなんとなくざわざわしていました。一般にこのころの貴族社会は前途に希望が持てなく末法の時代にはいったと思い兄弟の中誰か一人は出家することよくありましたが親鸞の一家のように3人または5人ともの子息が仏門に入るということは異常でありました。名目は出家であっても一家の解体による食い扶ち減らしであったのではないかとも思われます。社会体制の不安定、一家の不安定に親鸞は子供心に出家を決意し僧侶として勉学に励み自己を磨き仏教者としてのみ生きることが自分にとって唯一の道と感じたことだろうと思います。 1181年の9歳の年に青蓮院の慈円のもとで出家得度しました。親鸞は比叡山延暦寺の堂僧として常行三昧堂で不断念仏を称える修業にはいったのであります。28歳まで比叡山に籠もって修行をしました。その20年の間の親鸞の様子を知る信頼できる記録はありません。比叡山で最澄が開いた天台宗は仏教の根本学場として巷の僧侶を集めて高踏的な学問を修めることとなっていましたが、最初から哲学的な理論はただのお飾りになっており、主に国家や貴族のための祈りに明け暮れ、寺の建物や仏像の寄付を求め日常は功徳として写経や読経に明け暮れするのみで、何か天災地変戦乱がある場合は大げさな法会を催して寄進寄付を皇室貴族に求めていました。 皇室貴族の生活が安泰であったころはこれで良かったのですが、親鸞の時代に入り貴族に没落の兆しが現れ、生活の安泰が無くなってきますと不安や苦痛の解脱を求めて成仏の道を求めるようになり天台宗の主流ではないが念仏思想も関心がもたれてきましたが、しかしながら、比叡山の内部は腐敗と堕落がいっそうはびこり親鸞にとって修業するには納得のいかない道場でありました。下級貴族、下級武士、農民にとっては、関係のない宗教になっておりました。 自分自身を見つめなおしそこから学び得るものは何かをこの20年間自問自答したと思われます。 それは煩悩を断ちきり思索を深め仏の悟りを得るという修行の理想を進めようとする とそれとは反対に自分自身が煩悩にまみれて生きているほかないわが身の発見でした。  散乱する心のありさまと、煩悩の黒雲に覆われている自分自身、その自分自身のこころ の煩悩の底知れぬ深さを知りこれからの修行をどうしていくのか比叡山の常行三昧堂で 念仏を称えながらこの先の決断をずうっと考えていたと思います。 親鸞は一日としてこれから自分がどうして僧侶として全とうすべきか考えない日は無 かったと思われます。ついに1201年親鸞29歳のとき比叡山を降りることを決断 しました。 親鸞は真実の教えを求めて、洛中の六角堂で百か日の参籠を始めました。95日目 夢の中で聖徳太子が出てきてそれに促され法然の吉水禅房の門をたたきました。  念仏宗のただひたすらに念仏せよという言葉の中に法然の説く本願念仏は深い内省と 強い信念から出た言葉でありました。親鸞は長い間の苦悶の中から抜け切れなかった 自分を聖者の道から凡夫の道、自分自身の身の愚かさを知らしめてくださった法然に 大きく感動し、すかされてもだまされてもついていこうと決心しました。 専修念仏の法然の門下になった親鸞は身分階級制の強い時代に人間はみな平等で ある。人間の本質はみな同じである身分の高い人も、高僧も権威に守られているだけ で農民や下女遊女と変わるところがないという教えを広めていきました。念仏宗の教えが大きく広がると共に都合の悪い僧侶等が出てきました。 1204年夏、比叡山の衆徒から法然教団に対して念仏停止を求める声が起こり ました。 法然は比叡山の衆徒の誤解を避けるために「7か条の制誡」を記し、親鸞も 署名いたしました。 その翌年1205年に今度は奈良の興福寺から専修念仏の非を 9か条にわたって連記した“興福寺奏状”が朝廷に出され念仏禁止を訴えてきました。 法然は土佐へ、親鸞は越後へと追われてしまいました。 この処分は親鸞にとっては大変厳しいことであったと思われます。比叡山の僧侶、 南都の僧侶のいわれのない非難攻撃に対していつかは経典を以って論破し誤解を解く ことを考えたと思います。親鸞にとってこの事件は生涯の生き方を大きく固めることに なったと思われます この法難で法然の吉水教団は崩壊し、親鸞は僧籍を奪われ藤井善信という俗名を付けられて流罪となりますが、「愚禿」と名のり非僧非俗としたはっきりとした自覚、真の仏弟子の確信、人間としての自覚はこの法難に自分自身をみつめることにより大きく飛躍していったと 思われます。 しかし、流罪の土地北越は冬の厳しい想像を超えた生活でありました。 そこには厳しい自然の中で生きていかねばならない農民の生活がありその人々と共に 生きていくためにはたとえ悪とされていることもせざるを得ない現実がありました。 この世を生きていくことの重さを背負いながら農民として、人間としての愚かさ、人間 として犯さざるを得ない悪、親鸞は徹底した自己内観し、この現実の中から人間に 対する認識を根底から問い直されることになったと思われます。  1211年師法然と共に罪を許されました。しかし、翌年1212年法然の入滅 を知り都に戻らず北越の農民と共に自然の厳しい土着の生活を通して本願念仏の 教えを、身をもって証し広めていくことにしました。 1214年親鸞は越後の国 から上野の佐貫のあたり、武蔵を経て常陸にはいり、稲田の地に草庵を結んで農民 の中へ教化を広めていきました。 本願念仏の教えは次第に人々の中にしみわたり 常陸を中心に下総・下野の三国におよびました。 親鸞は教化者、指導者としてでは なくどこまでも共に求道の友を求めて行く姿勢でありました。下類と蔑まれて生きていく 郡萌の生活者とともに人間全てが平等であること、人間に対する大きな信頼、人間開放 に目覚めた自分自身を見出していきました。  知恵の念仏によって得られた無碍の 一道は如来の知恵をたまわって流転する人生を超えていく信念と自信を得ていきました。 この自信教を身に付けた独立者として、学問をしたものとして、僧侶として釈尊からの 経典、解釈を全体的に体系付けることでさらに幅の広い深い教えを得ることができるのではないかそれを後世に残しておきたいと思うのは当然のことであります。親鸞は歴史的な浄土念仏に関わる数々の資料を集め著述を始めました。しかし、最大の理由は南都の興福寺「興福寺奏上」をきっかけとして起こった流罪事件のとき法然の「選択本願念仏集」では十分に釈尊からの経典を研究していないと貞慶に批難されいつかはそれを論破しようとする目的で始めたものと思います。著述を始め関東で一応の「教行信証」の原型はできたようですが1235年7月、時の幕府は専修念仏の停止を発したので取締りを避け関東から教典その他の資料の多く集めることができる京都へ28年ぶりに帰りました。 京都に帰ってきた親鸞は定まった住居もなく、人々を頼って身を寄せる生活であり ました。 関東の同朋へ送る著作、書簡、指南書、問い合わせに対する回答を作りその 関東の同胞からの心づけで生計を維持していく程度の厳しい生活でありました。 越後の国に所領を持っている妻に彼らの生活のため、妻と子供を共に越後に帰郷させなければならないほどでありました。 関東に起こった異議と動揺を鎮めるために送ったわが子善鸞が異議を改めるどころか 異議者の中心となってしまい、わが子を義絶せねばならなくなりました。 晩年の妻 と分かれた生活、子供を義絶せねばならない状態、人間の業の深さを知らされるなか 親鸞は自分自身を深く内観し、己の信を深め磨いて著作に励んでいきました。1262年11月28日善法院で90年の生涯を閉じました。 親鸞の90年の生涯はその時代に翻弄された火宅無常、諸行無常の生活でありましたが 真実を求めて生きていく姿勢、真理に導かれた生き方は今で言う哲学的なものが根底に 自分自身の中にはっきりと付けていたからだと思います。 第3章  三願転入     (1) 親鸞の三願転入  教行信証、化身土:末に“然るに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。”と記されている通り、親鸞の決定的回心は1201年の建仁元年の29歳の吉水入室の時であります。 親鸞9歳のとき慈円のもとで出家し比叡山に登り修業をつむことになりますが、19歳のころ学僧より堂僧へ転向し同時に第19願から第20願へ回入し、29歳の時 親鸞はこれまで堂僧を勤めていた延暦寺を出て聖徳太子の夢告により源空の門:吉水入室をもって決定的に第20願より第18願へ転入いたしました。 源空の選択本願念仏集“善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰す。” 親鸞は選択本願念仏の心を会得し阿弥陀仏への信心を獲得できたこと、自力から他力への回心、それは親鸞にとって生涯の一番大きな転機であり親鸞にとって誠に重大な契機でありました。それが親鸞の観想的 人間から内観的人間の成長深化が源空の“正行に帰す”からも一歩進めて“本願に帰す。”と言い表せたものと思われます。  親鸞は“二河白道の喩え”に示唆され建仁元年の自らの回心の背景に発遺:招喚の事実を見、本願招喚の勅命を聞きました。教行信証の行の巻に“しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、至るなり、また帰説なり。説の字、悦の音、帰説なり。説の字は、税の音、悦税二つの音は告ぐなり、述べるなり、人の意を述べるなり。「命」の言は、業なり、招引くなり、使いなり、教なり、道なり、信なり、計りなり、召すなり。ここをもって、「帰命」は本願招喚の勅命なり。” その呼びかけを 大きな働きとして受け取り=発願回向。 “「発願回向」と言うは、如来すでに発願して、衆生を回施したまうの心なり。” 衆生の行=称名の背景に大いなる働きが在る事をしり、=発願:回施、すなわち、大悲回向の願行を信知されました。 衆生や自分のために善行の回向差し向けたり、念仏回向を差し向けるのでなくて、回向の主体はあくまで如来の本願のうえにみられるものであることを知りました。  29歳の親鸞を本願へと発遺した阿弥陀の脇士、救世観音菩薩を聖徳太子、盛至菩薩を源空の生れ替わりとして、この転機を与えてくれたことを報恩感謝して正像末和讃、高僧和讃に “聖徳皇のあはれみて 佛智不思議の誓願に すすめいれしめたまひてぞ 住正定聚の身となれる” “智慧光のちからより 本師源空あらはれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまう”と書き残しました。 私は親鸞の三願転入を1201年建仁元年の29歳“雑業を棄てて本願に帰す。”の時期と理解していますが、多くの学者の中で意見が分かれております。 イ)吉水の入門のとき、 第18願に転入 ロ)三願転入は法然門下時代、29――35歳 ハ)越後流罪時代、転入 ニ)吉水時代に回入、関東時代に転入 ホ)親鸞には三願転入はなかった、聖道門から直ちに第18願に入った。 へ)三願転入:信仰心の展開はいつの時代でも外部的な人が決定するものでなく、内面的な心の展開があるのでいつの時代ということが出来ない。 上記の代表的な六説があります。これには三願転入の論理といわれている、教行信証の化身土:本の巻“しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、”との“いままこと”の今と“雑業を棄て本願に帰す。”の今との関係を当時の言語の実証的研究上から問題にして、又、機の深信の理解度の深さ、宗教における個人個人の深層精神心理学的解釈から意見の分かれるところとなっていますが、親鸞が吉水に入門して“大師聖人の仰せに候”、また、“おおよそ大小聖人:一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、佛智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわずがゆえに、” これらのことから決定的な離脱を了解し、体験したことは吉水に入門した時が決定的な三願転入の時期、1201年建仁元年29歳の時であったと思われます。 (2) 三願転入の論理  教行信証、化身土:本に“ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行:諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れる、善本:徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く佛恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。”  往生には、三願、三機、三門、三種、があります。 第19願、至心発願の願、邪定聚機、自力の機、万行諸善の仮門、 双樹林下化土往生 第20願、至心回向の願、不定聚機、半自力半他力の機、善本徳本の真門、難思化土往生、 第18願、至心信楽の願、正定聚機、他力の機、 選択の願海:弘願門、 難思議報土往生、 大無量寿経において法蔵菩薩は“生死の苦海に衆生を憐れみて大悲を発し、十方の衆生に三度呼びかけて、我が国に生まれんと願えといい、もし生まれなかったら私はけっして成仏しないと誓う” 親鸞は第19願から第20願を経て第18願の選択の願海:不可思議の徳海:難思議往生:報土往生へ転入していくことを理論付けました。 親鸞が教行信証を執筆している頃、法然滅後その門下の住心が諸行でも往生できると第19願に求めたり、その門下の長西が第20願に求めたりして法然門下に混乱が起きていた事もこれらの諸説を論破するにはどうしても第19願第20願は方便であることを論理的に明らかにしておくことが大事でありました。 第19願、第20願の人は自力作善の人でありますが、それぞれ皆、化土往生することが出来ますが自力をひるがえせば、果遂の誓いによって報土に往生できることが出来ます。しかし、自力の心をひるがえさない間は本願の機ではありません。これに対して第18願の他力を頼むもの、自力をひるがえしたものは本願の正機として往生できます。この論理の展開理論付けは親鸞の現体験から生み出されてものでもありました。 “人我自ら覆う”という世界からの離脱し否定する、“本願の嘉号を分別して己が善根する”ことからの離脱し否定する、“我、我見”からの離脱し否定する、 我執の否定、我が分別の否定、我の立場の否定、否定の立場からもう一歩前進して肯定の積極性への転換、自己の愚悪を思い知り自覚し自力の心を棄てて、大信海:選択の願海に転入する、己の信が如来の廻施によるものであることも自覚する。  これ等の三願転入の論理の運びは第19願から第20願を経て第18願に転入し、否定の世界から積極性の世界への転換し、自我、我執を離れた阿弥陀如来の世界を開いていくこの論理に私は弁証法を見出します。 (3)  機法二種の深信  本願に帰した身でありながら、自力の目覚めが起たり、自我、我執が芽生えてくるこの煩悩具足の人間の弱さを親鸞は自力念仏の意味を顧みて反省し、内省し、自らの信心と理論を深化させていきました。 健保二年、1214年、東国へ移住する時佐貫を通過するとき 幕府の命令が有ったのですが、三部経千部読誦を発願やがて中止し、常陸の国へ行くのでありました。 恵信尼消息第五通にも“これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの佛恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところありけるや。人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなして後は経読むことは止りぬ。”と記しております。 本願に帰した身でありながら深い執着心自我、我執を離れられない私、教行信証、信の巻に善導の観経琉を引用して、“一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より己来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。”背負いきれないほどの業を背負って生きる宿業の身としての自己自身、みずからを遠い過去からの深い迷いの中に流転している凡夫、そのような苦悩と迷いの中に沈んで、自らの力では超え出ることが出来ないという自己の罪障の深さを信知すること、これが機の深信であります。 法の深信とは、このような罪障深い我が身にかけられている大悲の本願を、深く信知することであります。 同じく観経琉を引用して、“二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂取して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。” 親鸞は本願に帰していたが、深い内省、反省、罪悪生死の凡夫であること常に信知し、自らの考え理論を深化させていきました。 この二種の深信の信知の繰り返し、この対立を深化させ止揚させていきました。 弥陀の本願他力によって往生することが疑いなきことであるという信知され、本願に生かされているという自分に益々確信を持ってゆくことになりました。 この理論的成長には弁証法的なものであります。  一部の学者に機の深信は自力の発起するところであると言う説がありますが、この説が親鸞の三願転入の時期に多説、異説を作っております。 しかし、これは間違った解釈になります。 愚禿鈔、下巻 “今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。”とあり、これ等二種の深信は共に他力の佛智であります。 他力本願に帰せられるには必ず自力の無功を信知されるからであります。唯信鈔文意に“これすなわち他力本願無上もゆえなり。自力のこころすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、みずからが身をよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきかえりこころをみず、ひとすじに、愚縛の凡愚、屠沽下類、無碍光佛の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。”  これを以って、三願転入の時期は明らかに確定できました。 (4)  「大無量寿経」第18願成就文の親鸞の解釈 教行信証の行の巻に、“しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、至るなり、また帰説なり。説の字、悦の音、帰説なり。説の字は、税の音、悦税二つの音は告ぐなり、述べるなり、人の意を述べるなり。「命」の言は、業なり、招引くなり、使いなり、教なり、道なり、信なり、計りなり、召すなり。ここをもって、「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」と言うは、如来すでに発願して、衆生を回施したまうの心なり。「即是其行」と言うは、すなわち選択本願これなり。” 念仏して浄土に往生せよと如来が招き呼ぶことであります。如来に帰命するということが衆生に発せられることであります。衆生が帰命するに先立って、すでに如来から招喚されていることを自覚した親鸞は帰命こそ本願招換のはたらきそのものであることを領解しておりました。 親鸞は回向の主体はあくまでも如来の本願の上に在るものと承知いたしました。    大無量寿経、第十八願成就文の解釈でありますが、大無量寿経、下巻の冒頭に、“あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。」” と説いていますが親鸞は教行信証の信の巻で、“本願成就の文、大経に言わく、諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く、と。” 大経では “心を至し回向したまえり”、すなわち回向の主体を諸有衆生としているのを、親鸞は“至心に回向せしめたまえり。”と漢文の文法の規則を破りこのようにあえて無理な訓み方をして、回向の主体が弥陀の本願にあること表明しました。 親鸞は信仰的決断を個々の決断=回心であるとしましたが根源的にはそれは本願の回向成就であるとみなしておりました。如来がその発願において、南無阿弥陀仏の名号を、衆生の行として回施されたものであり、一切の衆生を救おうとして本願を発し、その本願の名号によって衆生の往生道が開かれると領解いたしました。 このような名号に帰した自覚を大信と言いました。親鸞は教行信証、信の巻の冒頭で“大信有り。すなわち、真如一実の信海なり。真実信心”と呼びました。如来よりたまわりたる信心と表明した法然をそれをさらに一歩進めて教行信証で理論化を図り専修念仏理論の確立をいたしました。  仏教は本来、他の宗教、例えば、キリスト教と違い神とか、佛がこの世界を作ったとか、コントロールしていると言う考え方はありません。むしろ、この宇宙の中の計りしれない大きな自然というもの中で森羅万象が存在し、その中になにか知ることの出来ない不可思議の世界、その中に規則性あるのではないか、それは自然というものが、目に見えないが、知ることが出来ないが、自然が進歩して新しい発見されていくが、宇宙は膨張していき、何か規則性があるのであるが知ることが出来ない。不可知の世界。 仏教の中でも特に浄土教、それも、親鸞の考え方を推し進めていけば親鸞が晩年到達した自然の世界と浄土念仏教との一体を私は見るのであります。  後日、親鸞の自然法爾についても勉強したいと思っています。 第4章    非僧非俗、愚禿の親鸞 (1)     承元の法難 建永二年、(1207年)二月、後鳥羽上皇、土御門天皇の院宣により専修念仏を禁止しました。日本の歴史始まって以来このような形で朝廷が宗教に介入し、弾圧したのは始めてであります。 法然の教団は壊滅的打撃をこうむることになりました。 法然は讃岐の国へ藤井元彦という俗名で、親鸞は寒冷地である越後へ藤井善信という俗名で流罪されました。善綽坊西意、性願房、住蓮房、安楽房は死罪。 浄聞房は備後、禅光房最西は伯耆、好覚房は伊豆、法本房行空は佐渡、成覚坊幸西は阿波へ流罪。善恵証空は比叡山無道寺に預かり。という重刑な処分でありました。 親鸞は教行信証化身土後序において、怒りをもって述べています。 “竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり。然るに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、太上天皇諱尊成、今上諱為仁聖暦:承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨みを結ぶ。これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠類に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字もって姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。” この承元の弾圧がある前からすでに法然教団に対して色々なかたちで専修念仏、その僧及び信徒に干渉が興福寺をはじめとして旧仏教教団、及びそのときの支配階級朝家から干渉されておりました。 法然は元久元年(1204年)門弟を戒め「七箇条制誡」を起草し門弟たちが署名しました。 この起請文は旧仏教集団に干渉の機会と攻撃の機会を与えることになりました。建永元年(1206年)興福寺衆徒は専修念仏停止を朝廷に申し入れました。その歳、興福寺の解脱房貞慶によって「興福寺奏状」によって専修念仏の“九つの失”として記されました。 当時を代表する旧仏教の大学者であります貞慶の筆でありました。旧仏教の立場でありましたが、それなりに理路整然としたものでありました。 1. すでに八宗あるので新宗は不要。 2. 阿弥陀如来の図ばかりを照らすな。 3. 専修念仏が釈尊を軽んじている。 4. 念仏のみを尊び善行をないがしろにしている、他の行を雑業として軽蔑している。 5. 専修念仏者は神々を敬わない。 6. 念仏だけが浄土に生まれるは浄土の意味を不明にし、いっさいの善行を雑業としている。 7. 専修念仏者の口承念仏をもって浄土に生まれというのは、念仏を誤るものだ。 8. 専修念仏は戒律を軽んじ、佛教破滅させ、社会不安を起こす。 9. 権力と仏教との関係を身と心の如く一致させて、王法、仏法の共存を計ろうとしているとき専修念仏はそれを破壊し、社会不安を煽り国土をも滅ぼそうとしている。この事の重大性を認識して、聖断をもって法然の専修念仏の衆義を糾弾したならば国土の安泰が末永く保たれる。   専修念仏者が法然の教える専修念仏に頼って生き、それを広めていくとき、どうしても古き秩序を維持していこうとする人びと必然的に対立していかねばなりません。 この対立する人びととは、諸寺、儒林、主上臣下、それに繋がる支配者から利益をこうむる者たちで、自ずと違った宗教的基盤に立ちます。自分たちと他の違った宗教基盤に立ち既存の支配秩序を動揺させる専修念仏を何とかして弾圧する口実は無いものかと探しておりました。 建永元年(1206年)の年末に「住連:安楽の事件」が起こり後鳥羽上皇の熊野神社参りに出ている留守中に女官たちが住連らの念仏の集まりに参加し御所に帰らなかった事が 風紀問題に問われ、後鳥羽上皇の逆鱗に触れたことが一つのきっかけになり大弾圧の強行となりました。 (2)   越後の親鸞 建永二年、(1207年) 親鸞35歳の春、京都を出発、琵琶湖を渡り越前越中を通り、北陸道最大の難所:親不知から船で海に出て居多ケ浜へ上陸しました。 そこから歩いて数分の所が親鸞の配所である天台宗の国分寺がありその境内の中の「竹之内草庵」があります。そこから東南へ500メートルも離れていないところに「竹之前草庵」があります。この越後の流罪中は監視された状態で、狭い領域内に活動が制限されていたのではないかと考えられます。この流罪人に対して土地の役人などは排他的でないはずがありませんでした。 そのうえ、宗教者としての最大の使命、専修念仏を薦めることも出来なかったのです。 流罪の最初の一年間は、中世の法令集である「延喜式」の中に、「一日米一升、一年間給付する。」がありますが、一年間は米だけは与えられますが2年目より米はもちろん、自ら田を耕し、畑に野菜を作り、自給自足の生活になっておりました。 生まれたときから肉体労働をした経験のない親鸞にとって、毎日が辛い、身体的に厳しい時代であったと思われます。 農民と共に生活し宗教活動をするような環境ではありませんでした。恵信尼とはすでに結婚生活を送ったと思われます。建暦元年、1211年には子息;明信が誕生しております。(恵信消息) 親鸞自身とその家族と御付の者たちを食べさせ、生活を守るのに精一杯でした。 中世の上越は開拓地で生活を立てるには苦しい遠流の地でありました。大変雪のふかい寒冷の土地であり、豪雪地帯、雪どけになると洪水を引きお越し、夏は強い照り、秋は台風、風土病等あり住みにくい土地でありました。井上鉄夫の言う「海の民=漁師、山の民=妙高高原の人々、里の民=蒲原平野の人々、川の民=川漁師、自然のリズムに合わせて黙々と働く生活」、このような自然のなかで親鸞は流されていきました。 自然の力の大きさ、自然の摂理の不思議さを知りその中から、人間の計らいの力から無限に超えた自然の大きな力を知りました。後に、「海」という身近なものと呼応して著作の中で多くを記しています。   親鸞にとっては越後の時代は内観の時代だったと言われております。 越後での生活体験は「雪を褥に石を枕に」、と言う如く、自然環境とその自然環境の中での人間の無力性を心の底からしらされました。自力無効の自覚、他力思想、他力回向への確信が形成されました。越後の七不思議は越後の土地が自然の不思議を実感させてくれる土地柄でありました、自然の不思議から宗教の不思議に入っていく、愕きの中から宗教的なものに入っていく。 高僧和讃に“いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき 仏法不思議ということは 弥陀の弘誓になづけたり”曇鸞の言っている“人間の力によって、人間の力の超えた本願の力、本願他力の力でしか生きていくことが出来ないのではないか”正像末和讃“聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして 他力不思議にいりぬれば 義なき義とすと信知せり” 建暦元年(1211年)11月17日法然赦免、翌日18日親鸞赦免されました。 5年間の流罪でありましたが、親鸞聖人伝絵に“勅免ありといえども、かしこに化を施さんために、なおしばらく在国し給いけり。” また赦免後すぐに、建暦二年(1212年)1月25日法然が入滅したことが京都に帰らず北国に残った大きな理由でもあります。 赦免後この地に留まってこの土地の農民と共に働き専修念仏を広めよと2年間勤めましたが流罪後の身であり、先の5年間の伝道活動は制限されており、門弟も覚善一人であったため、伝道布教には大変困難な土地でありました。 そのうえ、 この地域は真言宗の寺院が多く、浄土教の経、論、釈の文献もなく、親鸞にとって滞在するには適当な場所ではありませんでした。  農民たちもこの寒冷の土地を離れて暖かい南の国に新しい開墾の土地を求めて東国へ移動していったという服部之総氏の説もあります。またその頃、法然を慕っていました関東武士が親鸞を招聘したことも考えられます。 越後では親鸞はこれといった活動・功績が伝えられておりませんが、親鸞はこの7年間を内観の時代として受け止め本願他力信仰の益々の確信を形成していった時代と思われます。  親鸞は内観時代の7年間を経てこれからは外部の世界で念仏布教活動をしながら生計を立てるつもりで越後の国を離れて東国の国に向けて何時かは分かりませんが出発しました。 念仏布教をしながら念仏を唱導して移動するのは当時の念仏聖の実態とよく似たものでした。 その途中、善光寺に立ち寄りました。ここには、日本各地から聖徳太子信仰、善光寺如来信仰を求めて老若男女、あらゆる階層の人々が集まってきていました。 善光寺の一光三尊、阿弥陀如来を中心とする脇士観音菩薩:勢至菩薩によってこの世の幸福を願い、あの世の往生を願うものでした。  善光寺の阿弥陀如来像は聖徳太子が当時朝鮮から贈られた物でありましたが、廃仏者:物部守屋によって棄てられそれを本田善光が持ち帰り善光寺を創建したと伝えられております。 聖徳太子信仰が善光寺へお参りすること、善光寺如来信仰が一体となって阿弥陀如来信仰の物的人的基礎をすでに形成しておりました。親鸞は聖徳太子の三つの夢告、磯長=大乗院=六角堂、示現によって阿弥陀如来の本願に帰する契機を作ってくださったことを感謝していましたし、聖徳太子の本来の佛教の教えに常に敬崇の念を持っておりました。 善光寺には多くの参拝者が訪れそれに比例して、念仏聖も集まり、太子堂の聖や、堂守、道場主が専修念仏を起こした法然の直弟子である親鸞を尋ねてその教えを請いました。 親鸞は既に出来ている聖徳太子信仰、善光寺阿弥陀信仰の上に乗りながら、全国各地に広がる聖徳太子信仰と善光寺阿弥陀信仰を旧態のままに受け入れるのではなく、法然の吉水以来の法然の教え、弾圧を経験して、また越後の7年の内観を経て形成された確信をもって、太子信仰、善光寺信仰に内在する念仏信仰をより純粋なものに昇華し本願他力の方向に導いていくことを致しました。 当時の念仏信仰はいわゆる現世利益をもたらす呪術的な構造を持ち、高野聖による護摩:護符による効能、念仏算を施しなど、念仏を行として霊験を得るという呪術的神仏習合の原始的日本宗教でありました。親鸞は呪術的な宗教観を否定し、一切の世俗的、権威的、支配者的なものを払拭し、阿弥陀如来への絶対的帰依、本願他力の信仰を打ち立てることによって、呪術的仏教観を排し、宗教的差別から解放し佛の前では人間は誰でも平等であるという親鸞の佛教の立脚点を押さえて、善光寺太子信仰者、善光寺念仏聖、念仏道場主に実践布教していきました。 それらの人々が彼らの念仏信仰をより明確にし、より強化するために親鸞の信仰理念を求めて擁護招請してきました。親鸞は彼らに教えを授けながら旅の念仏者として、越後、善光寺、軽井沢、高崎、佐貫、常陸へと東国の国へと旅たって行きました。建保二年(1214年)佐貫を通過したことは「恵信尼消息集第5通」で確かめられます。 (3)    関東の親鸞 親鸞は常陸の国、笠間:稲田の西念寺に身を落ち着け関東の生活を始めました。現在のJR水戸線稲田駅から小山よりに後ろへ戻って約1キロメーターの所に西念寺があります。 西念寺了波記によれば、宇都宮頼綱の招請で、笠間時朝やこの地を領する稲田頼重が親鸞を常陸に招いたとなっています。関東は親鸞が来る以前より天台宗系の浄土教が広まっており、そこへ中級、下級武士を中心に法然の専修念仏に関心が広がっておりました、また、善光寺聖、聖徳太子信仰が広まっていましたので、親鸞の教えを受容する下地は整えられていました。最初に親鸞の関東での活動を支えたのは農民を主力とする直接生産者でなく、中級および下級武士階級でありました。 彼らはある程度の財力を持ち、その地域において政治的力を持っていましたのでその活動を支えたことは十分に理解できます。当初日常活動の基盤を支えたのは確かに下級武士集団であります。武士達はその自分の感覚のみで親鸞の教えを了解し、財力と行動力で真宗を支えましたが、農民を中心とする生産者たちは体の底から親鸞の教えを了解しました。彼らは毎日の生活の苦しみ生命の危機に直面していて自分の生命を守るのに精一杯でしたが、教えは自然に心に入っていきました。 親鸞は関東に於いても自ら農民と共に働きに従事して、農民と共に額に汗を流し、生活の苦しみの中から本願他力の教えを布教していきました。 農民、山の民、海の民を訪ねて阿弥陀如来信仰を関東一円の人びとに説いて回りました。 農民を始めとする支配者階級に繋ながらない人々、この社会から無視された人々たちには親鸞の教えは水の如く受容されていきました。 一方ではでは、武士社会が発達するに従い親鸞の教えについていけない武士達が出ていました。彼らのなかに武士社会の組織上の上昇意識が見られ矛盾が見えてきました。 彼らの地位が常に歴史的制約の中にありましたので、彼らのなかに常に疑心暗鬼に取り付かれ、また顕密神祇諸行往生佛教からの攻撃にさらされ離脱していくものが出てきました。武士,在地荘園領主は荘園制度が崩壊するまで常に歴史的制約を背負っておりました。 (4) 関東武士と専修念仏  承久三年、1221年 承久の乱が起こりました。 後鳥羽上皇は讃岐へは配流されこれによって武家政治が益々確立されていきました。 それに伴い多くの下向僧が鎌倉に流入してきました。鎌倉の寺院にも僧官位制度が定着し、京都の寺院との人的交流を通して、鎌倉の寺院社会も顕密体制を基調に成立していきました。 従って、鎌倉幕府も荘園制度に財政的基盤を有し基本的にはあくまで顕密体制に立脚した、すすんでそれを擁護する権門でありました。  11~12世紀にかけて社会全体に末法思想を介してあらゆる階層に危機的意識が浸透していきした。旧仏教のなかにも阿弥陀浄土信仰がありました。 武士の間には最初は旧仏教の阿弥陀浄土信仰から入っていきました。彼らはこの世の危機的状況から現実逃避のペシミズムに陥りニヒリズム的様相を呈していました。武士の信仰表現は「欣求浄土厭離穢土」 で、死後の脱地獄、極楽浄土への願望でありました。 中級、下級武士にとって日頃の戦闘は「十悪五逆」そのものであり、悪行は彼らの存在自体に由来する必然でありました。 人を殺生することを生業とする者にとっての宿命的罪悪感、その死後は「地獄は一定」でありました。 現実生活の中では戦闘の中での功名争い、武士の間の領地所有権争い、その敗北、主君選びの悩み,それらによる現体制への不満、幕府体制への絶望が新たな生き方を浄土教に求めていった武士が多くありました。 生と死の隣り合わせの毎日の生活、堕地獄の恐怖は生々しかっただけに悪人往生論に出会った時の喜びは大きかったのです、死後の往生の保障によって彼らは日頃の殺生の生業から安心してその仕事に没頭できるのではないかと考えました。 法然浄土教は悪人往生論であり、平等往生論であり、専修念仏でした。 顕密浄土教は現世のご利益として神祇密教的呪術、後生のご利益は念仏でした。中世の武家政体の幕府体制が整い新秩序形成に従い武士たちの支配的地位の上昇の可能性があり不安定でありますが秩序が確立した時は、逆に武士達は、神祇・諸行往生論が魅力になってきました。中世的新秩序の形成に従い武士階級にはどうしてもその歴史的制約を受けざるを得ませんでした。   荘園支配者は財政社会的に荘園制度維持の為、また、武士、在地領主たちは、功利的に武士の上昇志向の可能性に期待して、専修念仏を標榜しながら内実は諸行往生論へ変質し、顕密神祇浄土教に傾斜していきました。 法然浄土教、専修念仏論は歴史的制約の中で武士の実践的論理的宗教になりにくい矛盾を内在しておりました。 親鸞が関東の武士に専修浄土教を最初に広める時、確かに世話をして支えてくれたのは武士階層であり在地領主でありましたが、彼等は常に階層的弱点と矛盾を持っていました。親鸞は農民を初めとする山の民、川の民、海の民、と共に生活を通し、行動する念仏聖として法然浄土教専修念仏論の教理を深化させ、理論の質を高めて展開していきました。 (5) 農民と専修念仏  農民を始めとする漁師、狩人、被差別者、中級、下級武士、等が最初に佛教とのかかわりをもったのは旧仏教顕密神祇往生論の浄土系のものでありました。仏教は上流階級のものであり、そこにははっきりと、階層によって差別されておりました。 法然は専修念仏論をもって京都の吉水で浄土宗を開き全国に一般中流武士、下級武士、小規模荘園領主、農民にも布教を広めていきました。 彼らは法然の専修念仏の教えに大きな魅力を感じ大きな関心を持ちました。 法然の浄土教は上記の人々のみならず女性、非人=被差別民衆悪人であるといわれ、悪人性を自覚し自己を価値的に劣ったものと信じている人々に悪人でも救われる善人悪人ともに平等往生ができるのだ、生業のため悪人にならざるを得ないこと、全ての人が悪人にならざるを得ないこと、悪人でも極楽往生できるということは自分自身を悪人として弥陀の本願に全てをお任せする。本願他力にお任せする以外に生きる手立ては無い、その日常生活に安らぎを与え解放感を与えることに成りました。 生業上悪だと差別されていたのが悪ではないことを自覚し意識的に悪い事をせずば弥陀の本願に任せること。本願によって誰一人として洩れることなく何人といえども差別されること無く往生できるという救済と解放の信仰思想、本願他力の世界に入っていくことがこの時代の庶民の宗教的魅力であったかは想像に難くありません。  親鸞は越後の国での流罪中とその後の二年の内観の時代を過ぎて、新しい善光寺での生活、東国への旅の生活の中で念仏聖、旅の思想家、専修念仏の布教家、伝道師として活動的宗教家に育っていきました。 庶民との接触を通して宗教的思索を深め理論化に努めました。親鸞の関東の生活は多くの河川や湖沼周辺に住む人びとと生活を共にしながら伝道を始めました。東国にも聖徳太子信仰や善光寺信仰があり、この地域独特の鹿島明神信仰もありました。 鹿島大明神は神佛習合の神社寺院でしたが、鹿島明神信仰は善光寺信仰聖徳太子信仰と結び付が有った為、その地域の既存の念仏信仰を踏まえながら、非行非善の信一念による徹底した阿弥陀如来信仰を説いて廻りました。  それまで顧みられることの無い人々に信仰の光明を与え、親鸞自身がそうした人びとの生活のなかに入り込み、心を開いて信仰の道筋を説いて廻りました。 関東各地、その周辺に専修念仏者が輩出しました。 親鸞は従来の旧仏教的阿弥陀如来信仰から専修念仏への導きのなかに善光寺の念仏聖、堂守、道場主たちが親鸞の教えに興味を持ち強化されていったと同様に鹿島大明神の神主などにも大きな影響を与えだしました。 又その当時、鹿島大明神は今まで関東の物資流通の経済的活動を掌握していましたが、鎌倉幕府の成立以降こうした権益は在地領主の守護の支配下に置かれ物資流通の直接支配からは離されていきました。支配体制の変化の中で鹿島の宮司や神官が阿弥陀如来の信仰、専修念仏への関心興味へと向いていきました。親鸞がこの地域で知った鹿島信仰などの既存信仰を土台にして阿弥陀如来信仰、専修念仏を説いて廻りました。  このような鹿島明神の神職に縁を持つ者の中から親鸞に帰信するものが現れました、順信、乗念、性信、等がおります。 性信は鹿島の大宮司の子と言われその周辺の鹿島信仰の頭領的存在といわれておりました。 また、善光寺信仰を受容した大勧進であり、親鸞への帰服はその地域に大きな影響を与えました。 鹿島大明神の神職のうち支配者との縁から遠くなった人びと、支配者階級から離れていった下級武士、地頭などは親鸞の教えに益々帰信し、帰依して専修念仏門徒の形成に努めだしました。  この人びとが後々の専修念仏門徒の集団の指導者となっていきました。それに引き換え、武士たちの帰依した者の中から脱落していった者が多かったのは武士社会の中で武士が上昇志向を求めた時支配者階級の真ん中に入り矛盾した立場に陥らざるを得なかったのです。それとは違い、農民生産者はそのような状況的矛盾も論理的矛盾も有りませんでした、彼ら自身は親鸞の教えを容易に受け入れてきました。 親鸞は農民生産者の中で共に生活して親鸞の教学を研ぎ澄ましていきました。 (6) 非僧非俗、愚禿釈親鸞  教行信証化身土、後序に、“天皇諱尊成、今上諱為仁、聖暦:承元丁の卯の歳、仲春 上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨みを結ぶ。 これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。” また、歎異抄の後付けに後日“流罪以後愚禿親鸞令書給也。”と蓮如が書き添えています。 親鸞は流罪を契機にして、非僧非俗、愚禿釈親鸞と名告りました。 これは親鸞が新しい宗教的自覚に立ったことを顕しております。国家権力によって罪人にされ、僧籍を剥奪され貶められたことは親鸞にとって心の中に押し留められないほどの怒りが込みあがってきました。国家権力によって作られた僧位は“己に僧にあらず”こちらから返上してあげるという僧呂としての身分を受動的でなく自らすすんで能動的意思を持って棄て去る事をいたしました。善人(偽善者):聖者としての生きかたから訣別するという立場の表明でありました。親鸞はその後死ぬまで僧籍を得ることをいたしませんでした。この死罪流罪を決めた拠りどころとした法令は律令国家の「延喜式」の謗法罪という見定めでした。なかんずく「僧尼令」という仏教を取り締まる根本になる決まりがありました。「僧尼令」は小乗戒及び大乗戒の条項を採用していましたが小乗戒思想及び大乗戒思想を無視した律令国家によってたつ仏教以外の宗教的立場、民族宗教、固有の神祇祭祀の立場に他ならない当時の律令国家維持を目的とした政治的作為によるものでありました。国家権力に対する絶対服従、持戒による祈願の有効な遂行を内容とするものでありました。専修念仏との立場とは相容れないものがありました。それが専修念仏弾圧の根底に流れていたものであります。 また“俗にあらず”非俗であると表明しています。 この「俗」について、一部で間違った意味に解釈しているのがありますが庶民的世俗、俗世間という意味ではありません。これは明らかに「非僧」と「非俗」は一体をなす意味であります。 後序で、“然るに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし”ここで言っている「樹林」の事であり、化身土の巻、“しかれば穢悪:濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀をそしる。今の時の道俗、己が分を思量せよ。” の「道俗」は非俗の反対の意味であります。親鸞がここで言っている「非俗」は律令国家体制の側に立つものでなく、権力を持ち、或いはそれを追い求めて“法に背き義に違う”人々に属しないという事、権力;支配の名利を追求する「俗」でなく、“いし:かわら:つぶてのごとくなるわれら”庶民の中に身をうずめて、支配することも支配されることも欲しない、朝家武家の支配から解放されない、文字も邪正も知らぬ庶民の立場に立つ、“「一文不通庶民」よしあしの文字をも知らぬ人はみな真の心なりける。”(正像和讃)彼ら庶民に依拠したことは親鸞の教義からして当然のことでありました。 親鸞は「釈」という言葉を使っている尊号銘文に“釈というは、釈尊の御弟子をあらわすことばなり。” 非俗という言葉に親鸞が佛弟子として強い決意をしているように思います。念仏者は還俗されたといえ信心において如来の弟子として仏事を行うものである。 世俗に退転したのではないと考えたと思います。自らの生活のため日常俗世に生きるが、釈尊からもらった僧:佛弟子としての気概をもって「非僧:非俗」を表明したのと思われます。僧と俗の厳しい二重否定を示す言葉であり、律令僧呂の身分を捨て去り、佛弟子として生きることの高らかな宣言でもありました。  親鸞は上越の5年の流罪中と後2年の滞在中、内観の時代を経て念仏行者としての活動を始めました。改邪鈔に“「われはこれ加古の教信沙弥、この沙弥の様禅林の永観の十因にみえたり の定めなり」” 教信は親鸞の時代から三百五十年さかのぼる頃、奈良の興福寺で学問をいたしましたが地位や名誉を捨て、恵まれない民衆に生きる喜びを与えること、永遠に生きることができる自覚を民衆に導き民衆に生きる目標を与える為に念仏行者として旅に出ました。権力に迎合することなく、財力にこびずひたすら釈尊の道に生きる努力をいたしました。 いたずらに深山幽谷に篭もり自己だけの修養思索に耽けったり、貴族的権威に浸ることもなく、民衆の中に念仏行者として諸国を行脚しました。 親鸞は教信の生活姿勢については師である法然よりも親しみを感じていたと思われます。 親鸞が教信の生き様を「定」として、生涯の模範として非僧非俗の立場で上越から善光寺を経て東国へ布教をして行きました。途中の善光寺では念仏聖、念仏行者との出会いがその後の念仏布教の足懸かりにもなりました。  愚禿親鸞、“「禿」の字もって姓とす。”最澄の「発願文」には “「愚中の極愚、狂中 の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」” 親鸞は最澄を尊敬しており、この中から 愚と禿を使わせてもらったようであります。この他に、「現世利益和讃」で“山家の伝教大師は国土の人民をあわれみて七難消滅の誦文には南無阿弥陀仏を称えるべし。”教行信証には「末法灯明記」を引用して、大乗仏教を根ずかせるために、最澄の著作を引用させてもらっている。 未燈鈔で“故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候いしことを、確かに受け賜わり候いしうえに”また法然は「一枚起請文」“念仏を信ぜん人は、たとい一代の法を能く能く学すとも、一文不知の愚どんの身になして、”法然の教えの「愚」は愚痴になる、 愚者になるという浄土門の理念であります。  親鸞は流罪後の越後での生活、内観の時代を罪人として又苦しい生活を庶民とともにしてきた経験と深い内省が、愚というもの対するもっと突き詰めた深化した意味を身の中から感じておりました。 教行信証の信序に “しかるに末代の道俗:近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家:釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く。しばらく疑問を至してついに明証を出だす。誠に佛恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。” 愚禿鈔に “賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕わす。 賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。” ここで言う賢者は法然のことです。  また、親鸞は善導大師の文を引用して “外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ”を読み替えて “外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。” 原意は内外相応の真実心でなければならぬという意味で内外不調を戒めているのでありますが、親鸞は内が虚仮不実でありますから、外も賢善精進ぶりを装ってはいけませんと言っています。 唯信鈔文意には“しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人というは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし。懈怠のこころのみにして、うちは、むなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ、つねにして、まことなるこころなきみなりとしるべしとなり。” いなかびとともに苦難の生活を生きていく身にとってそこには賢も善もない世俗の生活があるのみでした。 知性で全てが認識できない賢と善、自我、我執を離れて、無我、非我の中から愚を認識する。ここに親鸞の罪悪の自覚を当時の道徳的社会的法律的な日常の善悪を超えた宗教的自覚に到達していました。 この愚悪の自覚の深化は如来の真実性を獲得する弁証法的発想をもたらし、悪人正機思想の形成を組み立てるものでもありました。 如来の真実を求める人間そのものの自覚、尊厳の世界を求めていくものでした。  親鸞は正僧末和讃で愚禿悲嘆述懐しています。“浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし” このような煩悩熾盛の機相に対する内省、機の自覚、人間の実存の認識、これらを機の深信と呼んでいますが、もうひとつを法の深信と呼んでいます。機の深信は“「我が身を」しらせてもらう”懺悔、悲嘆する。 法の深信は“「佛の恩を」をよろこばせてもらう”法悦感謝の念を深めさせてもらう。そこに、親鸞における「信心の弁証法」があります。それもまた如来大悲の回向であり、佛智不思議に感せられる他力念仏の信心であります。 非僧非俗;愚禿釈親鸞という仏教徒として自己の宗教的主体を確立させていきました。                                第五章    悪人正機  歎異抄 第3条に “善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためならば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。”  親鸞は当時の一般化した社会の罪悪感に大きな疑問を持っておりました。 善人も悪人も平等に救われる恵信尼消息集に“善き人にも悪しきにも、同じように生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめし候いしかば、”仏教本来の教え、大乗仏教の教えに深く納得をいたしておりました。 流罪の罪になったときから非僧非俗:愚禿親鸞と自称していましたとおり、その立場から善と悪に就いても深く思索をいたしていきました。  当時の社会一般では悪人は生産にかかわる、特に、山の民、川の民、海の民、生き物を殺生して生業とする者、屠沽の下類、その他、人の嫌がる生業でしか生きていくことができない人々、生活することが罪になってしまう人々、宿業や業報として悪人ゆえに仏教の対象外にされ、悪人ゆえに往生の対象外とされてきました。 その上に当時の社会集団からして悪人とされるものもありました。 親鸞自身、流罪という罪名を持った罪人=悪人であり、念仏禁制下の社会的法を犯す罪人=悪人であり、信徒集団、念仏を唱える人々は朝家:武家の禁制を犯す罪人、造悪無碍の徒であるほかなかった。親鸞とともに支配者にとては罪人であり悪人でありました。 平安時代から鎌倉時代に入り武家階級支配に入りましたが専修念仏を広める専修念仏教は旧顕蜜仏教を含み当時の支配体制にとっては基本的に反社会的集団であり、そこに属するものは罪人=悪人にならざるを得なくなっておりました。 専修念仏教団の信徒を悪人とすることによって社会集団の安定を図る意図がありました。 時代時代における社会的善悪はその背後にある社会的、政治的なものが在ることを、親鸞は民衆の中に身を置いてはっきりと知りました。  当時の一般社会では善人とは、主上臣下、貴族、儒林、旧顕蜜神祇仏教集団、支配階級、その階級を維持するための階層、功徳善根を積める可能性のある人々、でありました。自らを悪人としない人が善人顔をして、律令仏教の下で賢善精進、自力作善、の人々とつながり、他を罪人悪として指弾してきました。 親鸞はそれらの人々を、教行信証 化身土の巻で“しかれば~~末代の道俗己が分を思量せよ。”と痛烈に批判しています。  親鸞が自己の悪人性に苦悩し、その悪人の自覚に到達して後、悪人:善人の意識を弥陀の本願という尺度を通して知ることができました。教行信証後序に“雑業を棄て本願に帰す” 自力の心をひるがえし、我執の心を捨てたところに善:悪:権力:支配の世界が無明の闇の中のものであることを知りました。  “善悪のことを総じても存知せず。” 支配者が作った倫理観に疑いを持ち民衆、衆生に与えられた真実心、人の心の根源にある我執から解きはなたわれて自己中心を否定して、一切の人々の人間性の尊厳を確立し、自己を超えた根源的、絶対的なものに価値判断を委ねました。それは絶対的根拠である弥陀の本願、本願他力、でありました。未灯鈔で関東の門弟に“はじめて仏のちかいをききはじむるひとびとの、わが身のわろく、こころのわろきをおもひしりて、この身のやうにては、なんぞ往生せんずる、という人にこそ、煩悩具足したる身なれば、わが心の善悪をば沙汰せず、むかへたまふぞとはまふしさふらへ。”と書き送っています。自己の根本的な悪を思い知って、自分のような者がどうして救われるのかと、苦しんでいる人こそ仏は救いの手をさしのべるということであります。自らの悪を自覚するものは、善に向かわざるを得ない、自己の抜き難い悪の根源を自らの身に住み着いていると悟れば悟るほどそれとの対決をしなくてはならぬと思いそれを成さしめるのは回向された大悲であることを知らされます。このような立場に立てた人々、悪人を自覚できえた人々こそが本当に往生すると言っています。歎異抄第8条に“念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々” 親鸞は本願:大悲の前で現実の矛盾、自己自身の心の矛盾の深さに悪人を自覚するその苦悩する人間こそが真に大非に救われると言っております。  歎異抄第3条に“自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。” また、教行信証化身土の巻で“おおよそ大小聖人:一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、佛智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。” 世の中の聖人とか善人とかは願を起こしたまう本意を了解できないので本当の信を生じさせることができないと言う意味でありますが、親鸞は悪人の意識から出発して苦悶、苦悩することによってさらに思索を深化することにより、願を起こしたまう本位を心の中から了解することができた。 また、教行信証、信の巻で“一切凡小、一切時の中に、貧愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を炎うがごとくすれども、すべて「雑毒:雑修の善」となづく。また「虚仮:諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮:雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。” 自己の愚悪を自覚して他力をたのみて、自力を棄てる第十八願(至心信楽の願)(他力の機)報土往生できることであります。 自力作善の人 第十九願、第二十願の人々、未だ自力の心をひるがえさない人々は化土往生にある。「果遂の誓」によって自力の心をひるがえして、自己の悪人性に目覚め自覚し、他力をたのみとする悪人こそ本願の正機であり、真実報土の往生をとげると言っております。 教行信証、信の巻に“この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、必ず報土の正定の因と成る。” また、教行信証、化身土の巻に“「如是凡夫心想るい劣」と言えり、すなわちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。”支配下級、権力の座にいるもの、それらを支えている階層、念仏行者を弾圧している人々も、自力作善をして善人を装いまた自認している人々も、自力にこだわり自力の心をいまだひるがえしていない人々、このようなすべて人々が大乗仏教からすれば平等に救われなければならない。 このような善人たちにも往生が可能であるならば、彼らによって罪人にされ、虐げられ、悪人にされ、悪人になった人々が救われない事はあり得ない。“善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。”   親鸞は世間の法律、常識、人情、道徳を超えたところに、それをもう一段高いところで拮抗させ、対決させ、深化させ、止揚して、まず否定し、逆の方向から思索し、説明し、人間的なものを超えた、常識を超えたところに絶対的なもの普遍的なもの、そこに弥陀の本願、本願他力、真実真理を見出そうといたしました。  私はここにも親鸞の弁証法的手法を見出すのであります。          第6章    善鸞義絶 歎異抄第二条に“おのおの十余カ国のさかひをこえて、身命をかえりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、法文等をしりたらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。”  関東の弟子の間に異端の問題で論争や紛争があり、身命がけで弟子たちが京都を尋ねてきたことに対して、丁重に迎えた言い方をしていますが、断固たる誤りであると断言しています。 親鸞が関東にいる頃からすでに起こっていた問題であります。御消息集(一)に“さりながらも、往生をねがわせたまうひとびとの御なかにも、御こころえぬことどももそうらいき。いまもさのみこそそうらうらめと、おぼえそうろう。京にも、こころえずして、ようようにまどいおうてそうろうめり。 くにぐにも、おおくきこえそうろう。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生なんどと、おもいたるひとびとも、この世にはみなようように法門もいいかえて、身もまどい、ひとをもまどわして、わずらいおうてそうろうなり。聖教のおしえもみずしらぬ、おのおののようにおわしますひとびとは、往生にさわりなしとばかりいうをききて、あしざまに御こころえたることおおおくそうらいき。いまもさこそそうろうらめと、おぼえそうろうなり。”  関東にも、京にも、法然聖人のお弟子さんにも、造悪無碍、悪人こそ救われるのであるから、悪いことをしても、往生に障りなしと心得る輩が多くいることを歎いています。 親鸞は実子:善鸞を京都から派遣して、実情の把握、造悪無碍の是正、正信の徹底を図ろうとしました。しかしながら、善鸞は親鸞のあずかり知らぬ事を関東で執っていたことが明らかになってきました。 御消息集(七)の性信御坊へに、“さては、鎌倉にての、御うったえのようは、おろおろうけたまわりてそうろう。この御文にたがわず、うけたまわりてそうらいしに、別のことは、よもそうらわじとおもいそうらいしに、御くだりうれしくそうろう。おおかたは、このうったえのようは、御身ひとりのことにはあらずそうろう。すべて、浄土の念仏者のことなり。このようは、故聖人の御とき、この身どもの、ようようにもうされそうらいしことなり。こともあたらしきうったえにてそうろうなり。性信坊ひとりの、沙汰あるべきことにあらず。念仏もうさんひとは、みなおなじこころに、御沙汰あるべきことなり。御身をわらいもうすべきことにはあらずそうろうべし。 念仏者のものにこころえぬは、性信坊のとがにもうしなされんは、きわまれるひがごとにそうろうべし。念仏もうさんひとは、性信坊のかたうどにこそ、なりあわせたまうべけれ。”  善鸞が鎌倉に訴えたことは、承元の弾圧の際にかつて南都:北嶺の僧徒が、法然、親鸞等を朝廷に訴えたことと同じ立場であり、訴えられたのは性信坊だけでなく、念仏者一般に対してのものであります。 これは次に予想される建長の弾圧の新しい訴えととれました。 性信坊のとがが、念仏者が神祇をないがしろにして戒律を守らず悪を好んでいるということは元久元年の七か条制誡の内容としていることと全く同じであり、律令的、旧仏教感の立場に立つものにとっては神祇蔑視、造悪無碍と見なしたのであります。性信坊の宗教的立場が専修念仏であり、法然、親鸞と繋がる一貫したものでありました。  御消息集(十二)真浄御坊へに “余のひとびとを縁として念仏をひろめんとはからいあわせたまうこと、ゆめゆめあるべからずそうろう。そのところに、念仏のひろまりそうらんことも、仏天の御はからいにてそうろうべし。慈信坊がようようにもうしそうろうなるによりて、ひとびとも御こころどものようようにならせたまいそうろうよし、うけたまわりそうろう。かえすがえす不便のことにそうろう。ともかくも、仏天の御はからいにまかせまいらせさせたまうべし。そのところの縁つきておわしましましそうらわば、いずれのところにても、うつらせたまいそうろうておわしますように御はからいそうろうべし。慈信坊がもうしそうろうことをたのみおぼしめして、これよりは余のひとを強縁として念仏ひろめよともうすこと、ゆめゆめもうしたることそうらわず。きわまれるひがごとにてそうろう。”“法門のようもあらぬさまにもうしなしてそうろうなり。御耳にききいれらるべからずそうろう。きわまれるひがごとどものきこえそうろう。” 慈信坊が親鸞の名をもって、「余の人」を強縁にして念仏を広めようと言った事を親鸞は否定し、余の人々によって念仏を広めようとしたり、念仏の弾圧を回避したり、妥協したりする事をしてならない、止むを得ない場合はいずれかの場所に移動しなさいと言っております。 御消息集(九)に “念仏をさまたげんひとは、そのところの領家:地頭:名主のようあることにてこそそうらわめ。とかくもうすべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをば、あわれみをなし、不便におもうて、さまたげなさんを、たすけさせたまうべしとこそ、ふるきひとはもうされそうらいしか。” 親鸞は慈信坊が権力者と繋がっていることを知る前にすでに、念仏の弾圧は念仏の広がりを妨げようとする人々、そのところの領家、地頭、名主であったことは明らかにしております。念仏者はそのような人々でもあわれみ、不便に思い立って専修念仏に助け入らんことを勧めています。 そのような余の人々、そのような権力者と慈信坊は強縁を結んでおりました。それは親鸞にとっては慈信坊が権力と結びつき念仏者を支配しようとする事、鎌倉権力に訴えて、念仏を損じ、第十八願の本願の法門を捨て去ることを勧め、日ごろの念仏はみないたずらことであると関東の念仏者に言って大混乱を起こしました。実子といえども全く許す事が出来ぬ事でありました。 性信坊の立場を守るため、本来の親鸞の教えの再度の確立のため、関東の混乱の収束のため、実子;善鸞を義絶することにいたしました。 御消息集(十二)に“詮ずるところ、そのところの縁ぞつきさせたまいそうろうらん。念仏をさえらるなんどもうさんことに、ともかくもなげきおぼしめすべからずそうろう。” また、御消息拾遺、義絶の文 “ここに破僧の罪とまふすつみは、五逆のその一なり、親鸞にそらごとをまふしつけたるは、ちちをころすなり、五逆のその一なり、このことどもつたえきくこと、あさましさまふかぎりなければ、いまおやということあるべからず、ことおもふことおもいきりたり。” 第7章   親鸞の聖徳太子観 (1)   聖徳太子の出自、当時の状況・状態         聖徳太子は574年用明天皇の皇子として生まれますが、14歳で父と死別しその後、生母は太子の庶兄と結ばれ子供まで生まれるという身辺の複雑なところに、生母の弟の崇峻天皇が、伯父の蘇我馬子によって暗殺され多感な少年期の聖徳太子に衝撃を与えました。 592年に推古天皇が在位し聖徳太子が政を摂した間、推古天皇と蘇我馬子との対立が622年に死ぬまで続いていきました。太子は30年近くも国政にたずさわり、現実世界の悩み、苦しみの中で身を処してきました。  そのような時に高麗の僧:彗慈が帰化し、太子の仏教の師となり、要職にありながらその当時の流れに流されないで、仏典から多くのことを学び仏教によりその人格を高めていきました。その当時から聖徳太子の中に太子伝説が生まれる要素が出来ていきました。  (2)     聖徳太子の仏教観     三経義疏は、推古朝の聖徳太子の仏教を考えるには重要な資料といわれていますが、多くの学者から疑問が投げかけられています。 偽作である  津田左右吉、 井上光貞、 直木孝次郎、 疑問説    中村元,    家永三郎、 加藤周一、 肯定説    花山信勝、 という三つの説がありますが、三経義疏、十七条憲法、天寿国繍帖銘、を比較してみると その内容に共通の仏教的考えが根本に流れておりその佛教理解は後の律令国家の佛教理解をはるかに超えたものであり聖徳太子がその時代に作成したことは疑いの無いことであります。ただ、聖徳太子は摂政という多忙な要職についていたので書生に筆記させたことは考えられます。 三経義疏には、善を実現するには偏執克服を通じて“正しく成仏を論ずれば、唯善にのみあり”とする立場を克服して“善は悪に由りて起こり、善として自ら生ずるなし”“大乗仏教の修行者は自らの善行を修するだけでなく、慈悲の心を持って他人を教化しなければならない。普く衆生を度す。衆生は如来蔵を有し、みな佛になる可能性を持っている。” これは、十七条憲法の2条の“其れ三宝に帰りまつらずは、何をもってか枉れるを直さん。” という立場と同一であります。 十七条憲法は、第1条、第10条の“人皆党有り”、“忿を絶ち瞋を棄てて、人の違うことを怒からざれ。人皆心有り。心おのおの執れること有り。彼是すれは非す。我是すれば彼は非す。彼必ず愚か非す。共に是れ凡夫ならくのみ。是く非しき、理、詎か能く定むべけん。相共に賢く愚かなること鐶の端無きが如し。” 心の怒りを絶ち、おもえりの怒りを棄てて、是非、是悪の基準が人間の側に無いことを説いていますが、人間を凡夫である事を自覚し佛に帰依することを、人間は賢く、そして、どこまでも愚かなるものです。第2条で“篤く三宝を敬え、三宝とは佛:法:僧なり。 其れ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉れるを直さん。” 佛教によってまがれるを正し、現実の人間の持っている我執対立を憲法によって実践的に克服しようとしています。 この憲法が佛教の篤敬三宝を挙げていますがこの考えを拡大解釈しても佛教による国家護持の要素は全く持ておりません。 天寿国繍帖銘の、世間虚仮:唯佛是真は聖徳太子の死後、妃の一人の橘朗女の願いでこれが完成したと言われています。太子は橘朗女に生前に心情を漏らしていたといわれています。“世間虚仮:唯佛是真”“其れ三宝に帰りまつらずば、何を持って枉れるを直さん。” “人間の住む世間はいつわりであり、ただ仏のみが真実である。” 太子自身が凡夫であることを自覚したと同様であります。人間世界を虚仮とし、真実はただ仏にのみ属するという考え方は当時の日本人に於いては画期的な転換を意味しました。虚仮なるものと真実なるものとの二元的分裂があり、人間である限り真実の側に身をおくことが出来ないとするのは、憲法17条の凡夫の自覚とあい通ずるものがあります。 家永三郎氏の「道徳思想史」で飛鳥時代の聖徳太子を評して、「支配階級の一員であり最高の権力者である太子が、自らの立っている社会的立脚点を自らことごとく否定し去る、痛烈なる自己批判をあえてした。太子は高麗層の指導の下で、仏典を研究し、呪術としてではなく、精神的哲理としての仏教の思想を把握することによって、はじめて伝統的民族思想にない否定の論理を日本思想史の中に導入することに成功した。」と述べています。 (3)     聖徳太子伝説  聖徳太子が生存していたのは574年より622年まで、鎌倉時代の親鸞は1173年から1262年まで約640年の年月が経過しております。 この間に大きく歴史が転換し発展してきました。 親鸞の時代に聖徳太子はどのように見られていたのか、その時代には太子伝説が拡がり、聖徳太子の佛教観とは違ったものも一部出てきたと思われます。 飯田瑞穂氏著「聖徳太子伝の研究」に拠ると、「奈良時代の初期の日本書紀に於いて太子は超人的聖者として描かれているが、それは日本書紀の資料の段階で既にそのような描写があったことの反映と考えられる。奈良時代中期以降、太子の実績が拡大し、その神秘性をおび説話的要素が増していく。 法王帝説では日本書紀に比べて仏教関係の事柄が加わり仏教信仰の側面が拠り強く出ている傾向を指摘できる。奈良時代後期の太子像は極めて大きな飛躍変容を遂げる。太子彗思後身説では、太子は聖人から権者、つまり権化の人に変化していくのである。 その後は、平安時代中期の「聖徳太子伝暦」に流れ込む。」 と述べています。 ここで私は親鸞の時代に聖徳太子が太子伝説を通じて一般民衆にその当時どのように伝えられていたか、これを調べて見ることが必要と思われます。聖徳太子伝説は、日本書紀、上宮聖徳法王帝説、上宮太子伝、上宮皇太子菩薩伝、上宮聖徳太子伝補欠記、と 書き留められ、聖徳太子伝暦 と続きますが、この917年に成立した藤原兼輔著の聖徳太子伝暦、従来の太子伝を網羅し、本書の出現で太子伝と言えばこの「伝暦」と言われるほど後世に決定的な影響を与えました。太子伝説、太子信仰、をこの「伝暦」を基に、一般に言われている定説を拾い上げ、問題の箇所を検討してみることに致しました。  聖徳太子伝説は聖徳太子の死後、一世紀にも満たない間に太子伝説が根付いていったのは聖徳太子自身が本来、人間的にも宗教的にも政治家としても、その当時傑出していた人物であったことは確かであります。 民衆的に尊敬されていた聖徳太子を、天智、天武天皇以降の為政者が天皇家を凌駕するほどの権勢を誇った蘇我氏の実態を極力、矮小化しようとするために政治的に聖徳太子を利用する意図があったという説が多くあります。 摂政としての太子の偉大な姿を認めて、天皇を中心とした現実政治の中で秩序の維持を巧みに図った政治家、日本の《法王》と言う位置づけをなし、聖徳太子を利用することで仏教を明確に鎮護国家、玉体、安寧、の手立てとして宮廷の儀式に組み込み、佛教によって鎮護される国家の形成へと向かっていきました。 鎮護国家、玉体安寧に必要な儀式、霊威を導き出す呪術的な力、神祇的な祈祷修行が広く各寺院で行われていました。 また、平安末期から鎌倉時代にかけて、聖徳太子を観音の生まれ変わりとしての太子の救済に預かって浄土往生を遂げようという太子信仰がはやりました。この状況は、上は天皇家や武家勢力、下は民衆に至るまであまねく広く浸透していきました。  この観音太子信仰は、鎮護国家、玉体安寧、を維持する為の集団と、佛教本来の聖徳太子が説き崇め尊敬した一般民衆とが混在した二つの種類を持った状態になっておりました。 聖徳太子伝説には政治的宗教的国家的優れた人格者というイメージと、民衆を救済する観音様、宗教的なお父様、お母様と慕われるという二つの姿が広がっていたと思われます。 (4)    聖徳太子と親鸞の共通点  両者の少年時代の父母との死別、父の隠遁、母の複雑な再婚、家庭の崩壊、親族の争いなど共に苦しい少年期を過ごしていきました。 片は18歳で摂政の位に就くが現実の政治の汚い権力抗争を経験し、もう片方は比叡山で9歳より29歳まで腐敗堕落した宗教の世界を見てきました。 聖徳太子は飛鳥の時代に仏教で道を開こうとし、親鸞は640年の後になりますが、自分自身の信仰を転換することで道を開こうとしました。20年間の比叡山の学生・堂僧として親鸞自身で聖徳太子について学びその書物を詳しく勉強したことと思います。 この20年間の間に親鸞は聖徳太子が書き記したその内容に、600年後でもその新鮮さに打たれたのではないかとおもわれます。 (2)の聖徳太子の仏教観で述べましたとおり、三経義疏、十七条憲法、天寿国繍帖銘「唯佛是真」、から、「本来の佛教理念に根ざし、大乗仏教にのっとり、教理にたった菩薩行 慈悲の心を持って他人を教化する、全ての衆生は如来像を有し、みな平等に仏になる可能性を有する、自分自身を凡夫であることを自覚し、在家の立場に立ち、帰依する仏の心を持って生きる、人間世界を虚仮とし真実は唯佛にのみ属する。」聖徳太子は鎮護国家の要素を持たなかった、親鸞の時代は神祇崇拝、神佛習合の仏教神祇守護国家であり宗教と国家を分けた考えを親鸞は持っていた。  聖徳太子が親鸞自身と共通した環境、人間観、仏教観を持っていることに感動し、親鸞は深く聖徳太子を仰ぎ尊敬いたしました。 (5)     聖徳太子の夢告  親鸞自身が比叡山の中で迷い苦しみ悶えている時、19歳の磯長の夢告、28歳の大乗院の夢告、29歳の六角堂の夢告(三つの夢告)で、救世観音が聖徳太子として、示現してくださったことが、親鸞自身の人生の課題を見つけだす大きな機縁となり、法然を通して専修念仏に値遇できた。 800余年前の歴史的制約の時代では現在と違い宗教界は夢告をもとめて参籠し示現をいただくという事が日常的にされておりました。 太子信仰の一部として聖徳太子も19歳の時学生から堂僧に替わっており彼自身の一身上の危機感を持つようになりました。 その時、磯長の聖徳太子廟へ参籠することを思い立ち3日間の参籠の後、建久二年九月十四日の夜、“聖徳太子がわたし(善信)に告げて言うのに、我が三尊は塵沙の界を化す、日域は大乗の相応の地なり、諦に聴け我が教令を、汝が命根は応に十余歳なるべし、命終わりて速やかに清浄土に入らん、善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を”我が命10年といわれた親鸞は大乗仏教の事、真の菩薩の事を考えて10年になる前の正冶二年十二月上旬、比叡山の南の旡動寺の中にある大乗院で、私はいた。十二月三十日の四更に、如意輪観音が私に告げて言うには、“善いかな、善いかな、汝の願い将に満足せんとす、善いかな、善いかな、我が願い、亦満足す。”  親鸞は直ちに比叡山を下りて六角堂に壱百日の参籠をいたしました。  建仁元年四月五日の夜の寅の時、六角堂の救世大菩薩(観音)がわたし(善信)に告げて言うには、“行者宿報にて設ひ女犯すとも、我は玉女の身と成りて犯せ被れむ、一生の間、能く荘厳し、臨終引導して極楽に生ぜしむ。” 親鸞が磯長の夢告の文を六角堂に結んでその結んだ文に救世観音が聖徳太子として夢告を示現しました。  親鸞は比叡山に約20年の勉学をしましたが一体なにであったのか、大乗仏教の課題に応えること、真の菩薩を知ること、比叡山の念仏と法然の念仏の異なりに目覚め、自分の一生にとってもはや比叡山には何もないこと知り山を下りることを決心しました。親鸞にとって29歳までは比叡山の堂僧という宗教的環境が影響し神秘的なものにも関心がありましたが、聖徳太子をして親鸞を法然の念仏の世界に見ちびてくださったことを終生報恩感謝し、仰ぎみ尊敬いたしました。 (6)   親鸞の時代の国家、社会、宗教の状況  親鸞が生まれた1173年頃までの時代を大雑把に見て見ますと、 645年の 大化の改新、律令制国家、743年の墾田私有法による荘園の拡大により律令制度の支配権力を維持していた天皇貴族までが自ら荘園を持たざるを得なくなり、律令制度を崩壊させる荘園制度に巻き込まれるという矛盾したことになります。 荘園制度の発展は宮廷貴族の繁栄をもたらしますがその維持の為に武士集団を発生させ、律令制度の衰えは国家の公兵に頼れなくなり北面の武士までが出来る時代になりました。 新興武士集団の発生、拡大となっていきました。  新しい武士集団の発生は自分自身の支配力を樹立しようとして本来の役目を捨て、荘園制度を掘り倒す役目をするという矛盾した時代でありました。 1156・1159年の保元。平治の乱は皇帝貴族から武家への権力が移動していく最初の動乱でありました。 一方、神社寺院は荘園にはいかなる貢租もなかったので一般荘園領主から荘園領土を預けられたり、献上されたりして寺社領は大きく膨れ上がりそれを守る為に僧兵を養い、時の皇室や武家とにも対抗できる大きな僧兵を持っていました。 治外法権的な宗教的独立小国家を組織化して民衆の宗教からかけ離れ、朝廷を守る、鎮護国家思想、顕教密教、神祇祭祀を修めることを旨としました。その報奨として、朝廷、国家より公認の宗派、教団として権力を誇示する事が出来、朝廷と連合することでその存在を保っていました。荘園制度の崩壊と共に新しい武士支配階級が確立しましたが旧仏教教団は武士集団と協力することで自己の勢力の確保維持を致してきました。 親鸞時代の宗教の歴史的状況、背景、位置は、旧仏教の中から法然の専修念仏という新しい仏教が生まれました。専修念仏は末法の凡夫、中世の民衆救済にあり、そしてその理念が平等往生、天台・真言など八宗の浄土信仰・阿弥陀仏の諸行往生論を否定して称名念仏専修の道として提示しました。平等往生、人間的平等、人格尊重、世俗・現世の諸所の差異を超えて万人平等の単一往生という決定的な差異がありました。専修念仏の神祇軽視・神祇不拝は旧・既存佛教の諸行往生論を根幹から揺るがす意味を持っていました。荘園を仏の領土とし荘園維持拡大を旨とする既存教団にとって諸仏崇拝、諸行不可欠、神祇崇拝の否定、それらは往生の障害にならないという事は中世的な現在の秩序の否定を意味しました。親鸞の時代は旧仏教が既にその中心が教説的には浄土信仰・悪人往生〔救済〕論まで来ておりその違う点はもっぱら専修念仏と諸行往生念仏・神祇不拝でありました。  専修念仏の教えを広めることが、即ち、旧仏教宗派への批判となりそれはその当時の体制批判となり、朝廷、武士集団を含む全ての支配階級と対立することにならざるを得なかったのです。専修念仏の宗教思想、宗教集団を徹底的に弾圧:解体をせねばならない歴史的理由がありました。 親鸞の体制批判は何も意識的に作ったものでなくて、あくまでも信仰を至上とするものから支配権力との対立になったものです。その信仰がその時代の歴史的状況において本質的に反権力にならざるを得なかったのであります。 専修念仏が必然的に諸行往生、顕密浄土教の否定、そのことは王法仏法相依論により朝廷幕府顕密正統派寺社の連合の荘園体制の解体の方向に向いていきます。親鸞が意図しなくても専修念仏を拡めて神祇崇拝を排除すれば、自ずと反権力、非権力、体制批判へと向かわざるを得ないのであります。 (7)   教行信証の執筆 1214年、親鸞42歳頃から常陸国稲田で教行信証の製作に取り掛かりました。1247年、親鸞75歳の時完成を見ています。 親鸞は承元元年の弾圧の頃より出来るだけ早く、法相宗の貞慶解脱による「興福寺奉状」の真宗を立てる失点の第一から国土の実情を乱す第九点までを論破、反論していくには遠く釈尊から下り法然の時代までの経典、新訳本、旧訳本、論、注釈書、を歴史的に調べ、比較研究して佛教本来に基づいた理論的根拠を専修念仏に構築するべく執筆に取り掛かりました。また、法然が入滅した建暦二年に 「選択本願念仏集」が開版印行されました、その年、栂尾高弁が「摧邪輪」三巻、「荘厳記」一巻を著し法然の選択本願念仏集を批判しました。専修念仏運動に対する旧仏教側からの必死の反撃でした。「摧邪輪」、「荘厳記」への反論として、法然上人の「選択本願念仏集」の真意を明らかにすべきであるという親鸞の使命感が教行信証作成の大きな動機にもなりました。また、承元元年の弾圧以降朝廷と旧仏教が共同で専修念仏に干渉し執拗に弾圧を繰りかし、聖徳太子をその時代の体制に組み込み政治的鎮護国家的に利用してきました。 聖徳太子が理想とした宗教の理念、国家の理想、民の安泰を何とか後の世に伝えておきたい、それには聖徳太子の佛教理念を織り込んだ教行信証を完成することが聖徳太子への報恩感謝だと思うったに違いありません。聖徳太子の17条憲法、三経義疏、天寿国繍帖銘、を正しい宗教観:国家観を親鸞が引用して教行信証を書けば、今度は、朝廷幕府体制に直接挑戦することとなり、弾圧に引き込まれる危険があると判断し、専修念仏とその理論基礎・教行信証その他の論書に精力を注ぎ込み、さらなら親鸞時代の体制に直接刃向かうことを差し控えたと思います。 これは親鸞が自分の達した宗教観の妥協でもなく、喪失でもありませんでした。聖徳太子の佛教の精神を間接的であったとしても教行信証で顕し、それによって、必要かつ十分に伝えていくことが出来ると思ったに違いありません。時代に耐え、歴史を超え、体制が替わっても生き延びていく末世の時代の宗教観を作り上げようとしたと思います。親鸞が直接に聖徳太子の事を教行信証に著述しなかったことは、教行信証のどこかに間接的に埋め込まれていました。 親鸞が宗教者として評価し、崇め、尊敬している聖徳太子が、律令鎮護国家の時代から政治的に利用されて、伝説化されていました。 その最大の問題は{王法]と{佛法}であったはずあります。教行信証の構成から見てこの王法と佛法の問題の扱いは「化身土」になります。“すでに末法に入ってから683年になっているのである。” 「末法灯明記」最澄作 に言っています。“それ一如を範とし教化するものは法王であり、四海に臨みて美風を布くものは仁王である。然れば仁王と法王とは互いにその徳を顕して衆生を導き、仏法と政治は相依り、正法は行われるのである。これに依り、経典は世界に弘まり、善言は天下をうるおすことである。 ここに愚僧最澄等は聖主の制定を畏み、自身の安逸を欲うものではない。然るに仏法には三時あり行人にも三品がある。したがって教化・制裁も時によりて緩急あり、毀讃の文も人によりて取捨されることである。されば政治も古今によりて盛衰ある如く、仏法も五百年毎に其の智慧を異にするのである。それを一途に一理に整えることは出来ない。これによりて、正・像・末の別を詳かにし持戒・破壊の僧風 を彰わそうと願う。~~~~~~~~” {金子大栄の口語訳} 親鸞の王法と仏法を考える時、全ての人々がこの箇所に注目いたしました。ここに、親鸞が最澄の{末法灯明記}を引用していることに、私は、親鸞の熟慮と、そのふてぶてしさに感心されます。それは今、弾圧している旧鎌倉佛教の先頭に立つ比叡山を建立した最澄を立てて抗議反論しているわけであります。親鸞―法然―最澄―聖徳太子という線上に理論を築き上げたのではないかと思われます。 普賢晃寿はその著「親鸞における王法と仏法」で 「律令体制化における王法と仏法との関係について批判をなし、平安末期においてすでに律令体制はくずれており、荘園の確立にともない、各社寺は世俗の権力社会に匹敵する存在となり律令体制に公認された旧鎌倉八宗となり、この仏法は王法と対等の権門として勢力を持ち、王佛の相依相即、王法・仏法両輪論、互守互助の関係が生まれていた。  このような仏法のあり方を批判し仏法のあり方を表明したのが、教行信証:化身の巻の“聖浄二門を挙げて時期を判ず”“二門真仮顕開・時代勘決”に表されている。」 と述べています。 教行信証のなかで、“信に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末:法滅のじきにあらず。すでに時を失し機に叛けるなり。浄土真宗は、在世:正法:像末:法滅、濁悪の群萌、斉しく非引したまうをや。”(真の仏法は浄土真宗である。)“しかるに正真の教意に拠って、古徳の伝説を披く。聖道:浄土の真仮を顕開して、邪偽:異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して、正:像:末法の旨際を開示す。”(真実の法を説くものは佛である。佛教を受行する我らは、時代を超えて、法により真理を知り、人によらない。)“竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり。然るに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、太上天皇諱尊成、今上諱為仁聖暦:承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨みを結ぶ。”  親鸞は当時の権力社会を、即ち、国家権力(王法)と旧鎌倉八宗(仏法)の共同体制を批判して 教行信証の化身土、後序 の 聖浄二門の興廃 (浄土の真宗は証道いま盛りなり)と記しています。親鸞は聖徳太子のもっていた本来の佛教の本髄、佛教史観を高く評価したかったが、聖徳太子の言葉を引用して、直接教行信証に記述することはありませんでした。 親鸞の時代の歴史的制約、歴史的限界を良く知っていたので、これ以上の朝廷幕府顕密旧宗教連合体との摩擦は新たな無用な弾圧を受けると考え、専修念仏唯一つに絞り、これだけは譲れない専修念仏ひとすじに、たとえそれが(専修念仏が)客観的に原理的に論理的に弁証法的に結果として現在の体制に対抗するものであっても親鸞は譲ることをしなかったのです。  直接に教行信証に残さなくても、教行信証に間接的に聖徳太子の仏法の真実をとき、真理を明らかにすることで必要かつ十分であると思いました。今現在の歴史的制約、歴史的限界を超えて末代に真理を伝え出来るものだと、理解していました。 安富信哉は「親鸞と危機意識」{夢告}で、次のように述べておられます。 「親鸞の宗教的意識の底に源空が陽画(ポジ=Positive)として映っていたとすれば、聖徳太子は陰画(ネガ=Negative, 原画)として焼き付けられていた。」 私は聖徳太子の宗教観が原画(Negative)に焼き付けられ、原画が源空を通してさらに陽画(Positive)として親鸞に映し出されたと思います。法然に対する報答の証であり、聖徳太子の示現に対する報恩感謝の書物であると思います。 (8)      建長の弾圧  建長の初めの頃から親鸞は京都にいながら東国に於ける弾圧の予感を大いに感じてとっておりました。法然教団に対して行った承元の弾圧の時でもそうでありましたが、弾圧する側は本当の理由でなくその時代の世論が本当と錯覚し易い口実を作るものです。法然の専修念仏者と朝廷の女官との淫らな関係を創作しました。 専修念仏者の風紀問題などを創作し殊更に過大に世間に言いふらし弾圧の口実にしていきました。今回の建長の弾圧にも、本願ぼこりに名を借りた、念仏者の横行乱行風紀の乱れを言いがかりに、専修念仏者の僧尼令の規範違反を大義名分に弾圧を繰り返してきました。 すでに教行信証は完成していましたので、新しい事態に合わせて太子信仰の強い農民を中心に分かりやすい言葉で 聖徳太子を敬う心で同朋教団の団結を聖徳太子の和讃、奉賛で著すことに決めました。また、  建長の末、1256年の前後頃から親鸞は数々の著作を成し遂げていきます。その中には 1255年の「皇太子聖徳奉」 1257年の[大日本粟散王聖徳太子奉讃」、「上宮太子御記」含まれています。 和讃、奉讃、を通して聖徳太子の大乗仏教の真髄、末法の時代のただ念仏、専修念仏、聖徳太子への報恩感謝、佛教弾圧の愚かさ、民衆の前に明らかにしていきました。  聖徳太子に関する論書を直接書けば、時の体制に気に入られるものにならないし、抗議する結果になることは必然的でありました。 なぜなら、 聖徳太子が考えていた仏教とその当時の為政者の仏教観は余りにも大きくかけ離れていたことを親鸞はよく認識していたと思いました。和讃、奉賛で聖徳太子の佛教観を語ることが必要とされたのであります。 (9)   親鸞の太子和讃   親鸞は東国の弾圧を感じ取り解り易い方法で、当時の人々に聖徳太子がもっている本来の仏教の伝えたいと思いました。 晩年になって、1255年、83歳の時 「皇太子聖徳奉讃」、1257年、85歳の時「大日本粟散王聖徳太子奉讃」また同じ年には、「上宮太子御記」を著しています。私たちは現在三帖和讃として、浄土和讃、高僧和讃、正像末和讃、を知っていますが、連如の頃、正像末和讃90余首に皇太子聖徳和讃11首、善光寺和讃5首、その他3首を加えて三帖和讃となり現在まで本願寺系寺院で用いられています。  この三帖和讃に洩れた和讃を概して帖外和讃と呼ばれています。 「皇太子聖徳奉讃」75首は高田専修寺本山に伝わっております。題号は後に正像末和讃に入れた11首の皇太子聖徳奉讃と同一であります。 第一首は      日本国帰命聖徳太子       佛教弘興の恩ふかし           有情救済の慈悲ひろし      奉讃不退ならしめよ 三帖和讃の第8首とよく似ております。           和国の教主聖徳皇        広大恩徳謝しがたし           一心に帰命したてまつり     奉讃不退ならしめよ 第2首より第10首までは、 六角堂やその関係にまつわる伝説の讃歌 第11首より第29首までは、 四天王寺その他の寺院に建立にまつわる伝説の讃歌 第30首より第45首までは、 佛教渡来に関わること 第46首より第58首までは、 佛教の流通、憲法制定を讃嘆しています。 第50首は注目すべきものです。           “像法500余歳にそ           聖徳太子の御世にして           仏法繁昌せしめつつ           いまは念仏さかりなり“ 第59首から第75首までは、 憲法の制定、国家制定、物部守屋の佛教破折の悪行を                詠んでいす。 また、正像末和讃の最後に善光寺和讃が5首入っています。 その一つに “この世の仏法の人はみな  守屋がことばをもとにとして ほとけともうすをたのみにて 僧ぞ法師はいやしめり“ 「善光寺縁起」によれば、ご本尊は欽明天皇13年(552年)に百済より送られた阿弥陀三尊で、時の天皇が崇拝すると悪病が流行ったので、物部尾興がその仏像を難波の池に投げ捨てたのを、信州の本田善光が拾って我が家に持ち帰りやがて今の地に安置したと記されております。如来を「ホトケ」と称したのは守屋の邪見に基づくという如く、守屋を破佛者として悲嘆すると共に、親鸞当時の旧仏教集団が専修念仏を弾圧し、破壊者として振る舞うのを哀れみとしておもい悲嘆すのを内外の教界に明示しようとしたものと窺えます。皇太子聖徳奉讃75首、大日本粟散王聖徳太子奉讃114首、(重複等が多く見受けられ特別に取り上げるものは無いようです。) 合計189首あったと言われていますが。 その中に、その当時太子伝説が盛んであった下で、太子の仏教伝来の受け入れ、広め、寺院の建立、太子の観音の化身、念仏の出来るありがたさ、など、189首にも数えられ、その中には、専修念仏にとって、重要な内容を持った和讃、奉讃が散りばめられていました。85歳の時,同じ歳に、著作した「上宮太子御記」は、親鸞19歳の頃を思い出して、磯長の聖徳太子廟の《廟窟偈》の全文が記されております。 その内容が、磯長の夢告とよく似ております。 これは親鸞19歳の時の三つの夢告の最初の夢告が、親鸞の人生にとって掛け替えの無い大きな転機になった事です。晩年親鸞は多くの和讃奉讃を書きましたが、今、親鸞が此処にいることが、聖徳太子のおかげであり、聖徳太子への報恩感謝を強調しその佛教本来の姿を解り易く伝えたと思います。 河田光夫の「親鸞の思想形成」によれば、「親鸞は太子伝説の中の、聖徳太子の政治的鎮護国家的な面については意識的に避けていることが明らかです。」 親鸞は聖徳太子の宗教者の面{仏法}を高く評価していましたが、600年の間に聖徳太子伝説の中で権力側によって政治的に利用されているところがあったと思われますので、王法については如何に慎重であったか事が伺えます。親鸞は和讃では宗教的な面について自ら報恩感謝し、聖徳太子の宗教的に為しえたことを高く評価し、今、念仏できることを感謝し、詠嘆しました。太子伝説であるということがはっきり分かっていても、それが今まで宗教から差別されてきた民衆に専修念仏への導きの道になると思えば、内容が太子伝説といえども数多くの和讃を作ったと思われます。 第8章    自然法爾  人間社会に国家が成立してくることが、文明の始まりとなりました。古代四大文明、メソポタミヤ、中国、エジプト、インド:インダス文明が地球上に発生しました。 その当時の人々は神が自然の中に生きている尊敬する動物、人間にとって恐怖である動物、たとえば、エジプトでは神話の中で「はやぶさ」「ライオン」に神が宿るとして尊厳を与えました。ギリシャ時代には神話の世界にコスモ:ロゴスに支配された神話の多神教の世界を作ってきました。ユダヤ教の発生は多神教の神話的神の概念を退け、唯一絶対の神、エホバが世界を創造したと言い、それに続くキリスト教は異教の神話を破壊し、アウグスチヌスは天地の万物はみな、自分たちの神によって作られた、神が宇宙のすべてを創造した、神の意志によって作られた。と述べました。 ヨ-ロッパのルネッサンスに始まり現在に至る自然科学の成果、機械的自然観=自然の弁証法は神の意志によって作られた神の創造した宇宙を破壊することになり、神の創造による神学体系を否定することになりました。 自然の弁証法はギリシャ哲学のヘラクレイトス、アリストテレス、18世紀以降カント、ヘーゲル、デッユリング、エンゲルスと続き、現在の自然科学研究そのものを発展させる理論になっております。現在でもその理論の有効性は失われておりません。 エンゲルスの自然の弁証法には「現代の自然科学は運動の不滅性という定理を哲学から取り入れなければならなかった。量的につかむことばかりでなく質的にもつかむことをしなければならない。 そのはじめの状態に戻し、それを再び新しく生き返らせることが出来る諸力が自然の中に存在しているのか? 宇宙空間に放射された熱がもう一つの別の運動形態に転化していく可能性があるに違いない、熱はその運動形態で再び集積し活動的になることが出来たのである。 際限ない時間の中で永遠に繰り返される宇宙をはじめとする諸世界の継起は再現のない空間にある無数の並存を論理的に補足する。」と述べております。 この自然の弁証法の立場に立つ現代の世界の最高水準にある宇宙物理学者:池内 了 は「物理学と神」で 「宇宙は無数に存在する、自然の法則に矛盾しない限りにおいて。宇宙誕生を時間0まで適用すると、0にまったく近くなる時間をプランク時間と呼ぶ、時間、空間、物質もない状態を無というならば世界では何も存在しない。しかし、0に近いということは物質があることである、それを真空と呼ぶならば真空に電場をかければある値以上になれば電子と陽電子になり、物質と反物質とが対になって生成され有の状態が実現される。従って宇宙の創生はいつでもどこでも起こりうるのである。我々の住んでいる宇宙の反物質の世界にも我々の認識できない宇宙がある可能性あります。しかし、そもそもの真空が存在するかは今のところまだわかっていない。 1917年アインシュタインが宇宙を記述する方程式を、1922年フリードマンが宇宙の膨張することを、1929年ハップルが宇宙の膨張していることを観測し、1947年ジョーウジガモフがビッグバンを発明し、膨張を続ける中、その対称性が破れる課程で、複雑、特殊なものが育成され。このような特殊な複雑系にも自己の相似性のフラクタル性が見られる。 実勢と仮想的均衡へとちかづこうとするのが、神の見えざる手の働きによって人間の浅ましさ思惑を反省させているのでしょう。 フラクタル世界を最初に絵画として表現したのは平安時代の密教の僧侶たちであった。曼荼羅図である。同じような座った大仏の裾に小さな佛が多数すわっている。自己相似的な図柄は宇宙は次々と同じ形の小宇宙に分割され、その各々に違った顔の仏がおわすのだ。この世をフラクタル世界とみなすのならこれは仏教の世界であります。人間中心の宇宙論、天動説、今の私たちが観測している宇宙の領域はまだ小さく観測によって宇宙年齢を決定している銀河までの距離は5000万光年で原理的に観測できる宇宙の大きさは130億光年に比べて圧倒的に小さい、いまだ300分の一しか観測していない。これから推し量った宇宙論は人間の傲慢さでないか、お釈迦様の掌の上をうろうろしている程度の私であることを心に留めて置きたい。」 と述べております。ヨーロッパの宗教の歴史と科学研究の発達の歴史を見ますと、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、神が世界を創造した教義の為に、それらの神が常に自然に破れ、神は退場を余儀なくされていることをルネッサンス以降ずっと見てきております。 それに反し、 現代の最先端を行く量子宇宙物理学にも鎮座できるのは、仏教であります。その中でも 浄土教、特に専修念仏教、親鸞が達したところの自然、宇宙観は今でもその新鮮さを光り輝かせておると思います。 大峯 顕は親鸞のコスモロジーで「宇宙という宇は中国では時間、宙は空間であり時間空間的な世界を統合した全体その関連したものが調和と秩序のある完結した世界、そこに宇宙の法則があり、親鸞の念仏とは如来の宇宙の法則に従うことである。その宇宙の中に阿弥陀の広大無辺の本願力がありそれに乗れば往生浄土に行くことが出来るという法則、如来に抱きかかえられている、差し向けられている如来の本願を信じること、自らが罪悪生死の凡夫であると悟り、(人間存在の根底に人間の力を超えた力がある。その力によって、この私は私なのです。その力なしには私は生きることも死ぬことも出来ない、泣いても笑っても大きな宇宙に任せる以外にないと、19世紀の宗教学者のシュライエルマッハーの言葉を引用して)この如来の宇宙の法則に従うこと、これが自然の法則である。」と述べています。  親鸞は85歳のとき未燈鈔に自然法爾について書いております。 “自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、すべて行者のはからいのなきをもって、この法のとくのゆえにしからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義とするべしとなり。自然というは、もとよりしからしむということばなり。弥陀佛の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う。ちかいのようは、無上佛にならしめんとちかいたまえるなり。無上佛ともうすはかたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀佛とぞききならいて候う。みだ佛は、自然のようをしらせんりょうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。”と記しました。ここに親鸞は最後に到達した自然法爾の境地があります。 親鸞の分別に対する立場をはっきりさせて、義なきを義とする念仏の立場をはっきりさせて、分別の否定による我を否定し、非我の世界、超分別、人間のあらゆるはからい分別を超えた、弥陀の本願他力の信の立場となること。如来がたんなる主体でなく、主体を包みこむ運動と時間と空間を性質として持つ宇宙全体への転入、それに則して生きることは、その信としての生きることが主体の確立になります。 これは超歴史的世界への転入であり、歴史からの解放を意味しますが、現実に引き戻したとき、この立場は現実社会に於ける自由な決断を得る拠り所となります。それはすべての衆生が仏の前で、自由で平等であること、仏の前で平等の救済を受けること、衆生は自由で、平等で、その尊厳を守られると言う仏教における根本的な立場、法(ダルマ)の立場、大乗仏教の立場であります。ヘーゲルの精神現象学で長谷川 宏は「自己否定や自己喪失や自己への疑いに自分を持ちこたえられず、自ら挫けてしまうようであったなら、知への道はそこで終わってしまう。意識はあくまで自力で知への道を歩まねばならぬ、積極的なものを見つけ出し自己否定や自己喪失は自分の何から何まで否定され全面的になくなってしまってはならない、意識が自分を超えていく力を強調したかった。ヘーゲルは世界を動かす否定の弁証法が自分を包むようにして大きく働くことを予感しつつ、意識の自立した知の旅立ちの終点が絶対知であること。絶対知は近代社会に於いて生きる一般市民の個としての自由と自立を獲得していくさまをヘーゲルは見た。」と解説しております。 親鸞は宗教の立場からでありますが、自然の中に貫かれている法則がることを既に感じ取り、自然の中に身を任せる他力による絶対の真理=絶対の真実を見出していました。 親鸞はヘーゲルよりはるか600年以上も前に生まれ、ヘーゲルを超える絶対智慧をすでに身をもって獲得していたということになります。 第2編    教行信証の読解ノート 第1章  教行信証の作成、構造、完成  教行信証の成立は1224年が学者の間で有力な説になっております。 親鸞は35歳に 越後に流罪となりその後42歳に常陸の国に移り住み農民生活者と共に生き抜いて 来ました。その中から農民、被支配者の生活の中から多くのことを学び取りました。 この人々が本当に先に救われなければならない、これまでの仏教は天皇、貴族、武士、 など支配階級のものであり、農民生活者のものではありませんでした。自力修行を しなければ救われない。そのような事はとてもできない見捨てられた人々でありました。 法然の専修念仏の真の生命力がこの場で発揮されました。農民たちはこれまでの仏教で行われなければならないとされていました修行などというものとは全然必要がない ただ念仏する心があれば救われると言う教えは農民、被支配者の中にじわじわと浸透 していきました。  親鸞はこの生活の中から自らの念仏に対する考え方を磨き上げ 確立して末世の時代に生きる自分を含めての一切の人々の救いの可能性を見出しその理論を確立し、書き物として残しておかねばならないと思いました。  親鸞は常陸の国で農民と共に労働をして専修念仏の布教を拡げました。その結果着実 に実を結び無知豪昧とさげすまれ、自らもそのように思い込んでいた農民生活者が 念仏の世界に転入し人間はみな平等であらことを知り、自らの尊厳を自覚すること により念仏の道による新しい人間観、それに基づく連帯、結合、同朋社会の基礎が 固まっていきました。  働く農民の生産物を年貢として取り上げる天皇貴族や武士 階級の支配者と、念仏の教えが深まり広がれば広がるほど農民層とその両者間のあらゆる部面に矛盾が起こるのは当然でした。  天皇貴族や武士階級が自らの支配を維持および継続していくには、専修念仏はどうしても邪魔になるものになっていました。親鸞は1207年の法然門下の専修念仏に対する弾圧を親鸞は常に思い出していました。 これから先いつ何時 弾圧されても屈しない理論の確立をしておきたい。書物として残しておきたいと考えるようになりました。 親鸞は出来るだけ早く「興福寺奏状」を論破し徹底的な反論をしなければとつねづね 考えていたに違いありません。法相宗の貞慶解脱によって草案が創られたと言う「興福寺奏状」は非常によく内容が整えられた理路整然とした物でありました。  その中に新宗を立てる失点の第一からこのわが国土の実情を乱す失点第九点まで書かれています。  また、法然入滅後、1213年「選択本願念仏集」が開版印行され、それに対して栂尾の高弁が「選択集催邪輪」と「催邪輪荘厳記」で “ここに近代上人あり、一巻の書を作る。名づけえ選択本願念仏集といえり。経論に迷惑して、諸人を欺証せり。”と冒頭に述べ“菩提心を無視している、また聖道門を群賊悪獣に譬えている。”、高弁は当時としては真面目な僧侶であったが、聖道門の“釈尊に帰れ、菩提心中心主義”の立場に固執していたため、「選択集」への誤解もあり、又当時の時代が専修念仏運動に対する憎しみ、旧仏教側からの必至の反撃でありました。 親鸞は法然上人の「選択集」のへの誤解を解き、真意を明らかにする使命感がありました。それも作成の一つの理由になっております。 これを総べて論破、反論していくには遠く釈尊から下り法然の時代までの経典、 新訳本、旧訳本, 異訳本、論、注釈書、を歴史的に調べ上げ、比較研究し、その中 から引き出されてきた理論は親鸞独特の方法でありました。比較研究し今までの考え 方から転回し変換させて多くの経典等から内容を選択し文書を探り自分の考えに統一 してまとめ上げる理論構成をしていきました。  このような気の遠くなる作業と努力 が出来たのは過去の弾圧とこれからも考えられる弾圧に対しても念仏をまっとうする 全ての一切のひとびとにそなえる理論準備が必要でありました。 親鸞は過去の弾圧 を思い出し怒りを励みにしてこの著作を進めたのではないかと思われます。 教行信証の最後には “主上臣下、法に背き義に違し、怒りをなし怨みを結ぶ。これに 因りて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考えず、みだりがわしく 死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜ふて遠流に処す。予はその一なり。 しかればすでに僧にあらずば俗にあらず。この故に禿の字を以って姓とする。“ 教行信証の構造は教・行・信・証・真仏土・化身土の六巻からなります。 図解すると下記のとおりになります。           |-- 教------大無量寿経    | 往相== |-- 行------第17願---------------|    |      |-- 信------第18願---------------| 真==|      |-- 証------第11願---------------|=======|    |      |-- 真仏土-----第12・13願------|       |    |                     |       |    | 還相=========第22願---------------|       |-----                                  (難思議往生)                                               | 要門---------第19願----------|――――― |(双樹林下往生) 仮=====化身土==|             |         |  | 真門---------第20願----------|――――― |(難思往生)        |        |      |     |    |   | 偽=============外教邪偽 教行信証は末世の時代の真実の教えは「大無量寿経」に示されていることを説き、浄土回向についての探求でありました。この教えの教・行・信・証・それぞれの位置決定と相互のつながり結合関係と、その中から貫き突き抜ける法則を見出し真の仏の住する浄土に行き着く、行き着かされることを明らかにすることでありました。 親鸞は自分の考えを述べるのに都合の良い類似の文章をいろいろの経典から引き出して 並べるという事をしましたがそれは平面的なものでなく、親鸞が身に付けた法則により相互のつながり、行・信・証・真佛土・の循環関係を明らかにしております。 詳しくは後述の第2章より第8章までで明らかにしたいと思います。 教行信証の土台となるものは一応1231年親鸞59歳の時に関東常陸の国で完成を 見ますが、京都に帰り探していた叉は不十分であった経典その他を手にいれ一応の完成を見、尊蓮がこれを書写したといわれている親鸞75歳の頃と推察されています。 教行信証は親鸞の信仰の告白であると同時に、浄土真宗の立教開宗の根本経典であります。 教行信証の題名について、顕浄土真実教行証文類と呼び教行信証とは成っていません。 教――釈尊の教え「大無量寿経」 行――その教えに説かれた名号“南無阿弥陀仏” 証――それによって得られるさとり 文類――経、論、釈、の要分を分類したもの 「信」――その名号を信ずること 当時の仏教界は教行証の三法をもちいていたので、その三法をもらって親鸞は三法の表現をしましたが実際は四法をして内容を明らかにしていました。親鸞は末法の時代に入って教行証にも変化のあること記しました。 化身土巻:本「末法灯明記」に“しかればすなわち末法の中においては、ただ言教のみありて行証なけん。” 「正像末和讃」において、 “末法五濁の有情の 行証かなわぬときなれば、釈迦の遺法ことごとく 竜宮にいりたまいにき”と親鸞は教行証の衰退を歎ぜられました。 親鸞は四法の開示を大経の下巻のはじめの第17願―行、第18願―信、の成就文でいたしました。  大経下巻のはじめに “十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿佛の威神功徳の不可思議なることを讃嘆したまう。教 あらゆる衆生、その名号行を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。信 心を至したまえり。かの国に生まれんと願ずれは、すなわち往生を得て不退転に住す。証  大経の意によって四法の教行信証の開示をいたしました。 第2章     教行信証・序  この序は一般に総序と呼ばれており、他に別序と後序がありますが別序は信の巻きの始めに組み入れられおり、後序は化身土の巻の終わりに組み込まれております。この総序は教の巻とは別にその前に別枠で作られております。  各、この三序は教行信証の中でも重要なところですが特にこの総序は重要に扱われております。 “竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなわち、浄邦縁塾して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。” 難思の弘誓: 重いはかることの出来ないほどの広大な弥陀の本願 難度海:   生死の迷いの世界 無明の闇:  佛智の不思議を疑って弥陀の本願を信じない自力の疑心 恵日:    弥陀の智慧の光明は疑いの闇をやぶって明らかにするこれを太陽に喩え 浄邦縁塾:  阿弥陀如来浄土の教えの説かれる因縁が熟し 調達:    提姿達多、阿闍世をそそのかした王舎城の悲劇の原因を作った人 闍世:    王さんの子  浄業機彰:  浄土に往生する因である念仏を修する人が現れ、 安養:    阿弥陀如来の極楽浄土、西方浄土                  権化の仁:  仏や菩薩が衆生を救うために仮に姿を表わす 世雄:    一切の煩悩をおさえる、ここでは釈尊のこと 逆謗:    五逆と謗法のこと 闡提:    成仏する縁の無い悪人 恵まんと欲す: おぼしめしを示されたものに他ならない  この世の迷いの世界から衆生を救うために阿弥陀如来の本願が、その智慧の光明が、無明の闇を破する教えに釈尊が出会いその本願の教えを指し示しました。 その阿弥陀如来浄土の教えである浄土教の説かれる因縁が熟して、浄土に往生する因である念仏を修する人があらわれてきた。これが、「観無量寿経」の王舎城の悲劇であります。提姿達多が阿闍世をそそのかして父母を害させることになり、念仏によりそれを救わねばならない正機をしめされ、釈尊が韋提希をみちびいて浄土を願うように勧められたのであります。韋提希夫人が阿闍世のために座敷牢に監禁されたとき彼女が釈尊に願って説法をしてもらったのが「観無量寿経」であったわけであります。その韋提希夫人を聖道門の諸師は大権の聖者として評価しました。 善導は韋提希夫人を実際には凡夫であって菩薩の化身ではなく、従ってこの「観無量寿経」の内容は凡夫の為の教えであって聖者のためのものではないと説きました。親鸞は権化の聖者と仰がれ私たちを往生させるために仮に凡夫の姿を表わして、「観無量寿経」の説法の始まる因縁を作ってくださった、極悪深重の自分を救ってくださるために、釈尊をはじめとする人々が種々に善行を方便にして韋提希が釈尊の指図によって仮に凡夫の姿を権化して、凡夫が救われることを示してくれたと解釈いたしました。  「浄土和讃」の観経讃にも、 “釈迦韋提方便として 浄土機縁塾すれば 雨行大臣証として 闍王逆悪興ぜしむ” 善導と親鸞の見解は一見違うに見えますが韋提希を凡夫とみる善導も権化の聖者と見る親鸞も根底では「観無量寿経」に於いて説かれている南無阿弥陀仏の名号、これはまったく極悪深重の凡夫を救うために他ならないことを述べております。 “かかるがゆえに知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。“ 円融至徳の嘉号: 一切の善根功徳を円満に備えている阿弥陀仏の名号 難信金剛の信楽: 他力回向の信心は金剛のように強く歓喜愛楽する “しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。” 大聖一代の教:  釈尊がその一生の間に説かれたところの教え この徳海にしくなし: この阿弥陀仏の本願の教えにおよぶものはない。 穢を捨て浄を欣い:  穢土であるこの娑婆世界をすてて、弥陀の極楽浄土を願い求める 如来の発遣を仰ぎ:  釈尊が弥陀の本願に帰依し浄土に往生せよとすすめられていると “ああ、弘誓に強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径暦せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、門思して遅慮することなかれ。” 弘誓に強縁:     阿弥陀如来の本願力の強いこと 億劫にも獲がた:   非常に長い時間をかけても得ることが難しい 疑網に覆蔽せられば: 疑いに惑わされる 曠劫を径暦:     はるか長い時間をへめぐること 摂取不捨の真言:   必ず救うという本願の教え 超世希有の正法:   世にも優れたいまだかってない正法、南無阿弥陀仏の名号 門思して遅慮することなかれ:  如来の教えを信じて疑いためらうことなかれ “ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃:月支の聖典、東夏:日域の師釈、遇いがたくして今遇う事を得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなり。 西蕃:月支:   インド: 西域 東夏:日域:   中国: 日本 古い仏教では穢土を捨て浄土を願うことを、厭離穢土、欣求浄土 といいますがこれは聖道門の教えで現実否定から仏教の修行が始まっております。浄土門では欣求浄土、厭離穢土となりそれが後先逆になりますが、浄土を欣うことでこの世を厭うということは、これは自力の心であるため、浄土門の自力であります。 自己の罪悪深重を知って本願に帰命することしか救われる道がないとさとり、信心を獲得した境地には厭離穢土、欣求浄土の厭欣を超越した歓喜の状態に入ることになります。   愚禿鈔に、“自利真実について、また二種あり。 一には厭離真実  聖道門 難行道 竪出 自力 竪出は難行道の教えなり、厭離をもって本とす、自力の心なるがゆえなり。 二には欣求真実  浄土門 易行道 横出 他力 横出とは易行道のえなり、欣求をもって本とす、何をもってゆえに、願力に由っ生死を厭捨せしむるがゆえなりと。と親鸞は“欣求をもって本とす、何をもってゆえに、願力に由っ生死を厭捨せしむるがゆえなりと”説いております。 第3章    教の巻   大無量寿経――― 真実の教え、 浄土真宗  大無量寿経は王舎城の耆闍崛山で阿難を対象に阿弥陀仏の本願を説かれたものであります。それは、如来浄土の因果、衆生往生の因果を阿弥陀仏が浄土を建立され、その浄土に衆生が往生することを明らかにした経典であります。如来浄土の因果とは、阿弥陀仏がもと法蔵菩薩であったとき、世自在王佛のもて一切の衆生を救いたいと願われ48願の大願を起こし、長載永劫の修行によって阿弥陀仏になられたことを明らかにしました。 衆生往生の因果が説かれ、衆生が浄土に往生する正因は、ただ弥陀の名号を聞いて信心歓喜するよりほかに道はないことを明らかにしました。 自力の浄土宗から分かれた浄土真宗が源空:法然によって起こされました。 浄土宗  (真――選択本願―――浄土真宗―――大乗の至極      (仮―――定散二善――――方便の仮門 親鸞は浄土和讃に  “念仏成仏これ真宗、   万行緒善これ仮門            権実真仮をわかずして  自然の浄土をえぞしらぬ。“ 高僧和讃にも、 “智慧光のちからより、  本師源空あらわれて、          浄土真実ひらきつつ、  選択本願のべたまう。“ “謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。それ、真実の教を顕さば、すなわち「大無量寿経」これなり。” 二種の回向とは、衆生が浄土に回向する往相と往生して佛になり、衆生を救うために この世に帰ってきて利他教化する還相、それら二つの回向も弥陀本願の他力回向によってなされます。 自力回向とは一般には自分の善を他の人々にほどこして、それによってともに浄土に向かう事を云います。これを聖道門の回向と言っております。 天親の「浄土論」の内容は五念門の行を修し、五功徳の果を得て、自利利他円満にして、無上仏道を成就することを明らかにしてものでありますが、曇鸞は愚悪の凡夫は元来その心薄弱で堅固な一心を確立することが出来ず煩悩妄信に妨げられて五念の清浄な行を起こすことが出来ない。弥陀如来の深重な大悲はこうした凡夫のために願を起こして行を修して、真実の一心と清浄の五念の行とを成就してこれを凡夫に回向したのであり、安心起行 ともに凡夫自力の発起するところでない意を述べられました。すなわち、天親の一心五念の因を行者の修するものとせず、弥陀すでにこれを成就して凡夫に与えたまうと解釈して 二つの回向が、衆生が浄土に往生すること、また、浄土からこの地に帰ってきて衆生を済度教化することを、それらがまったく、弥陀の他力回向によってなされるということを、さらに一層明らかにしたのが親鸞であります。 親鸞はその曇鸞の「浄土論註」より引用して教行信証の信の巻きに “回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり。還相は、かの土に生じ巳りて、奢摩他:毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往:もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり”また、教行信証の証の巻の終わりに、 “しかれば大聖の真言、誠に知りぬ。大涅槃を証することは、願力の回向によりてなり。 還相の利益は、利他の正意を顕すなり。ここをもって論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萠を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに、他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。” また、教行信証の行の巻の終わり:「正信偈」に “天親菩薩の「論」、註解して、報土の因果、誓願に顕す。往:還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。”と、 “この経の大意は、弥陀、誓い超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝をほど施することをいたす。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。” 超発して:     世に優れた本願を起こす 広く法蔵を開きて: 法蔵菩薩が修業されて、万善万行をつまれたこと 功徳の宝:     一切の功徳の宝を持った名号 道教を光闡して:  一代の教えをひろめること 真実の利:     阿弥陀仏の本願の名号、真実の利益になるので、 宗致とす:     もっとも大切な宗要 仏教の歴史は釈尊の出世、正覚の事実にはじまりますが、多くの大乗経典には、その釈尊が法を指し示す宗教的偉人としではなく真理の顕現者として世に出られた人であると説かれており、釈尊の入滅後の佛弟子にとって仏教は、釈尊と言う名によって権威づけられた複雑な教えとなっていました。釈尊の出世の本意がここに改めて確かめられねばならない時期が来ておりました。 釈尊が何を説き、何のためにこの世に出られたかを問うということが重要になってきました。 大乗仏教はこの課題を明らかにすることによって、一切の衆生の往生道を確かめることであった教理でありましたが、教理は大乗でありましたが行証としては難行道に他ならなかったのであります。 親鸞は「未燈鈔」の中で“浄土宗の中に、真あり仮あり。真というのは、選択本願なり。仮というのは、定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり。定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗の中の至極なり。” 親鸞は「歎異抄」のなかで、“弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞のもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。”  という「弥陀の本願のまこと」が説かれ伝承されてきた歴史的事実に親鸞は浄土真宗の興隆を見たのであります。真実の教え、真に大乗というべき仏道に値遇したということが、その真実の教えを公開するのが 「教行信証」全体の主題でありました。  それを端的に示しいるのが「大無量寿経」の 教えでありました。 親鸞が「大無量寿経」を真実経として決定したのは一切の衆生の帰すべき法としての阿弥陀仏の名号の選択と回向成就が如来の本願として説かれている事に親鸞はそこに釈尊の本意をみたのであります。親鸞は「正信偈」の文に “如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんためなり。五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。”“印度:西天の論家、中夏:日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、機に応ぜることを明かす。”    これらの文には親鸞の阿弥陀如来の本願海、その釈尊のお教えと伝承が明確に述べられております。 親鸞は「尊号真像銘文」において、“如来所以興出於世は、如来ともうすは、諸仏ともうすなり。所以というは、ゆえというみこなり。興出於世というは、世に仏いでたまうともうすみことなり。欲拯群萠は、欲というは、おぼしめす。拯は、すくわんとなり。群萠は、よろずの衆生を救わんとおぼしめすなり。”また、 親鸞は「一念多念文意」に “しかれば、「大経」には、「如来所以興出於世 欲拯群萠恵以真実之利」とのべたまえり。この文のこころは、「如来」ともうすは、諸仏をもうすなり。 「所以」は、ゆえ、ということばなり。「興出於世」というは、仏のよにいでたまうともうすなり。「欲」は、おぼしめすともうすなり。「拯」は、すくうという。「群萠」は、よろずの衆生という。「恵」は、めぐむともうす。「真実之利」ともうすは、弥陀の誓願をもうすなり。しかれば、諸仏のよにいでたまうゆえは、弥陀の願力をときて、よろずの衆生をめぐみすくわんとおぼしめすを、本懐とせんとしたまうがゆえに、真実之利ともうすなり。しかればこれを、諸仏出世の直説ともうすなり。おおよそ八万四千の法門は、みな浄土の方便の善なり。これを要門という。これを仮門となづけたり。”“この要門:仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海におしえすすめいれたまうがゆえに、よろずの自力の善業をば方便の門ともうすなり。” また、「浄土文類聚」にも出世本懐の意を明らかにして「大無量寿経」に説かれている釈尊はこれまでの釈尊と違って、まことの阿弥陀仏になっている、この経を阿弥陀仏の直説であるといわれています。“誠に知りぬ。大聖世尊、世に出興したまう大事の因縁。悲願の真理を顕わし、如来の直説としたまえり。凡夫側生を示す大悲の宗致とすとなり。これに由りて諸仏の教意を闚うに、三世のもろもろ如来出世の正しき本意、ただ阿弥陀仏不可思議の願を説かんとなり。” 釈尊がこの世に出たのは弥陀の本願の教え、弥陀の意を解して一切衆生の帰すべき、その法として弥陀の名号の選択と回向成就が、如来の本願として指し示しその恵みを広めようというこの一点ありました。釈尊の求道が無上尊になることを成就してくだされただけでなく釈尊だけでなく全ての人々が無上尊になること、一人一人の命が取り替えられることが出来ない尊厳をもっている無上尊になること。  親鸞はそこに釈尊出世の本意をみました。 また、親鸞は「大無量寿経」の顕す仏教を弥陀と釈尊の二尊教と捉えました。 “何をもってか、出世の大事なりと知ることを得るとならば、” どう言う由でこの経が釈尊出世の本懐であるということができ るかは「大無量寿経」に説かれていることによって知られるのであります。 「大無量寿経」の“仏の言わく、「善いかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう。世に出興する所以は、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。無量億劫に値いがたく、見たてまつりがたきこと、霊瑞華の時あって時にいまし出ずるがごとし。今問えるところは饒益するところ多し。一切の諸天:人民を開化す。阿難、当に知るべし、如来の正覚はその智量りがたくして、導御したまうところ多し。慧見無碍にして、よく遏絶することなし」と。” 阿難:    アーナンダーの略、釈尊の弟子、いつも釈尊の近くにいて、多聞第一 真妙の弁才: まことに巧みな話術の才能 無蓋の大悲: どんなものにもおおわれることのない仏の大きな慈悲 三界:    迷いの三世界 霊瑞華:   うどんげの花のこと そこで釈尊はおおせられた「およそ如来はこの上もない大慈悲をもって、三界の衆生をあわれまれ、この世に出られたわけで、一代の教えを説き広め、一切の衆生を救い、弥陀の本願をといて、まことの利益を施したからに他ならない。」と大無量寿経でいわれました。 「無量寿如来会」に説かれています。“限りない徳を備えられ、平等の理を悟られた一切の如来は大きな慈悲をもって人々を利益するために、この一世に出てこられたのである。” 「平等覚経」に説かれています。“世尊が阿難におおせられた、この世に仏が出られることは優曇鉢樹の花が咲くことほどまれなことであり、その仏に値うこともなかなか難しいが、聡明善心にして佛意を知っているから、阿難よ、いつも私のそばにいてくれることが出来る。” “しかればすなわち、これ顕真実経の明証なり。誠にこれ、如来興世の正説、奇特最勝の妙典、一乗究搖竟の極説、速疾円融の金言、十方称讃の誠言、時機純熟の真教なり。知るべし、と。” 如来興世の正説: まことにこれは如来がこの世に出興された本位の説法 奇特最勝の妙典: 唯一、無二の最高の法をあきらかにした教説 一乗究搖竟の極説、速疾円融の金言: 速やかに功徳を満足させる法を説く仏語  釈尊と阿難との出逢いの事実に真実のはたらきを感得して、これ顕真実経の明証なりと 親鸞自身のうなずきを表しています。 第4章    行の巻 諸仏称名の願     選択本願の行      浄土真実の行  諸仏称名の願というのは、48願の中の第17願のことで、阿弥陀仏の名号が諸仏に褒め称えられる事を誓われたものであります。すなわち、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の名号一つをもって一切衆生を救いたいと誓われ、さらにそれを十方の諸仏に褒めてもらいたいと誓われたことであります。 親鸞は「唯信鈔文意」に “第17願に、十方無量の諸仏にわが名ほめられん、となえられんとちかいたまえる、一乗大智海の誓願、成就したまえるによりて。” 浄土真実の行というのは、衆生が浄土に往生する真実の行ということで、第17願によって成就された南無阿弥陀仏の名号、すなわち諸仏によって称讃された名号が、衆生の浄土往生する真実の行業であることを示しました。選択本願の行と言うは、阿弥陀仏の因位のとき、一切の衆生を救済したいという願心から、選択摂取された本願の行をいうもので、浄土真実の行というのも、選択本願の行というのも、とおもに南無阿弥陀仏の名号にほかならないのであります。ゆえに浄土真実の行というのは、衆生が浄土に往生するための正宗業の事を言います。 “謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。すなわちこれ諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。” 大行:   名号、南無阿弥陀仏の事を言う 大信:   如来回向の信心 無碍光如来の名を称する: 南無阿弥陀仏の名号を称えること 善法:   仏になるための諸善万行 徳本:   仏になるための一切の功徳の根本となる万行 極速円満: 名号の中にそなわっている善根功徳がまどかにほどこされ信心の一念にたちどころに行者に身にみち満つことをいう 真如一実: 諸仏の体性となる絶対の真理を真如という 大悲の願: 如来の大慈悲の願、 ここでは、17願のこと 諸仏咨嗟: 諸仏が弥陀の名号を褒めることを誓った願を言う。 親鸞は念仏を大行という言葉で顕わしおります。そしてこの大行はすなわち南無阿弥陀仏という称名として自らに現れている深い目覚めを大信と顕わしております。大行:大信の獲得によって開かれた仏道を浄土真宗と呼んでおります。   いづれの行に励んでも仏になることの出来ない罪悪深重の我が身を念仏の智慧によって人間の計らいによる行でなく、むしろ計らいを破る念仏は穢土のそらごとたわごとのなかにいる人間に浄土という真実の世界を開かしてくれる行であり、すべての衆生の往生道として選び取られた選択本願の行であり、それは阿弥陀仏の本願が衆生の念仏となり、その念仏する衆生を往生の一道に立たせしめる大行であるからです。選択本願の行と信は別のことでなく、よきひとに、遭うことによって獲得した信は、必ず念仏として現れるそれを親鸞は大行:大信として顕わしております。 “諸仏称名の願” 「大経」の第17願には、もし私が仏になるとき、十方世界の数限りない諸仏たちが、ことごとく私の名をほめたたえないならば、私はさとりを開かないと。また、「無量寿如来会」にも説かれています。阿難よ、阿弥陀仏はこのような優れたはたらきがあるから、はかりしれない、あらゆる世界の諸仏たちが、みなくちをそろえて阿弥陀仏の功徳をほめたたえているのであります。 “しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。称名すなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、知るべしと。” 一切の無明:    真実の佛智を疑うことを無明、これが迷いの根本 志願を満てたまう: 往生の志願、一切の志願が仏の力によって満たされること 最勝真妙の正業:  称名は最も優れた真妙の正業。正決定の業因、浄土往生の因 親鸞は称名破満の徳を明らかにするために、曇鸞の「論註、讃嘆門」;“無碍光如来の名号は。能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまふ。また、大行とは無碍光如来の名をしょうするなり。これに照応して称名破満の徳を獲得することを信ずると。”釈成しました。 一切の無明を破ること、成仏の志願を満たすこと、破闇も満願もじつは表裏であり、行と信は同体であり、大行のあるところ大信ありという事であります。 親鸞は「浄土高僧和讃」の曇鸞讃第27種目に“無碍光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまう” 親鸞は「唯信鈔文意」に“尽十方無碍光佛ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、無明のやみをはらい、悪業にさえられず。このゆえに、無碍光ともうすなり。さわりなしともうす。しからば、阿弥陀仏は、光明なり。智慧のかたちなりとしるべし。”また、「唯信鈔文意」に“無明のまどいをひるがえして、無上涅槃のさとりをひらくなり。” 親鸞は「未灯鈔」の第1通に“正念というは、本弘誓願の信楽さだまるをいうなり。この信心うるゆえに、かならず無上涅槃にいあるなり。” 竜樹の絶えざる求道の歩みを「十往生毘沙論」に教学と表しました。竜樹は人間がその思想的な営みを固定的に捉えることを破り、人間の知的分別の迷妄を“不生不滅、不常不断、不一不異、不去不来、” を 「八不」をもって「中論」を著して、釈尊の大乗の精神を受け継ぎより明確に伝えんとしました。親鸞は竜樹の思想を念仏において領解し、“「常に諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して稀有の行なり。このゆえに歓喜多し」と。”と引用しました。また、 『正信偈』に“竜樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無も見を摧破せん。大乗無上の法を宣説し、歓喜を証して、安楽に生ぜん。” 竜樹は難易ニ道の教えを説き、難行道は陸路を徒歩で行き、易行道は水上を船で渡るようなもので、難行道は「丈夫志幹」の人の歩む道であり、一般にその道に堪えられない「儜弱怯劣」の凡夫であり、それが人間世界の現実であります。その信方便の易行が凡夫に開かれた易道であると説きました。竜樹自信もまた、修道において儜弱怯劣の凡夫を自覚し懺悔したのでありますから、恭敬の心をもって弥陀の名号を称することが出来ました。みずから発願して流転する生死を超え出でようとする修行が難行にほかならない、それに堪えられない凡夫の人間に開かれた道は、念仏の道に立つ信方便の易行しかほかにないことを竜樹は明らかにしました。親鸞は「高僧和讃」第4首に“竜樹大士世にいでて 難行易行のみちおしえ 流転輪廻のわれらをば 弘誓のふねにのせたまう” 第6首に“不退のくらいすみやかに えんとおもわんひとはみな 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし” 竜樹が開顕した信方便の易行は、大乗の仏道、自利利他の道を自由に行き来する不退転にいたろうとする凡夫に恭敬の心をもって仏の名を称念することが自然の境地に入らしめることであると述べました。 “この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、我を念じ名を称して自ずから帰すれば、すなわち必定にいりて阿耨多羅三脈藐三菩提を得、このゆえに常に憶念すべしと。” 阿弥陀仏の本願を深く憶念すれば、凡夫がおのずと、そして同時に、必ず仏になるべき身と定まって、如来の大慈悲弘誓の力によって、必定の菩薩の世界に入らしめられたものは、つねに阿弥陀仏の名を称念して、如来の恩徳に報いたてまつれと、竜樹も念じわれわれにも勧めているのであります。 天親の『浄土論』を引いて名号すなわち大行の意味を示しました。法蔵菩薩は五念仏の中の前四念を修し、自利の行を成就させ第五の回向門にあって、衆生に功徳を施させる利他の行を成就されたと、それで五念仏の行を成就され自利と利他の行をし、すみやかに無上道の佛果を成就されたのであります。 阿弥陀仏の本願力を信ずるものはむなしく生死にとどまることなく、すみやかに功徳の大宝海を満足させていただけるのであります。親鸞は「高僧和讃」天親讃第3首に“本願力にあいぬれば むなくしすぐる人ぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩のよごれ濁水へだてなし” 曇鸞の「往生論註」を引いて名号の大行のいわれを示して、その名号の活動である称名によって往生することを明らかにして称名が真実の大行であることを示しました。竜樹の「十往論」をうかがって易行道は仏を信ずる因縁によって浄土に生まれたいと願えば、仏の願力によってかの清浄な浄土に往生し、仏力の住持によって、ただちに大乗の正定聚の位に入ることが出来る、その正定聚というのは不退の位のことである明らかにし、天親の「浄土論」をうかがい一心帰命の信が五念門の行で五功徳を得ることを「往生論註」で再度明らかにいたしました。  道綽の「安楽集」から四文を引いて念仏三昧の優れた徳を述べています。まず第一文は「観佛三昧経」の釈尊が父親との問答から念仏三昧の功徳を示し、一切の煩悩、悪行が断滅することを説き、第二文は竜樹の「大智度論」から念仏三昧は過去、現在、未来の三世の一切の煩悩を除くことが、三昧の中でも最も優れたものであると説きました。第三文は曇鸞の「讃阿弥陀仏偈」によって名号を聞信する一念に浄土往生の利益が得られると説きました。 第四文は「目連所問経」によって、人はみな生老病死の苦を逃れることが出来ないのであるゆえに、往き易い阿弥陀如来を信ずべきであると説きました。道綽は「観経」において観佛三昧と念仏三昧とを同意義にとってそれがともに往生の行業であるとし称名が念観合論であるという立場をとり、念仏三昧の功徳と利益を説きました。 善導の釈文である「往生礼讃」より五文をあげて名号を讃嘆しています。 第一文は名号の優れた徳を示され、易行の称名を勧め、西方の阿弥陀仏のみを称念すること勧め諸仏をもって弥陀一佛に帰すること勧めております。第二文は名号の徳を摂取不捨の光明によって讃じ、第三文は名号を聞くだけで浄土の往生することが出来ることを讃じ、第四文は名号を聞く信心の徳を讃じ、最後の第五文は称名には減罪や護念、来迎や往生などの徳を讃じ、名号のいわれを讃嘆しております。 また、善導は「玄義分」で弘願というは「大経」に説かれている一切善悪の凡夫が浄土に往生するのは阿弥陀仏の大願業力に乗ずるもので最上のものであります。 南無ということは帰命と訳し発願回向の意味であります。阿弥陀仏というのはすなわち行であり、必ず往生できるということであります。 「観念法門」では、もし我成仏せんに、十方の衆生我が国に生まれんと願じてわが名号を称すること下十声に至るまで我が願力に乗じてもし生まれずば、正覚とらじ、これは、往生を願う念仏者が生命が終わらんとする時、日ごろから願力を納めているのでたやすく往生できえるゆえに摂生増上縁といいますが、一方、あらゆる善悪の凡夫に自力の心をひるがえさせ、本願の名号を信じる称念して、残らず往生させることが出来るのを証生増上縁というのであります。 「般舟讃」では、無明のなどの迷いの因果を滅する利剣は、弥陀の名号であります。覚えざるに他力の念仏によって浄土に往生し、真如の門に入ることが出来るのは、みな釈尊の恩を蒙っておるわけであります。 “しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、至なり、また帰説(よりたのむなり)なり。説の字、悦の音、また帰説(よりかかるなり)なり、説の字は、税の音、悦税二つの音は告ぐるなり、述なり、人の意を宣述するなり。「命」の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。ここをもって、「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」と言うのは、如来すでに発願して、衆生の行を回施したまうの心なり。「即是其行」と言うは、すなわち選択本願これなり。「必得往生」と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰わすなり。「経」(大経)には「即得」と言えり、「釈」(易行品)には「必定」と云えり。「即」の言は、願力を聞くに由って、報土の真因決定する時剋の極促を光闡せるなり。「必」の言は、審(あきらかなり)なり。然なり。分極なり。金剛心成就の貌なり。 「帰」の言は、至なり: 至ると言うのは来至のことで、来れ至れという如来の勅命のことで、弥陀の一心正念にして直ちに来たれと呼んでいることです 「帰命」は本願招喚の勅命なり: 帰命と言うのは如来が衆生に帰命せよと呼びたまう勅命のこと 選択本願:           第18願のことで、法体大行の意味 善導の六字釈、如来が衆生を救済せんがために南無阿弥陀仏の六字の名号を成就され その名号こそが衆生を浄土に往生させる即是是行であるとなし、しかも如来はこれを回向することによって衆生を救済しようと誓われ、発願回向し、われに帰せよと招喚をされるのであるから、われわれ衆生はその仰せの本願を疑いなく信じて、往生することのうれしさを決定しなさいという解釈を引き続いで、親鸞はその六字の釈義をして名号の大行を明らかにしています。“「即是其行」と言うは、すなわち選択本願これなり。”と述べられています。それは帰命だけでなく、発願回向も如来が衆生を救うための発願回向であるとされ、即是其行も如来の手もとに成就された選択本願であると、この六字の三義(帰命、発願回向、即是其行)をすべて如来からのものとして釈義いたしました。親鸞は「一念多念文」に“「回向」は本願の名号をもって十方の衆生に与えたまう御のりなり。” また、「尊号真像銘文」に“「言南無者」というは、すなわち帰命ともうすみことばなり。帰命はすなわち釈迦:弥陀のニ尊の勅命にしたがいて、めしにかなうともうすことばなり。このゆえに「即是帰命」とのたまえり。「亦是発願回向之義」というは、二尊のめしにしたごうて安楽浄土に生まれんと願う心なりとのたまえるなり。「言阿弥陀仏者」ともうすは、「即是其行」となり。即是其行は、法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり。案養浄土の正定の業因なりとのたまえるこころなり。” ここに、中国の十師の論釈を引いて名号を助顕しています。 律宗の法照「浄土五会念仏略法事儀讃」 法相宗の憬興「無量寿経述文賛」 蓮社の張倫「楽邦文類」 天台宗の慶文「正信法門」 律宗の元照「観経義疏巻上」 律宗の戒慶「正観記」 律宗の用欽「超玄記」 三輪宗の嘉祥「勧経義疏」 法相宗の法位、諸仏はみんなその功徳をおさめていると。 法相宗の飛錫、念仏三昧は最上の善い法であると。 他宗の十師が弥陀の名号を称念して浄土に往生したいことによって、念仏一法の重要性を証明すると同時に、親鸞の当時、仏教界において最も指導性をもっていた宗派の先師が念仏門への理解を示していたことを明らかにして、当時の南都北麗の学徒たちが法然の専修念仏を異端視して排除したことに対するアッピールでもありました。 次に日本の浄土教の師であります源信「往生要集」の四文を上げて念仏を讃じております。第一は念仏証拠門で一向専念無量寿佛、乃至十念若不生者不取正覚、観経の文、これ等は極重の悪人が極善最上の法である第18願の念仏によって救われことを示しました。 第二は心地観経の礼拝門の六種功徳を示して諸仏の功徳を阿弥陀仏の一仏に帰して、弥陀の功徳を讃嘆するものとして引用しました。第三は作願文の文で華厳経の波利質多樹の華で念仏の徳を示しました。第四は臨終念仏の相を示して念仏の利益を明らかに示しました。 親鸞の直接の師であります源空の「選択本願念仏集」の文を引いて、南無阿弥陀仏(往生の業は念仏を本とす、と。)また、いわれている それ速やかに生死の世界をおもうと思うならば、二つの優れた法門の中で、まず聖導門をさしおいて浄土門に入るがよい。その浄土門に入りたいと思うならば正行と雑行の中で、まず雑行をすてて正行に帰すべきである。さらにその正行を修めたいと思うならば、正定業と助業の中で、助業をかたわらにして正定業を修めるがよい。正定の業というのは弥陀の名号を称えることである、称名するものは必ず往生することが出来る。それは阿弥陀仏の本願にもとずくからである。と述べております。  「教行信証」に親鸞が源空の「選択本願念仏集」から引用しましたのは上の二文のみであります。上の二つの文で法然の称名専修念仏の全ての実義を正しく把握されており、念仏為本から信心正因への道を展開したのが親鸞であることがこれからも解ります。教行信証がもっともすぐれた選択集の註釈書でありますから、その引用文によって明らかにするより、よりその本質をその他の教:論:釈で明らかにする方が法然教義の真髄を開顕できると考えたと思われます。また、それが師に対する報恩感謝であると考えたに違いありません。 “明らかに知りぬ、これ凡聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向の行と名づくなり。 大小の聖人:重軽の悪人、みな同じく斎しく選択の大宝海に帰して、念仏成仏すべし。 ここをもって「論註」に曰く、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえに」とのたまえり。“ 不回向の行:  念仏は如来から回向されたもので、凡夫が自力によって修して功徳を悟りのためにさしむけて往生を願うという自力の行ではありません。 大小の聖人:  大乗の聖者と小乗の聖者 重軽の悪人:  罪の重い悪人と罪の軽い悪人 選択の大宝海: 阿弥陀如来が選択し成就された名号のこと。この名号には一切の功徳、利益が納まっているので大宝海と言います。 正覚浄華の化生:阿弥陀如来のさとりから生じたもの 南無阿弥陀仏の名号は不回向の行であり、念仏は自力の造作でなく、自力を捨てて他力に帰することが、経:論:釈の一貫した本義であります。 如来回向の大行によって衆生は浄土に往生するから、大行は如来からの回向のもので、衆生はまったく不回向のものであり、ゆえに衆生が自力によって修した功徳をさとりに振り向けて往生を願ってもそれは自力の行にもなりえないのであります。不回向の行といわれるわけであります。 「正像末和讃」第38首には“真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらわれる” “しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆえに、これを「歓喜地」と名づく。これを初果に喩えることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と日う。ここをもって竜樹大士は「即時入必定」(易行品)と日えり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註)と云えり。仰いでこれを憑むべし。専らこれを行ずべきなり。” 真実の行信:  念仏のこと、名号のこと、名号には信を具しているので行信 二十九有:   迷いの世界 即時入必定:   現世正定聚 “良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずば所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。かるがゆえに宗師は、「光明名号をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむ」(礼讃)と言えり。また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)と云えり。また「真宗遇いがたし」(散善義)と云えるをや、知るべし、と。 徳号の慈父:  名号のはたらき慈父 光明の悲母:  光明のはたらきの慈母 信心の業識:  名号の因と光明の縁とが和合して信心が生じ信心が内因となって光明名号が外縁となって報土に生まれる。 報土の真身:  弥陀の浄土には真実の報土と方便の化土があるが念仏の行者は報土に生まれて阿弥陀如来と等しいさとりをひらく身となるということ 宗師:     ここでは善導のこと、「往生礼讃」から引用されているため 衆生が浄土に往生するには二つの因縁があります。初重は如来の光明と名号との因縁によって往生することを示し、後重は如来の光明:名号と衆生の信心との因縁によって往生することを示しています。親鸞は両重の因縁を説いて絶対他力を明らかにし、回向と摂取の因縁によって往生即成仏の証果が獲られんと説いております。 “おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。行の一念と言うは、いわく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開する。” 選択易行の至極:  称えやすい称名の行、易行の至極、易行の極致は行の一念 おおよそ往相回向の行信について考えるのに、行には行の一行があり、また信には信の一念があります。その行の一念というのは、名号を称える称名の最初の一声に選択本願の他力至極の法の働きがあります。ゆえに「大経」には、世尊が弥勒におおせられるには、もし、かの仏の名号のいわれで開いて歓喜踊躍してわずか一声でも称えれば、この人は大利を得、無上の功徳を身につけることが出来ます。善導は下至一念、一声一念、専心専念をいっています。智昇は深心は真実の信心のことを、我が身の煩悩具足であり、善根少なく、三界に流転して、迷いの世界を出ずることが出来ない凡夫と信知して、一声の称名に至るまで疑いの心がないことを、これを深人というのであります。 “「経」に「乃至」と言い、「釈」に「下至」と日えり。「乃」「下」その言異なりと言えども、その意、これ一なり。また「乃至」とは、一多包容の言なり。「大利」と言うは、小利に対せる言なり。「無上」と言うは、有上に対せる言なり。信に知りぬ。大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなわちこれ八万四千の仮門なり。「釈」(散善義)に「専心」と云えるは、すなわち一心なり。二心なきことを形すなり。「専念」と云えるは、すなわち一行なり。二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすんわちこれ一声なり、一声すなわち一念なり、一念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行なり、正行すなわちこれ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。” 「大経」の乃至と善導の釈の下至はことばは異なっていますが、その意味は一つであります。乃至というのは一声も多声も包容し、大利無上は本願一乗の真実法の利益のことで、小利有上は自力聖道門の八万四千の方便のことであり、善導の釈に専心は一心であり、疑心のないこと、専念とは念仏一行でもかの行をならべないことを言ったものであり、大経の弥勒の付属の文の一念とは一声の称名でこれまた一念のことであります。一念は一行であり、正行は正業であり、正念、それは念仏、南無阿弥陀仏の名号に他ならないのであります。行一念の問題でありますが、本願成就文の一念を信一念とし、弥勒付属の一念を行の一念としている重要な問題が残っていますがここでは教行信証の信の巻きで再び取り上げることにいたします。 “しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり。ちるべし、と。” 大般涅槃:   煩悩を滅し、生死の迷いの海を度すること、佛果のさとり 普賢の徳:   菩薩が慈悲をもってあまねく一切の衆生を済度する利他のはたらき 「安楽集」を引いて一念と多念とは同一であり、よく念仏を相続して、もしほかの事に心を向けなければ、往生の業因が完成してその証果をうることが定まります。 “これすなわち真実の行を著わす明証なり。誠に知りぬ。選択摂取の本願、超世稀有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり。知るべしと。” ここまでいろいろな経:論:釈を引用して、浄土真実の行を明らかにしてきましたが、それらはまさしくそれを示す証文であります。阿弥陀如来が特に選びとられた本願(名号)、世を超えてすぐれたまれな大行、一切の功徳が溶け込んでいる真妙な正法、なにものにも碍えられない至極の大行、上の四つの大行の四徳を誠に知るべしてす。 “他力と言うは、如来の本願力なり。” 曇鸞の「浄土論註」を引いて他力を明らかにます。本願力というのは法蔵菩薩がさとりの中で、種々の身、種々の神通、衆生の説法をして衆生を救うために願心を起こしました。法蔵菩薩は四種の門に入って、自利の行を成就して、それをなした自利によって利他をすることが出来るようになりました。第五の回向門において功徳を回向される利他の行を成就されました。それら全ては衆生利益でないものはなかったのです。自利することで利他をすることが出来、利他することによって自利がなり、法蔵菩薩はこのようにして五念の因行を修して自利利他を満足し、阿耨多羅三脈藐三菩提を成就されたのであります。仏のさとられた法を阿耨多羅三脈藐三菩提といい、このさとりを得られたというので仏といいます。阿耨多羅三脈藐三菩とは無上正偏動と訳しております。どういうわけで「浄土論」に、阿耨多羅三脈藐三菩提を成就したまえりというのかと問うて、法蔵菩薩は五念の行を修して自利利他を成就した故であると答えています。衆生が佛果を得るその根本を明らかにして、推し量ってみれば阿弥陀仏のすぐれた因縁となってくださったからであります。他利と利他とはその表現の ことばに相違があります。仏の方からでは利他であるべきで、いまは仏力をいうのですから利他といわれたのであります。衆生からして言えば他利ということになります。衆生が浄土に生まれ、そこで聖衆が起こす諸行も、みな阿弥陀仏の本願力によるものであります。もし仏力によるものでなかったなら、48願いたずらに設けられたのでしょうか。第18願に仏の願力によるからただ念仏して往生が得ることが出来、往生を得るから三界に流転しなく、速やかに仏のさとりを得ることが出来るのであります。第22願は仏の願力によるから常なみに超え、諸地の行も現れ普賢の徳を修めることが出来るので速やかに仏のさとりが得ることが出来るのであります。こいうわけで、如来の本願力すなわち他力のすぐれた因縁であるということがわかります。   高僧和讃の曇鸞讃に “論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには 煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたまう”。   例を引いて自力と他力の相を示しますと、自力は禅定を修して神通力を得て四天下に遊びますが、他力は劣天の驢馬に乗って空を駆け巡ることは出来ないが、転輪王の行くに従えば虚空に乗じて四天下に遊ぶことが出来ます。後の世の学者は他力にお任せなさい、決して自力の計らいにこだわってはいけませんと、述べました。  元照津師の「観経義疏」から引用して、この娑婆世界で迷いを断ち切って真理をさとるには自力が必要、また他方の浄土行って法をひらきさとりを開くにはどうしても他力が必要でありますと説かれていますが、これらがいずれもちがっていても、如来の方便でないものはありません。いずれにしても、われわれ自身にさとりを開かせるためのものに外なりません。 正像末和讃の54首と57首には、“聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして 他力の不思議にいりぬれば 義なき義とすと信知せり”  “他力の信心うるひとを うやまひおほきによろこべば すなわちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまう” “「一乗海」と言うは、「一乗」は大乗なり。大乗は佛乗なり。一乗を得るは、阿耨多羅三脈藐三菩提をえるなり。阿耨菩薩はすなわちこれ涅槃界なり。涅槃界すなわちこれ究竟法身なり。究竟法身を得るは、すなわち一乗究竟をするなり。如来に異なることましまさず。法身に異なることましまさず。如来はすなわち法身なり。一乗究竟をするは、すなわちこれ無辺不断なり。大乗は、二乗:三乗あることなし。二乗:三乗は、一乗にはいらしめんとなり。一乗はすなわち第一義乗なり。ただこれ、誓願一佛乗なり。” 一乗海:  乗物、すべてのものが仏になるという唯一絶対の教え、その深さを海に喩え 大乗:   自利利他を説く仏、 菩薩の教え 第一義乗: 究竟の真理を明かしたすぐれた教え 誓願一佛乗: 阿弥陀如来の第18願が仏になる唯ひとつの教えであること 一乗海を釈するに、一乗仏教が法然の選択本願念仏の中にすべての人々を平等に扱う事が具体化されていることを領解して、まず一乗海は最高の教えであって究竟の真理を明かしたすぐれた教えである、誓願の一乗佛であることを説いております。 一乗を解釈するに「涅槃経」の四文で、まず聖行品で善男、実諦名づけて大乗なり、一道清浄にして二つあることがない。又、徳王品で菩薩は一切の衆生をみな一道に、すなわち大乗に帰入させることを知っており、諸仏菩薩は衆生を導き、それ故、菩薩は一乗のみで真実である。信順に逆らうことはないと、師子吼品で一切の衆生には佛性があり、一乗の妙果を得ているのであが無明煩悩におおわれているのでこれをあらわすことが出来ないのであります。 同じく次に、一切の衆生がことごとく一乗になるかは、他に三乗を説くすなわち衆生の能力に応じて三種のさとりの道があると説く、非一、非非一と無数の法がある故に、これを改めて一乗となすのであります。 一乗を解釈するに、「華厳経」を引用して、文殊のさとった念仏三昧の法は本来不変で阿弥陀仏の法はただ一つである十方諸仏、一切の諸仏は、この一道によって迷いを出でてその一切諸仏の法身、一心、智慧、力:無畏はみな同じである。 “しかれば、これ等の覚悟は、みなもって安養浄刹の大利、佛願難思の至徳なり。「海」と言うは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙満徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩えるなり。 良に知りぬ。経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」と言えるがごとし。 願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいわんや、人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。” 真如法理の理をさとることは、安養の浄土で得られるところの利益で弥陀本願のはかり難い功徳のはたらきによるものであります。海と言うのは遠い昔のより今日まで本願の智慧と慈悲によって成就された名号の大宝海であり、大経には煩悩の氷がとけて功徳の水となるといえると説かれています。本願の海は自力雑善の屍骸を宿さないし、ましてや、人、天の虚仮にして邪偽の善業や、煩悩の心から起こす自力心の屍骸を宿すはずがありません。 「大経」を引用して如来の智慧の海は深く広くにして果てしなく二乗の人すなわち、弥陀の教えを聞いてひとり真理を観じ自分の解脱のみをはかろうとする小乗の人には、はかりしれるところではない、唯、仏のみが明らかにすることが出来ます。 「浄土論」に、不虚作住持功徳成就と言う荘厳はどういうものか、その偈に、阿弥陀仏の本願力を観るに、この法に遭って本願力を信ずるものは速やかに功徳の大宝海を得させてもらうのであると述べられています。阿弥陀如来の本願力のことで、因位における法蔵菩薩の48願と阿弥陀如来の自在の威神力とによる因本願との果上の力があいまって、くいちがうことなくて成就したのであります。   また云われています。海は浄土に往生した天人などの不動の人々は如来の清らかな智慧の海から生まれたと、それらの人々は大乗の根性を備えているので動揺することなく成就いたします。 ここで再度海を「玄義分」、 「般舟讃」、「楽邦文類」で引用して解釈しますと、真理の一言は悪業を転じて善業と成すと。と述べています。 “しかるに教について、念仏:諸善、比較対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、徑迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有情対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回向不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付嘱不嘱対、了不了対、機堪不勘対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。 この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融、満足、極速、無碍、絶対不二の教えなり。 念仏諸行比較論 念仏                    諸行                 修し易く                  修し難い さとりはやく                次第に行じて漸くさとる 横に生死を離れ               竪に向上して覚えを開く 生死を超越して               覚えを進渉する 本願に順じ                 本願に逆らう 功徳大にして                功徳小にして 功徳多くして                功徳少なくして 功徳勝れて                 功徳を劣って 佛に親しく                 佛に疎しい 佛に近く                  佛に遠い 縁に深く                  縁に浅い 本願の力うけて強く             雑善の故に弱い 本願の故に重く               自力の故に軽い 広く正:像:末の三時に通じ         狭くて末法に盆なし 純なる往生の行であり            他の道にも雑通するものであり 直径であり                 迂回路でもある 捷き道であり                遅き道である 本願の特別の法であり            一般仏教に通ずるものであり 不退転を得る                退転を免れない 浄土教に直弁し               他の教に因明する 名号を体として               定散の心をたのむ 道理を尽くし                道理を尽くさぬ 諸仏の勤め貰い               諸仏の勤めがない 憶想の心、無門なく             憶想の心、門たつ 憶念の心、不断であり            憶念の心、断つ 相続し得る                 相続し得ない 功徳無上あり                功徳有情であり 念仏者を上上人と称する           諸善の行者は下下人と嫌われる 不思議の法であり              思議し得るものであり 佛の果徳を具え               佛道の因行。 佛の直接であり               弟子などの他説 不回向の法であり              回向せねばならぬもの 諸仏護念したまい              諸仏の護念なし 諸仏の証誠したまい             諸仏の証誠なし 諸仏称讃したまう              諸仏の称讃なし 経にこれを付属せられ            経にこれを付属なし 了義の教え                 不了義の教え 時、機に堪えたる行             時、機に不堪なるもの 法蔵選択の行                選捨されて不選行である これ真宗であり               これ仮門であり 常に弥陀の不滅を見て            時に弥陀の滅を見る 法滅のときも不滅であり           時きたればそれ法滅する 大利あり                  不利である 他力による                 自力による 本願あり                  本願なし 光明に摂取され               光明に不摂 入定聚し                  定聚の数に不入 真実報土に生まれ              方便化土に生まれる 念仏の法の絶対価値である、本願の一乗海は功徳を円融して満足し、さとりは極速、 無碍、絶対不二の教えであります。 “また、機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賎対、明闇対あり。この義かくのごとし。しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり。知るべし。” 教えを受ける機について念仏と諸善とを比較しますと 念仏の機                  緒善の機               佛智を信じ                 佛智を疑う 依るところ善あり              雑毒の故に悪である 正しき道あり                邪まにあるもの 是人といわれ                是人といわれない 実を体し                  虚しく行う 真に徹し                  邪偽である 清浄の心を得                穢心がさらない 利根であり                 鈍根である 直心の故に促く               遅慮の故に奢い 功徳の実に豪み               功徳の実に賎しい 智慧明らかであり              心闇きものである 本願の一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機の教えであります。 “敬いて一切往生人等に日さく、弘誓一乗海は、無碍、無辺、最勝、深妙、不可説、不可称、不可思議の至徳を成就したまえり。何をもってゆえに、誓願不可思議なるがゆえに。悲願は、たとえば、太虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆえに。なお大車のごとし、あまねくよくもろもろの凡聖を運載するがゆえに。なお妙蓮華のごとし、一切の世間の法に染せられざるがゆえに。善見薬王のごとし、よく一切の煩悩の病を破するがゆえに。なお利剣のごとし、よく一切の憍慢の鎧を断つがゆえに。勇蒋幢のごとし、よく一切諸魔軍を伏するがゆえに。なお利鋸のごとし、よく一切無明の樹を裁るがゆえに。なお利斧のごとし、よく一切諸苦の枝を伐るがゆえに。善知識のごとし、一切生死の縛を解くがゆえに。なお導師のごとし、善く凡夫出要の道を知らしむがゆえに。なお涌泉のごとし、智慧の水を出だして窮尽なきがゆえに。なお蓮華のごとし、一切もろもろの罪垢に染せられざるがゆえに。なお疾風のごとし、よく一切諸障の霧を散ずるがゆえに。なお好蜜のごとし、一切功徳の味を円満せるがゆえに。なお正道のごとし、もろもろの群生をして智城に入らしむるがゆえに。なお磁石のごとし、本願の因を吸うがゆえに。閻浮檀金のごとし、一切有為の善を映奪するがゆえに。なお伏蔵のごとし、よく一切諸仏の法を摂するがゆえに。なろ大地のごとし、三世十方一切如来出生するがゆえに。日輪の光のごとし、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するがゆえに。なお君主のごとし、一切上乗人に勝出せるがゆえに。なお厳父のごとし、一切もろもろの凡聖を訓導するがゆえに。なお悲母のごとし、一切凡聖の報土真実の因を長生きするがゆえに。なお乳母のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまうがゆえに。なお大地のごとし、よく一切の往生を持つがゆえに。なお大水のごとし、よく一切煩悩の垢を漱ぐがゆえに。なお大火のごとし、よく一切諸見の薪を焼くがゆえに。なお大風のごとし、あまねく世間に行ぜしめて碍うるところなきがゆえに。よく三有撃縛の城出で、よく二十五有の門を閉ざす。よく真実報土を得しめ、よく邪正の道を弁ず。よく愚痴海を竭かして、よく願海に流入せしむ。一切智船に乗ぜしめて、もろもろの群生海に浮かぶ。福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ。良に奉持すべし、特に頂戴すべきなり。 善見薬王:   薬樹の王であるのでそこから、弥陀の本願をこれに喩えた 閻浮檀金:   閻浮樹の下を流れる川の沙金 伏蔵:     地下に埋蔵されている宝、ここでは名号のこと 二十五有:   迷いの世界の総称 福智蔵:    福徳と智慧を完全に備えた教え、大経、第18願のこと 方便蔵:    福智蔵にいたるための方便の教え、観経、第17願 敬って往生を願う一切の人々に、本願に誓われた名号すなわち、一乗海について喩えをあげて親鸞は説き、弥陀の本願は、一切の人々を三界の迷いの城から救い出して、二十五有という迷いの門を閉ざし、真実の報土に往生するようにされ、よく道の正邪の見分けをつけさせられ、よく愚痴をなくして本願海に入らしめられるのであります。ひとたび浄土に往生すれば、一切智のさとりの船に乗って迷いの海に現れられ、福徳と智慧を円満にして、方便の法を説いて衆生を化益されるのであります。誠にあおぐべきであり、いただくべきであります。 “おおよそ誓願について、真実の行信有り、また方便の行信有り。その真実の行願は、諸仏称名の願なり。その真実の信願は、至心信楽の願なり。これすなわち選択本願の行信なり。その機は、すなわち一切善悪大小凡愚なり。往生は、すなわち難思議往生なり。佛土は、すなわち報佛報土なり。これすなわち誓願不可思議、一実真如海なり。「大無量寿経」の宗致、他力真宗の正意なり。 ここもって知恩報徳もために宗師(曇鸞)の釈を披きたるにいわく、 それ菩薩は佛に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静己にあらず、出没必ず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず。理宜しくまず啓すべし。また所願軽からず、もし如来、威神を加したまわずは将になにをもってか達せんとする。神力を乞加す、このゆえに仰いで告ぐ、と。 しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、佛恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、 「正信念仏偈」を述べるに先立ってまずその大要を記しておきます。 およそ弥陀の誓願には、真実の行信と方便の行信とがあります。その真実の行を誓われたものが第17願の諸仏称名の願であり、その真実の信を誓われたのが第18願の至心信楽の願であります。これがすなわち選択行信であります。その救われる本願の対象は、一切の善悪大小の凡愚であり、またその往生は難思議往生であります。また佛土は報佛報土であり、これがはかりがたい弥陀の誓願の不思議であり、真如法性にかなった一乗海で、それが大経に説かれている宗致であります。他力の本意を開顕した浄土真宗の教えであります。 ゆえに、弥陀の誓願を示した大聖釈尊の真の教えに帰依し、また三国七祖の論:釈をひも解いて、佛恩の深遠なることを信知して: 正信念仏偈を作って讃えます。 正信念仏偈: 無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。 法蔵菩薩の因位の時、世自在王佛の所にましまして、 諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を都見して、 無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発し。 五劫、これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。 あまねく、無量:無辺光、無碍:無対:光炎王、 清浄:歓喜:智慧光、不断:難思:無称光、 超日月光を放って、塵刹を照らす。一切の群生、光照を豪る。 本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。 等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就うなり。 如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり。 五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。 よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。 凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし。 摂取の心光、常に照護したまう。すでに無明の闇を破すといえども、 貪愛:瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。 たとえば、日光の雲霧に覆われども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。 信を護れば見て敬い大きに慶喜せん、すなわち横に五悪趣を超絶す。 一切の善悪凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、 佛、広大勝解の者と言えり。この人を分陀利華と名づく。 弥陀佛の本願念仏は、邪見憍慢の悪衆生、 信楽受持をすること、はなはだもって難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし。 印度:西天の論家、中夏:日域の高僧、 大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす。 釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまわく、 南天笠に、竜樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を摧破せん。 大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と。 難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。 弥陀佛の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る。 ただよく、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり。 天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。 修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。 広く本願力の回向によって、群生を度せんがために、一心を彰す。 功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲る。 蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。 煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す、といえり。 本師曇鸞は梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる。 三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を梵焼して楽邦に帰したまいき。 天親菩薩の「論」、註解して、報土の因果、誓願に顕す。 往:還の回向は他力に由る、正定の因はただ信じんなり 惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。 必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。 道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。 万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。 三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅、同じく悲引す。 一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむと、いえり。 善導独り、仏の正意を明かせり。定散と逆悪とを矜哀して、 光明名号、因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、 行者、正しく金剛心を受けしめ、 慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむ、といえり。 源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。 専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。 極重の悪人は、ただ仏を称すべし。我また、かの摂取の中にあれども、 煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえとも、 大悲ものうきことなく、常に我を照らしたまう、といえり。 本師:源空は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫を憐愍せしむ。 真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。 生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。 速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。 弘経の大士:宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう。 道俗時衆、共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべし、と。 六十行、すでに終わりぬ。畢りぬ。百二十句なり。 連如の「正信偈大意」を参考にして訳しますと。 * 弥陀如来に帰命し、智慧の光明の徳すぐれたるに南無したてまつる。 * 弥陀如来が法蔵菩薩の因位のとき、むかしの師匠の世自在王佛の所へ行って二百十      億の諸仏の浄土の中の善悪を観察してよきを選らんで、我が浄土としますと誓い。 * 諸仏の浄土を選びとり、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘ともうしておった時、西方極楽の殊勝の浄土を建立しようと横超の大誓願をいたし。 * 思惟して、十悪五逆の罪人、五障三従の女人も、もらさずみなみちびきて、浄土に往生せんと誓い。 * 阿弥陀如来が仏道になろうとしているまさにそのとき、名声十方に聞こえなければ、正覚をとらないと誓い。 * 無量より超日月光までのこれ等、十二光佛はあまねく八方上下をてらして、障碍するところなく、そうであるから、日月をこえて、十方微塵世界をてらして衆生を利益し。 * あらゆる衆生宿善あればみな光照の利益にあずかるため。 * 十方の諸仏に我が名をほめられんと誓い、第17願の誓いはすでにその本願名号の成就の業:行体であり。 * 第18願の真実の信心を獲れば、本願成就し、すなわち正定聚に住み、そのうえに。 * 等正覚に至り大涅槃を証することは第11願の必至滅度の願を成就するがゆえで。 * 釈尊出世の元意はただ弥陀の本願を説くためなり。 * 五濁悪世界の衆生、一向に弥陀の本願を信じなさい。 * 一念歓喜の信心は、不思議の願力により、我が身は煩悩であるまま、佛の側より涅槃に至らしめ下さる。 * 凡夫も聖人も五逆も謗法も、ひとしく大海に回入すれば、もろもろの水が、海にはいって一味となるがごとし。 * 弥陀如来の念仏の衆生を摂取してくださるその光は、つねに照らしてくださり、すでによく無明の闇を破っている。 * 貪愛と瞋憎とが雲:霧のごとく真実信心の天に覆われていても。 * たとえば、日光が雲:霧に覆われていて隠れていても、その下は、日の光は明るく闇が無いのと同じである。 * 法を開いて、わすれずに、おおいによろこび、すなわち、よこさまに地獄:餓鬼:畜生:修羅:人天の絆を切る。 * 一切の善人も悪人も如来の本願を聞信すれば。 * 釈尊はこの人を広大勝解のひとなりといい、分陀利華にたとえて上上人なり、希有人とほめたてえる。 * 弥陀如来の本願の念仏を、邪見のものとし、憍慢のものとすれば、悪人衆生には、 * 真実に信楽したまわること、はなはだ難しく、難中の難、これ以上のことはない。 * インド、中国、日本のこの三国の祖師は、念仏の一行を勧め。 * ことに釈尊出世の本懐はただ弥陀の本願をあまねく説き顕して、末世の凡夫の機に応じたることを明らかにした。 * 釈尊は「楞伽経」で滅後600年に竜樹という釈尊の精神を受け継ぎ広める者が表れるに違いないと願いを表明した。 * そしてインドに釈尊の精神を受け継いだ竜樹がこの世に出でて、よく有無の邪見を見通して。 * 大乗無上の法をあらわして、歓喜地を得て安楽国に往生すると説かれた。 * 難行道は陸地の道を歩むがごとく苦しく修し難いが、易行道は水の上の船に乗って行くがごとく楽しくて修し易い。 * 本願力の不思議を憶念する人はおのずから必定に入る。 * 真実の信心を獲得せんとする人は、常にただいつも如来の名号を称え、大悲弘誓の恩徳を報じたまえ。 * 釈尊滅後900年に世に出た天親菩薩は「浄土論」を造って、もっぱら無碍光如来に帰命したてまつられ。 * 大乗経によって真実を顕し、その真実は念仏であり、横超の大誓願をひらいて。 * 本願の回向によって群生を済度するために、自らも一心に無碍光如来に帰命して、同じく衆生にも一心に帰命せよと勧めた。 * よろずの衆生をきらわず、さわりなく、へだてなく導きて大海に入れば、功徳の宝海となり、かならず大会の数にいるべきことができ。 * かの土にいたれば安養界のなかに入り、すみやかに真如法性の身を得ることを証する。 * 還相回向のこころとなり、弥陀の浄土に行けば、すみやかにまた娑婆の世界にたち還り神通自在の力をもってこころにまかせて衆生を利益せしめることである。 * 本師曇鸞は梁国の天子で四論に通じ、その信仰のおわせしかたに常に向かいて曇鸞ですと丁重に礼拝して。 * その曇鸞が仙経を持って帰る途中、洛陽においてはからずも菩提流支三蔵に出会い、自分の誤りを指摘され、「観無量寿経」をさずけられ、仙経の十巻をたちまち焼き捨てて、浄土の教えに帰した。 * 曇鸞は天親菩薩の「浄土論」に註解をつけ、くわしく極楽の因果一々の誓願をあらわし。 * 往相:還相の回向は凡夫としては起こされるものでなく、ことごとく如来の他力より起こらしめられ、正定の因は信心を起こらしめるものである。 * 一念の信おこれば、いかなる惑染の機なりというも、不可思議の法なるゆえに生死すなわち涅槃なりと証知し。 * 必ず無量光明土に至れば、かの土より、穢土にたちかえり、あらゆる有情を化すという. * 道綽は聖道が難行で、浄土が易行なるゆえに、ただ凡夫は浄土の一門のみ通入すべき道であることを明らかにし、 * 万善は自力の行なるゆえに、末代の機には修行すること難しく、円満の徳号は他力の行なるゆえに、末代の機に相応している。 * 道綽の「安楽集」は三不三信:如来の教えの不淳心、自分の立場をさしはさんで不一心、信心を保つに不相続心、をねんごろに教え、像法末法同じく法滅して衆生をあわれみになり。 * 弥陀の弘誓にあうことにより、一生悪をつくる機も本願の不思議によりって安養界にいたれば、すみやかに無上の妙果を証する。 * 浄土門の祖師その数これおおしといえども、善導にかぎりひとり佛証をしめし、誤りなく仏の正意をあかされた、定善の機、散善の機、五逆の機をも、もらさずあわれみになり。 * 弥陀如来の48願のなかの第12願を成就して、あまねく無碍の光をもって十方微塵世界を照らして、ようやく無明の昏闇うすくなって、宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生まれるべき第18願の念仏往生の願因の名号を聞く、名号執持すること自力でなく、ひとえに光明によりて、この縁によりて名号の因があらわれ本願の大海に入ば、真実の金剛心を受けてさしてもえることになる。 * 一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまれば、韋提希夫人にひとしく、信心歓喜、佛智をさとり、信心成就の得益の三忍を獲て真実信心を具足した人は、すなわちみな、法性の常楽を証するものである。 * 源信が釈尊一代の教えを開いて、もっぱら念仏を選んで一切の衆生を西方の浄土に往生をすすめられ。 * 雑業雑修の機をすてられない執心のある人は必ず化土に往生し、専修正行になりきる執心ある人は必ず報土極楽に往生し、 専雑ニ修の浅深を判じることが出来る。 * 極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に往生することを獲なさい。 * 真実信心を得た人は、身は娑婆にあっても、煩悩のこころをおさえて、かの摂中の光明の中にあり。 * 弥陀如来はものうきことなく、常にわが身を照らしてくださる。 * 日本の念仏の祖師、法然聖人のごとく、一天にあまねく仰ぎ見られた人はいない、これすなわち仏教を明らかにして、われら善悪の凡夫をあわれみて、浄土に住することを勧められた。 * かの法然聖人ははじめて日本に浄土真宗をたてられ、また、「選択本願集」という文を作られ、悪世にあまねく広められた。 * 生死輪転、すなわち六道輪回の家に還ることは、疑情が有る事によるもので、 * 寂静無為の浄土へいたるには、必ず信心が有る事によって、能入することができる。 * 弘経大士、すなわちインド、中国、日本の宗師等、未来無辺極濁悪の我らをあわれみ救わんと出生したのであり。 * しかれば念仏の道俗等あまねくかの三国の高僧の説を信じることであり、そうすればわれらが真実の報土の往生をおしえること、それらはこれ等の祖師の恩徳に預からないことはない、すべてよくよくその恩徳を報謝しなければならない。 第5章    信の巻 顕浄土真実信文類序  “それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願信より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。しかるに末代の道俗:近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家:釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を豪りて、特に一心の華文を開く。しばらく疑問を至してついに明証を出だす。誠に佛恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。浄邦を欣う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を加うといえども、毀謗を生ずることなかれ、と。” 信楽:   第18願の至心、信楽、欲生、の三心を合わした一心、弥陀の本願を信ずること、信心には喜びが伴うので信楽という。 真心:   阿弥陀仏が与えられる清浄にして真実である信心。 矜哀の善巧:衆生を深く哀れみたまう釈尊の巧みな救いの方法。 自性、唯心:自性の弥陀、自性を離れて別に弥陀はない、唯心の浄土といい、われわれの心が清められたところが浄土であります、われわれの心をはなれてほかに浄土はないという思想。 定散の自心:定散には、定善(心を静かにして浄土を観する)と散善(普通の心で仏道 を修行する)と二つあり、どちらもいろいろな自力の行を云う。 諸仏如来の真説:  諸仏は十方三世の諸仏、如来とは釈尊のことを指しております、その真説はここでは三部経のこと。 一心の華文:    天親菩薩の「浄土論」をたたえた言葉。  信心は他力回向のもので、それはまったく弥陀、釈尊の二尊の大悲によるものであり、それが自力の迷執に陥っている末代の道俗:近世宗師を悲嘆し、ここに信の巻き別開する著述の意図と理由を述べております。信心を獲得するということは、阿弥陀如来の大悲によって起こされて頂たくものであり、この真実の信心が開けたということは釈尊の哀れみ深い導きによるものであります。しかしながら、末の世の出家も在家も各宗の師たちも、自性唯心にふけり、聖道の教えにこだわり西方浄土の真証をけなし、定散自力の心に迷うって他力の信心を頂こうとしないでいます。ここに親鸞は釈尊の真実の教えに従い七高僧の宗義をうかがい、広く三部経の教説を頂き特に天親菩薩の「浄土論」を開いて、こころみに疑問を呈して遂にその明証を引き出したいものであります。誠に佛恩の深いことをおもい人々のあざけりを恥じることもいとわず、浄土を願う人々も、この娑婆をいとわしくおもう人々も、これを読んで取り上げても、捨ててもよろしいが、謗るようなことはしないでください。  当時仏教界は教、行、証、の三法を用いておりましたので教行証文類としていましたが、 親鸞は末代の時代に入っていますので、信心正因論すなわち信心往生論を主張されておりました。これは、師:法然の念仏往生論を一歩先に進めており、教、行、信,証、の四部門を開示しております(第2編第1章の終わりを参照されたし)。それは唯心正因の義を高調することに最大の理由があります。もうひとつには、すでに当時法然門下における弟子の間に行信の捉え方に差異が生じていることが、親鸞にとって気になったことでありました。  法然の弟子:弁長の如く念仏の行が諸行と対等する位置にあるまで引き上げられたり、長西のように諸行を本願と認めたりする傾向が出てきたことであります。行信一体を説いていてもすでに法然の弟子の間にまで違いが出てきたことに、親鸞は真実信が重要な往生決定の要因であることを示し、信の巻きを行の巻きより切り離し、独立させて信の回向の構造を明らかにするため別巻で説き示すことにしました。  末法の時代、いま、“道俗:近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し”という歴史的状況を押さえて、この時にあらためて信の巻きの序と記すことにより、親鸞の信仰の中核をなす「信」の重要性を強調し、その歴史的意義を新たに示すために書き添えたものとおもわれます。  至心信楽之願  正定聚之機  親鸞は48願の中の第18願を「至心信楽の願」、または「往相信心の願」と名づけて、信心の成就を誓う願として領解しています。第18願に誓われた至心:信楽:欲生の三信は往生の正因である信心を三つとしたものでありますが、 本願のいわれを疑いなく聞いて信ずる心を信楽といい、これはまた如来の真実心によって与えられたものであるから至心といい、また信心はさらに浄土に生まれたいと願う心あるから欲生というのであります。本願の三信は疑いの挟む余地のない真実心でありますから、それは信楽一心に納まってゆくものであります。 “十方の衆生に心を至して信楽して我が国に生まれんと欲せ”と真実の信心を発することを喚びかける願であります。真実信心を発し得ない衆生に対する如来の喚びかけは、如来がみずからが衆生になって真実信心を開こうとする誓願であることを、親鸞みずからの獲信を通して尋ねあて、このように衆生に信心を成就する為に、衆生の迷いの中にみずからを没して法蔵菩薩がその因位の時に誓願を発したことに親鸞はみずから信心の根源を発見したわけであります。 真宗における救済の根源はまったくこの他力回向と金剛の信心、能信の信を明らかにすることでありました。 天親は「浄土論」の冒頭に“世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず”と表して「一心帰命の信」を表白いたしました。 親鸞は「尊号真像銘文」において“一心というは教主:世尊の御ことのりを二心なく、疑い成しとなり。” 「唯信銘文意」の冒頭において“「唯」は、ただこのことひとつという、ふたつならぶことをきらうことばなり。また「唯」は、ひとりということなり。「信」は、うたがいなきこころなり。すなわちこれ真実の信心なり。” 「浄土和讃」の大経讃にも“至心信楽欲生と十方諸有をすすめてぞ 不思議の誓願あらわして 真実報土の因とする”    ここに信巻のはじめに至心信楽の願と表示したことは他力回向の信心、信心正因の基調を端的に表示するために記したことになります。 正定聚の機とは第18願の他力の機で現生において正定聚の位に入るということで、信心獲得の即時に正定聚の機になることです。真実の行信を獲た人が如来の真実に生かされた人生を生きていくこと、これは直ちにこの世で正定聚の身となり如来の無碍光に照らされる人生と捉えるならば、まさにこれはこの世における往生というべきであり、不退の身となり、命終わりしだいに浄土に往生し直ちに滅度をさとるということ、これが親鸞の言っている現生正定聚であります。 「未燈鈔」に“真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終を待つことなし、来迎たのむことなし、信心の定まるとき、往生また定まるなり” 「浄土三経往生文類」に“大経往生というは、如来選択の本願、不可思議の願海、これ他力ともうすなり。これすなわち念仏往生の願因によりて、かならず報土にいたる。” 「浄土和讃」の大経讃には“真実信心うる人は すなわち定聚のかずにいる 不退の位にいりぬれば かならず滅度にいたらしむ” 「正像末和讃」の三時讃にも“真実信心うるゆえに すなわち正定聚にいりぬれば 補処の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり” 顕浄土真実信文類三  “謹んで往生の回向を案ずるに、大信有り。  大信心はすなわちこれ、長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心,希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく。また本願三心の願と名づく。また至心信楽の願と名づく。また往相信心の願と名づくべきなり。  しかるに常没の凡愚:流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず。真実の信楽実に獲ること難し。何をもってゆえに。いまし如来の加威力に由るがゆえなり。博く大悲広慧の力に由るがゆえなり。  たまたま浄信を獲れば、この心顚倒せず、この心虚偽ならず。ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。  至心信楽の本願の文 念仏往生の願:  第18願のこと、称名念仏の称名のこと 選択本願:    法蔵菩薩が衆生往生の業因である名号を成就するに、善きを取り悪しきを捨てて選択した願 本願三信の願:  至心、信楽、欲生を誓われた、三心を誓われた願 大悲広慧:    如来の大悲からおこされる広大な智慧 大慶喜心:    信心を得れば往生安堵し喜ぶ心  他力回向の大信を明らかにして、その大信の徳を嘆じ、それが第18願からくるものであり、大信は得がたいものであるが、その浄信を得れば、その利得は明らかになることを示しています。  往生の回向を伺うに、この中に大信があり、 * 長生きして死ぬことを知らない不思議なはたらき * 浄土を願い娑婆をいとう不思議な術 * 如来が選んで回向された正直の信心 * 他力の回向の深広の信楽 * 金剛のように砕けることのない真実の心 * 浄土に往き易いが自力では往き難い清浄の信心 * 如来の光明におさめ護られる一心 * まれにして最もすぐれた大信 * 世間なみの考えでは信じられない法 * 大涅槃のさとりをひらく真実の正因 * 速やかに佛果をさとる清らかな白道 * 真如一実の道理にかなった信心の徳をもっているもの これ等の信心は第18願からあらわれたものであり、この大願を *  念仏往生の願 *  選択本願 *  本願三信の願 (至心、信楽、欲生、) *  至心信楽の願 *  往相信心の願              とも言っています。 迷いの海に沈没している、生死の海に漂っている衆生にとって、無上の佛果を獲ることは難しく、その正因となる真実の信楽実心を獲ることが難しい、その如来の大きな加威力と限りない智慧と慈悲の力により、その浄信を獲れば、信心は法性の理にかなって顚倒も虚偽にもならず、極悪深重の衆生でも、信心を得て往生安堵の位に就き大慶喜の心得て、多くの尊者たちから重愛され愛護される身となります。 「大無量寿経」の願文は第18願の文を引用して大信を示し、それを「無量寿如来会』の第18願を引いて助顕としていますが、最後に「大無量寿経」の成就の文を引いて本願の三心は一心に収まるところを示しました。 “諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。 かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをばのぞく、と。” あらゆる人々が、その名号のいわれを聞いて信心歓喜するとき、その一念の信心は仏の真実心から与えられたものであるから、浄土に生まれたいと願えば、たちどころに往生することの出来る身に定まり、そのまま不退転の位に住するのであります。 この第18願の成就文は真宗教義の根幹を成すものであります。(第1篇第3章(4)「大無量寿経」第18願成就文の親鸞の解釈を参照してください) 親鸞は諸有衆生を如来の救済の対象を一切の衆生、その根本は親鸞を含めた凡夫のための教え、如来の本願はひとえにこの凡夫である私ひとりのための本願にほかならないと自己の却下の問題として捉え、「歎異抄」に“弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり、されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。”と唯円につねづねかたっておりました。 その名号を聞きては第17願のことで第18願の念仏往生の本願を諸仏が讃嘆しているのを聞いて信心歓喜し、その一念の信心することが如来より諸有衆生に回向がせしめられるということ、第17願と第18願の行と信とが一体不二になっていることを明らかにしています。 聞と信、とが一体不二であることを明らかにしています。 親鸞は「一念多念文意」に“「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききて疑うこころなきを「聞」というなり。また、きくというは信心をあらわす御のりなり。” 信心というものは如来から頂くもので、それは凡夫が自身でおこすところのものでありません。すなわち他力回向であり如来が第18願で誓われた至心:信楽:欲生の三信を一つの信楽に入れ込んで回向したものであります。 曇鸞の「浄土論註」下巻の讃嘆門のところにある文で、名義に相応するわれわれの行としての“かく無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満たまう”と説いています。しかし、曇鸞はわれわれの確かな回心を促すため“称名憶仏あれども、無明なお在して所感を満てざるいかん”という問いをたて、名号を称えてもわれわれの無明は離れず願いも満たされないのはなぜか、と。“実のごとく修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。”と答えています。われわれが真如そのもののはたらき名号とたまわれていることを知らないで、その二不知と信心不淳、信心不一、信心不相続という三不信とにわざわいされて、如実終業の信心によってなされていない又、名義不相応のために、すなわち、われわれの信心が「世尊我一心」という純粋な信心とはなっていないわけであります。これに反して、淳:一:相続の信心があれば称名はおのずと如実に相応し修行となります。と曇鸞は「我一心」と表白されております。 曇鸞の「讃阿弥陀仏偈」の文にあらゆる人が弥陀の功徳の名号を聞きて信心歓喜して如来の回向してくださる浄土に生まれんと願うものはすべてみな浄土に往生することが出来ますと。  次に善導大師は、釈五文でまず、「定善義」を引用して大信が如来の回向によることを示しています。  如意ということには二種の意味があり、衆生の意のごとく、阿弥陀仏の意のごとく、仏には五眼、六通、三輪を備わって一念のうちに前後の隔てなく衆生のところへ行って救いたまうこと。 「序分義」で五濁:五苦:六通輪廻の衆生に通じて受けないものはない。すべてこれ等に悩まされ、これ等の苦しみを受けないものは凡夫の数には入らないこと。  「散善義」の文を引用して大信とはどういうものであるか「観経」の三心をもって示されています。その本願の三心、至誠心、深心、回向発願心、を釈尊は説いて衆生の機に随いて益を顕したがその佛意を知ることが出来ないので、釈尊自ら三心の数をかぞえて答えられ、衆生がその身口意の三業に修するところの行業は如来の施した真実を須(もち)いて往生を願ってこそ真実といわれる。すなわち如来利他の真実であるということであります。親鸞は釈文の訓点を読み替えられて、一般的には“一切の衆生の身に意業の所修の解行は必ず須(すべか)らく真実心の中に作くすべきことを明かさんと欲す”と読むところを“一切衆生の身口意業の所修の解行、必ず真実心の中に作くしたまへるを須(もち)いることを明かさんと欲す”と読ませて真実というのは衆生が行ずることによって得られる真実でなく、それは如来の真実心の中になされたものをもちいるということで、それは自力の善根でなく、あくまでも他力によることを明らかに示されたわけであります。 次の釈文も親鸞は読み替えて、一般的には“外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ”と読むところを“外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり”と読み替え、外相に真実を現すなど、それはとてもできそうでないこと、内に虚仮を懐いているからであると自己を深く省察されていたからであります。(第1篇第4章(6)非僧非俗:愚禿釈親鸞を参照されたし)。 次の釈文にも一般的には“凡そ施為趣求する所、亦、皆真実なり”と読むところを“施したまう所、趣求を為す”と読み替えております。  阿弥陀如来が一切の衆生を救われる利他行も、宝蔵菩薩が因中において修行された自利行もともに真実であること。 衆生が浄土に往生することは、まったく如来の他力回向であることを示し、至誠心を解釈するに親鸞は自己が又衆生が真実心になると解釈することでなく絶対的に如来回向の至誠心を強調しております。 第2の深心釈について、それには二種があります。一つには“決定して深く自身は現に罪深き生死の凡夫、流転、出離の縁なきものと”と信ずることであり、二つには“決定して深く、かの阿弥陀仏の48願は衆生を摂受したまうことに疑いなく慮なくかの願力に乗じて、定んで往生を得んと”と信ずることであります。これ等二つの深信というのは、一に機の深信、二つには法の深信をさすもので、これは真宗における他力救済論の根底をなすものであります。 善導大師は深信と言うのは自己の心を深める自力の信をいうのでなく他力の真実を深く信ずることを明にしているのであります。善根薄少の凡夫が極善最上の本願力によって救われるという、機の深信と法の深信を信ずることによって、すなわち二種一具の信を親鸞は「高僧和讃」の善導讃にて“煩悩具足を信知して本願力に乗ずれば すなわち穢身すてはてて 法性常楽せしむ” と讃しております。(第1篇第3章(3)機法二種の深信を参照ください) 往生の正業には二種がある、一つには一心に弥陀の名号を称えて歩くも立つも臥すも、また時間の長短を問わず、憶念して相続する称名を正定業といい、これはかの阿弥陀仏の本願にかなうことであり、礼拝や読誦などによることを、これを助業といいます。 正定業と助業以外はことごとくこれを雑業といっています。 正定業である称名が、これは全く他力の大行であり、すなわち南無阿弥陀仏の名号を称えることであります。回向発願心は浄土におもいをかけて往生を願うものは、阿弥陀如来が真実心をもって回向してくださる大悲の願を頂いて,この深信が金剛の如くになって、ただはっきりと決定して一心に願力を信じて、正直に進んでいくことであります。それは迷いを出ることの一つの門であり、一つの門に入ることは、それがさとりに入るところの一つの門なのであります。ゆえに機縁に従って行を修め、それぞれのさとりを得るがよろしいのです。本願を信じて往生治定のおもいをなすのが回向発願心であるということであります。  親鸞は「尊号真像銘文」に“亦是「発願回向之義」というは、二尊のめしにしたがって安楽浄土に生まれんとねがうこころなりとのたまえりなり。”弥陀:釈尊、二尊のおおせに帰命するところに、おのずと起こる浄土往生の願いが回向発願心であり、その衆生に起こる回向発願心は実は如来によって回向されたものであります。 ここで回向発願心を釈するところに、弘願の信心を守護するために有名な二河白道の譬喩があげられています。  善導大師みずからが、他力入信のその信仰の内容を告白されたものになっており、深心、本願の信楽、他力真実の信心を端的に開示しています。 大要は次の通りであります。“はてしなく遠い百千里の道を西に向かって歩み続ける一人の旅人がいました。突然、その旅人の前に二つの大きな河があらわれ、一つは火の河が南に横たわり、もう一つは水の河が北に遮っていました。この二つの河の幅はいずれも百歩ばかりでした。その深かさははかり知れないほどでありました。丁度その時、その水と火の河の中間に一つの白い道が現れました。その道は四:五寸ばかりの狭い道にすぎなかったのですが、それは東の岸から西の岸に至る唯一本の道でありました。この白道を水の河は波浪をあげて洗い、火の河は炎をあげて焼き尽くしておりました。旅人ははてしない曠野の中にたたずみて、孤独の寂しさに耐えかね、ただ不安と焦燥におびえておりました。 このとき突如、後方に群賊と悪獣があらわれ、旅人を襲わんものとまっしぐらにかけてきました。旅人は直ちに西に向かって走りましたが、水火の二つの河に遮えきられどうすることも出来ない、もしこのままとどまれば、群賊:悪獣の餌食となるばかりであり、行くも死、かえるも死、とどまるも死、いまや総対絶命の三定死の窮地に直面しました。このとき旅人は心の中で一大決心をしました。どうせ死ぬのならこの水火の中の白道をまっしぐらに進んで行こうと、そのとき東の方から思いがけない人の声が聞こえてきました。「汝はその道を真っ直ぐに進むがよい。決して死ぬようなことがないのだ。」と。これと又同時に西の方の岸から「汝、一心正念にして直ちにくるがよい。われよく汝を護ろう。決して水火の難に落ちることを恐れるな」という声が聞こえてきました。旅人はこの東と西の発遣と招喚の声に、いまはなんのまどうこともなく、かがやく公明をもとめて、白道をひたむきに歩み続けて、ついに西の岸にたっしました。 この東岸の声を釈尊の発遣を示しており、西岸の声を弥陀招喚の勅命を示したものとしています。弥陀:釈尊、二尊の勅命:発遣といわれ、真宗は弥陀:釈尊のニ尊教と言われている理由であります。 親鸞は「高僧和讃」の善導讃に “善導大師証をこい 定散二心をひるがえし 貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ” と二河の譬えを讃して、また、“釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり”と二尊の徳を讃しられています。  「般舟讃」の文を引用して弥陀:釈尊、二尊の種々の善巧方便してわれらが無上の信心をはっきせしめたまえり。又「往生礼讃」の深心釈の文を引いて、弥陀の本願は名号を称えることわずか十声のもとで間違いなく往生させてくださることを信知して、一念のおもいにいたるまで疑いの心がない、それゆえに深心と名づけ阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて歓喜して信心を得ればみなかの国に往生することは間違いないことです。  源信の「往生要集」の文を引用して、いかなる煩悩にも壊れない法薬を獲得することができます。それは浄土の菩提心であり、すなわち真実の信心であります。煩悩の眼を覆われて、仏の光を見ることが出来なくても、しかし、大悲の光明はあくことなく、常にわたくしを照らしてくださいます。  “しかれば、もしは行:もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと。知るべし。” いままで述べてきました往生の行も信も、一つとして阿弥陀如来の清らかな願心から回向してくださったものでないものはない。ゆえにわたくしたちが浄土に往生することの出来るのは、因があって初めて往生することが出来ます。その因というのは他力回向の信心で、この因のほかに他の因があるのではないことをよく知っておくべきです。 “問う。如来の本願、すでに至心:信楽:欲生の誓いを発したまえり。何をもってゆえに論主「一心」と言うや。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもってす。このゆえに論主、三を合して一と為るか。私に三心の字訓を闚うに、三はすなわち一なるべし。その意向なんとなれば、「至心」というは、「至」はすなわち真なり、実なり、誠なり。「心」はすなわちこれ種なり、実なり。「信楽」と言うは、「信」はすなわちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。「楽」はすなわちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。「欲生」と言うは、「欲」はすなわちこれ願なり、楽なり、覚なり、知なり、「生」はすなわちこれ成なり、作なり、為なり、興なり。  明らかに知りぬ、「至心」はすなわちこれ真実誠種の心なるがゆえに、疑蓋雑割ることなきなり。「信楽」すなわちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。「欲生」はすなわちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり、大悲回向の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。今三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑わることなし、正直の心にして邪偽雑わることなし。真に知りぬ、疑蓋間雑なきがゆえに、これを「信楽」と名づく。「信楽」はすなわちこれ一心なり。一心はすなわちこれ真実信心なり。このゆえに論主建めに「一心」と言えるなり、と。知るべし。“ 真実誠種の心:   至心のこと。 真実誠満の心:   如来の真実が衆生に満入した信心。 極成用重の心:   如来の回向の信心は至極優れており成就されたもので、そのはたらきは深重の心。 審験宣忠の心:   如来回向の真実はつまびらかで確実で明らかな心。 欲願愛悦の心:   如来の欲願力は衆生の心に入って愛悦のこころを起こさせる心。 歓喜賀慶の心:   往生が決定して歓喜の心が起こり、成仏について賀し喜ぶこと心。 願楽覚知の心:   欲生のことで、往生を願って必ず成仏することを覚知する心。 成作為興の心:   如来回向の欲生でありますから、衆生が成仏するのはまったく如来の願力からおこる心。  阿弥陀如来の第18願にはすでに至心、信楽、欲生、の三心が誓われていますが、どう して天親菩薩は一心と言われたのでしょうか、それはおろかな衆生に解り易く会得する ために三心と言われましたが涅槃のさとりをひらく真実の因は、ただ信心一つに他なら ない、三心即一、合三為一であります。ゆえに天親菩薩は本願の三心とあわせた一心と されました。至心は真実誠種、信楽は歓喜賀慶、欲生は大悲回向であり、三心は正直な心 あって、自力の邪偽がまじわることもない、これを信楽といい、この信楽は一心であり、 一心すなわち真実の信心であります。親鸞は教行信証の信の巻き別序に“特に一心の華文 を開く。しばらく疑問を呈してついに明証を出だす。”と、この三一問答を釈し指しており ます (第2編第5章信の巻き序を参照してください)。 親鸞は天親菩薩の一心帰命に深く信順され、この意を「尊号真像銘文」に“信楽というは 如来の本願、真実にまします、二心なく深く信じてうたがわざれば、信楽ともうすり。 ”と述べております。  “また問う。字訓のごとき、論集の意、三をもって一とせる義、その理しかるべしと いえども、愚悪の衆生のために、阿弥陀如来すでに三心の願を発したまえり、云何と 思案せんや。答う。佛意測り難し、しかりといえども竊かにこの心を推するに、一切の 群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮 諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来。一切苦悩の衆生を悲憫して、不可思議兆載 永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念:一刹那も清浄ならざる ことなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍:不可思議: 不可称:不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩:悪業 邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かかるがゆえに、疑蓋 雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。” 無始よりこのかた: 久遠の昔より 穢悪汚染:     煩悩に汚され 虚仮諂偽:     嘘偽りに満ちて 三業の所修:    身口意の三業に修められたもの 疑蓋雑:      自力の疑いが混じらない心  天親が本願の三心を一心とされたのは、阿弥陀如来が三心を誓われていたのになぜか と言う問いに、至心の体相をしめして愚かなる衆生のために利他の真心を与え,衆生の方 でいうところの至心は如来から頂いた真実であり、疑蓋雑わることのない至心であります。 それはこの上もない功徳を修めた如来の名号をその体としたものであります。「大経」に 説かれています法蔵菩薩の因位の修行において、ただ清らかな法を求めて一切の衆生を 救われんがために行を修し、それをあらゆる人々に施して功徳を成就されたのであります。 また「無量寿如来会」を引用して、上記のことを助顕しております。ここにも善導の「散 善義」の文を引用して釈文を証しています。(この文はすでに前記の信の巻きの「散善義」 と重複していますのでその箇所を参照してください。)阿弥陀仏は一念一刹那も真実心で ないものないゆえに、如来の施したものを須(もち)いてこそ真実といわれます。それが 至誠心なのであります。  “しかれば、大聖の真言:宗師の釈義、まことに知りぬ、この心すなわちこれ不可思議: 不可称:不可説の一乗大智願海、回向利他の真実心なり。これを「至心」と名づく。 至心を結釈して、その至心といわれる意味を確認しております。大経のことば、善導の 解釈によって信についての、この心は優れた如来の智慧の誓願によって成就された真実 心であるということがいえます。それゆえにこれを至心と名づけております。 “すでに「真実」と言えり。「真実」というは、「涅槃経」に言わく、実諦は一道清浄にして二つあることなきなり。:「真実」というは、すなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ虚空なり。虚空はすなわちこれ真実なり。真実はすなわち佛性なり。佛性はすなわちこれ真実なり、と。 「釈」(散善義)に「不簡内外明闇」と云えり。「内外」とは、「内」はすなわちこれ出生なり、「外」はすなわち世間なり。「明闇」とは、「明」はすなわちこれ出生なり、「闇」はすなわちこれ世間なり。また「明」はすなわち智明なり、「闇」はすなわち無明なり。 「涅槃経」に言わく、「闇」はすなわち世間なり、「明」はすなわち出世なり。「闇」はすなわち無明なり、「明」はすなわち智明なり、と。“ 「涅槃経」により真実の追釈をしています。実諦、究極絶対の真実は一道すなわち清浄 の法であり、二つあるものではありません。 真実――――如来―――――真実     真実――――虚空――――――真実 真実――――佛性―――――真実 善導の「散善義」と「涅槃経」で再び内外、明闇の追釈をいたしております。 内―――――出世―――――明――――――智明 外―――――世間―――――闇――――――無明  “次に「信楽」というは、すなわちこれ如来の満足大悲:円融無碍の信心海なり。この ゆえに疑蓋雑あることなし、かるがゆえに「信楽」と名づく。すなわち利他回向の至心 をもって、信楽の体とするなり。しかるに無始より己来、一切群生海、無明海に流転し、 諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽なし。 ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたし。一切凡小、一切時 の中に、貧愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃 を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒:雑修の善」と名づく。また「虚仮:諂偽の行」 と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮:雑毒の善をもって、無量光明土に生 まれんと欲する、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しく如来、菩薩の行を行 じたまいし時、三業の所修、乃至一念:一刹那も疑蓋雑わることなきに由ってなり。この 心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、必ず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生 海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまえり。これを「利他真実の 信心」と名づく。 満足大悲:   阿弥陀如来の大悲 円融無碍:   如来の智慧、一切の功徳が円満に備わり 疑蓋問雑:   疑いの煩悩、善心を障えおおう疑いの心がまじわること 諸有輪:衆苦輪:迷いの世界  信楽の意味を解釈して、如来回向の信楽が浄土往生の正因であることを明らかにして います。信楽というは阿弥陀如来の大慈悲心によって起こされた信心で他力回向の至心 を信楽の体としています。苦しみ悩みを抱えている一切の衆生をあわれみ、威徳広大な 清らかな信心を与えてくださるので、それは必ず浄土に生まれる正因となります。 これを他力回向の真実信心と名づけております。  “本願信心の願成就文。” 「大経」の本願成就文を引いて、信楽が第18願によることを示し、その説かれている名号のいわれを聞いてあらゆる人々が信心歓喜するときその一念は信楽になります。また同じく「無量寿如来会」にも同様に述べられています。  「涅槃経」の三文を引いてまず第1に大慈は衆生に楽を与える心をいい、大悲は衆生に苦を取り除くことをいい、大慈大悲が菩薩に随っており、一切の衆生はやがてこの大慈大悲を頂くのでありますから、一切の衆生は佛性がある。当然如来にも佛性がありますので、この佛性を大信心と言っています。第2に無上の佛果を得るには信心を因としており、さとりを開く因は無量であります。信心を説けばその中にすべて納まります。第3には信心には二つの種類があります、耳でただ聞くだけでは心で深く味わっていない信心-----信不具足。ただ、さとりの道があるという事を知っているだけでどんな人でもその道によって救われるということを知らない-----信不具足。それらは信心としては不十分であります。  「華厳経」の三文を引いて、他力信心の行者の信心を徳を示して、第1にこの法を聞いて信心歓喜し、疑いないものは速やかに無上の佛果を得て、そしてすべての如来と等しくなります。第2に如来はよく一切の衆生の疑いを断ち切り、その欲するところに従って満足させてくださる。第3に如来の家に生まれて住む身となればよく利他のはたらきを行じ、信楽の心が清らかになり如来と等しくなります。菩薩の業を修めて一切の衆生を利益することが出来るようになります。  曇鸞の「浄土論註」の二文を引いて、信心が浄土に往生する因であることを示して、第1に如来の名号に相応して修行させること、それが信心であり、天親は「浄土論」の冒頭に「我一心」といい、第2に大経の初めに「如是」と説かれたのは信心がさとりに入ることを彰わしていることを述べております。  “次に「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小:凡聖:定散:自力の回向あらず。かるがゆえに「不回向」と名づくなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向なし、清浄の回向なし。このゆえに如来、一切の苦痛の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。 大小:凡聖:  大乗や小乗の凡夫や聖者のこと、自力聖道の一切の人々 定散:自力の回向;: 定善:散善ともに自力の回向のこと。  欲生心の解釈で欲生は他力であって自力ではない、阿弥陀如来が一切の衆生を招き呼びたもうおおせであり、それはまことの信楽がその欲生の体を成しているのであり、実にこの欲生は大乗や小乗の凡夫や聖者の自力の回向ではありません、従って不回向というのであります。あらゆる衆生は煩悩の海に流転し、生死の海に漂って真の回向も、清らかな回向心もないこのような有様であります。阿弥陀如来は苦しみ悩んでいる一切の衆生をあわれみになって因位のとき菩薩行に励まれた時、身口意の三業に修められたことは、わずか短い一念の間でも衆生に功徳を与える心をもって修行され、それによって大悲を成就されました。この如来の回向心が他力真実の欲生心として衆生に施され、ゆえに衆生の欲生心は、そのまま如来の回向心であり、大悲であります。それは疑いのないまじわらない心であるということであります。  “ここをもって本願の欲生心成就の文”  「大経」には、阿弥陀如来が至心をこめて回向されたものであるから浄土に生まれたいと願えばたちどころに往生することが出来る身に定まり、そのまま不退転の位に住することを第18願成就文から引いて、欲生が如来回向のものであることを示しました。「無量寿如来会」に於いても再び示し助顕し、曇鸞の「浄土論註」より三文引いて、第1に阿弥陀如来が一切の衆生を捨てずして大悲心を成就して二種の相、往相:環相を回向して、みな衆生の苦しみを抜き、迷いの世界を渡らせてくださるのであります。第2に荘厳功徳の三種は弥陀因位の清浄な願心、48願の願心によって成就されたものであり、最後に衆生を救うために応化の身をあらわし、煩悩の世界に戻って神通力をもって衆生を教化するこれも本願力の回向によるもので、これを第5門といわれるものであります。  善導の「散善義」の文を引いて如来回向の欲生を助顕しています。 信心をおこして浄土に往生したいと願うものは、阿弥陀如来が真実心をもって浄土に往生させたいと回向される大悲心を阿弥陀如来から頂いて、往生は間違いないと思いを成すがよろしい、この信心の堅いことは金剛のようであり、動乱破壊されることがありません。はっきりと決定して、一心に願力を信じて正直に浄土へ進んでいくことです。いろいろな雑言を聞いて道を踏み外せば往生の大益を失うことになります。  “真に知りぬ。二河の譬喩の中に、「白道四五寸」と言うは、「白道」とは、「白」の言は黒に対するなり。「白」は、すなわち選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。「黒」は、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗::人天の雑善なり。「道」の言は、路に対せるなり。「道」 は、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃無上の大道なり。「路」は、すなわちこれ二乗:三乗:万善諸行の小路なり。「四五寸」と言うは、衆生の四大:五陰に喩えうるなり。「能生清浄願心」と言うは、金剛の信心を獲得するなり。本願力回向の大信海なるがゆえに、破壊すべからず。これを「金剛のごとし」と喩うるなり。 選択摂取の白業:   法蔵菩薩が因位の時選びとられ成就されたところの白い道、南無阿弥陀仏の名号 往相回向の浄業:   南無阿弥陀仏と言う浄業、衆生を浄土往生させてくださる如来回向の名号 本願一実の直道:   阿弥陀如来の本願によって成就されたところの唯一真実の道 大般涅槃::      滅度、佛果のことでさとりの境地 欲生を追釈するにあたって二河譬えを解釈して利他回向の金剛心を明らかにしています。  善導の「観経疏」の三文「玄義文」、「序分義」、「定善義」を引いて金剛心を明らかにしています。出家も在家もすべての人々がそれぞれの無上の菩提心をおこしますが、仏法をもとめることは難しい。ゆえに他力金剛の信心をおこして、他力金剛の信心を頂き信の一念が本願にかない涅槃の妙果をさとらせてもらいなさい。他力金剛の信心をおこすことが出来なければ、慈悲深い釈尊の教えに従わなければ、どうして生死のもとを断つことがでましょうか、金剛と言うは清らかな佛智をいうのであります。 金剛心には自力の金剛心と他力の金剛心があり、自力修行によりさとりをひらき禅定に入り仏法佛果を得ることははなはだ難しいことであります。他力の金剛心は他力回向の本願の信心のことであります。 「愚禿鈔」に“他力は金剛心なり。”“今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。” 「唯信鈔文意」に“この信心は摂取のゆえに、金剛心となる。これは念仏往生の本願の三心なり。” 「高僧和讃」の天親讃に“信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなわち他力なり。”  “信に知りぬ。「至心」:「信楽」:「欲生」、その言異なりといえども、その意惟一なり。何をもってゆえに、三心すでに疑蓋雑わることなし。かるがゆえに真実の一心なり。これを「金剛心の信心」と名づく。真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり。”  ここまで至心、信楽、欲生の三心について字訓釈、法義釈をしてきましたがここで三心を結釈しております。三心即一心を論じその一心は真実信心で必ず称名が伴うものであり、その一心は天親が「我一心」にと表白して御名の心に如実に相応して修行したといわれております。 親鸞の「尊号真像銘文」に“一心というは、教主釈尊の御ことのりをふたごころなく疑いなしとなり。” 必具名号の問題でありますが、真実の信心には必ず報謝の称名が伴うものであります。称名のない信心は真実のない信心であるということであります。それでは称名のある信心は必ず信心があるかということは、必ずしもそうとはかぎらないということであります。何故かといいますと、第19願、第20願の念仏は自力称名の念仏であります。 真宗は信心正因、称名報恩、真実の信心を得たものは必ず後続して報恩の称名を伴うものであります。これが必具名号ということであります。  “おおよそ大信海を案ずれば、貴賎:緇素を簡ばず。男女:老少を謂わず。造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず、善にあらず、頓にあらず、:漸にあらず、定にあらず:散にあらず、正観にあらず、邪観にあらず、有念にあらず、無念にあらず、尋常にあらず:臨終にあらず、多念にあらず、一念にあらず、ただこれ不可思議:不可説:不可称の信楽なり。たとえは阿伽陀薬のよく一切の毒を減ずるがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を減ずるなり。” 緇素:          黒衣―出家、 白衣―在家 行にあらず、善にあらず: 衆生の計らいによって行ずる行でなく、修める善でもない 頓にあらず、漸にあらず: すみやかに修行してさとりをひらくでもなく、ゆっくりと修行してさとりをひらくものでもなく、自力をすてて願力に帰するもの 定にあらず、散にあらず: 精神を統一して修する善でもなく、日常生活において修する善でもない、信心は信の一念によって得られるもの 正観にあらず、邪観にあらず: 一定の規則による観法とかそうでない観法とかでなく、定善の観法でない。 有念にあらず、無念にあらず: 色や形を思うところの念とか、思わない念でなく 阿伽陀薬::        一切の病気を治すところの薬 智愚の毒::        一切の自力の計らいの毒をいう、自力の善悪の全てをいう  大信の絶対性を強調するために四不:十四非をあげて他力の信心は如来回向のもので あり、如来成就という立場からは絶対的のものであり、衆生の立場からは不可思議、 不可説、不可称の信楽で、一切の衆生を救済されるという本願他力の絶対性を讃嘆して おります。 「歎異抄」に“弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばず。ただ信心を要とすとしる べし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。 しかれば本願を信ぜんには、他の善もあらず。念仏にまさるべき善なきをゆえに、悪を もおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえにと。“ また「歎異抄」に“念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるに あらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。 ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと。“ また親鸞は「未灯鈔」に“選択本願は、有念にあらず、念にあらず。有念すなわち、いろ かたちをおもうについていうことなり。無念というは、形をこころにかけず、いろをこころにおもわずして、念もなきをいうなり。これみな聖道のおしえなり。“ 親鸞は他の著述にも、本願の名号を体とする他力の信心の絶対性を強調していますが、ここでもまた強調いたしております。  “しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪について、また二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。「竪超」:「竪出」は権実:顕蜜:大小の教えに明かせり。暦劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横について、また二種あり。一つには横超、二つには横出なり。「横出」は、正雑:定散:他力の中の自力の菩提心なり。「横超」は、これすなわち願力回向の信楽、これを「願作佛心」と日う。 願作佛心は、すなわちこれ横の大菩薩心なり。これを「横超の金剛心」と名づくなり。横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといえども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、 永く聞不具足の邪心を離るべきなり。” 菩提心:       無上正真道心、 ここでは信心のこと 権実:顕蜜:大小:  聖道門の一切の教え、すなわち権教と実教,顕教と蜜教、大乗教と小乗教 暦却迂回の菩提心:  長い時間をかけまわり道してさとりをひらく自力聖道の菩提心 正雑:定散:     ここでは一切の自力の行のこと、すなわち正は正行、雑は雑業、定は定善、散は散善のこと。 信不具足:      深く思い勤めて聞きひらかないため信がなく 聞不具足:      一部を聞いて全体を聞かない、十分に聴聞しない 親鸞は教義を体系づけるために、二双四重の教判を定められました。 竪出――――――自力聖道門の漸教――――――――法相、三輪 竪超――――――自力聖道門の頓教――――――――真言、天台、華厳 横出――――――浄土門の漸教――――――――――「観経:小経」の顕説の立場 横超――――――浄土門の頓経――――――――――「大経」の教え 竪というは自力のことで横というは他力のことであります。また頓教というのは証果が 早く得られる、漸教は証果がおそく得られる教えのことであります。 親鸞は「愚禿鈔」で“聖道浄土の教えについて、ニ教あり、一には大乗の教え、二には 小乗の教え、大乗教については、ニ教あり、一には頓教、二には漸教なり、頓教については、またニ教二超有り、ニ教とは、一には難行:聖道の実教なり、いわゆる佛心、真言、法華、 華厳等の教えなり。二には易行、浄土本願真実の教え「大無量寿経」等なり、二超とは 一には竪超(即身是佛即身成仏等の証果なり)、二には横超(選択本願、真実報土、即得 往生なり)。漸教については、またニ教二出あり、二教とは一には難行道、聖道権教、 法相等暦却修行の教えなり、二には易行道、浄土要門「無量寿佛観経」の意、定散、三福、 九品の教えなり。ニ出とは、一には竪出聖道暦却修行の証なり、二には横出、浄土、胎宮、 辺地、懈慢の往生なり。 小乗教について、二教あり、一には縁覚教、二には声聞教なり、ただ阿弥陀如来選択 本願を除きて己外、大小:権実:顕蜜の諸教、みなこれ、難行道::聖道門なり。また 易行道:浄土門の教え、これを浄土回向発願自力方便の仮門というなり。しるべしと。” 親鸞は「尊号真像銘文」にも、“よこは、よこさまという。よこさまというは如来の願力を 信ずるゆえに行者のはからいにあらず。五悪趣を自然にたちすて、四生をはなるるを横 という。他力ともうすなり。こえを横超といふなり。------横超はすなわち他力真宗の 本意なり。”と述べられ、他力真宗の地位を確立し、この他力信心が大菩薩心であること を明に顕しされたのであります。これは親鸞が教行信証を執筆された動機の一つでも あります。栂尾の高弁は「摧邪輪」を著して法然の「選択本願念仏集」を十六の過失を あげて批判をいたしました。そのうちの菩提心に着いての批判にも答えるべく親鸞は 菩提心の釈をして、他力菩提心の本意を遺憾なく発揮され、弥陀他力回向の信心が浄土 の大菩薩心であることを明らかにされました。(第2編第1章教行信証の作成を参照され たし)。 「正僧末和讃」には“自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず 常没流転の 凡愚は いかでか発起せしむべし” “浄土の大菩薩心は 願作佛心をすすめしむ すなわち願作佛心を 度衆生心となづけたり。” “度衆生心ということは 弥陀智願の 回向なり 回向の信楽うるひとは 大般涅槃をさとるなり。” 「高僧和讃」の天親讃には“願作佛の心はこれ 度衆生のこころなり 度衆生の心これ 利他真実の信心なり。” “信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心 金剛心菩提心 この心すなわち他力なり。” と讃じております。   曇鸞の「浄土論註」の中の「無量寿経」釈で釈尊が王舎城で説かれていることは無上 菩提心を起こすことを根底としています。阿弥陀如来が因位の時、願作佛心、度衆生心 をもって自分だけの楽しみを求めないで、全ての衆生の苦しみを抜き取って、救済したいという弥陀如来の本願力によってもたらされるもので、その阿弥陀如来の回向によって一切の功徳があらゆる衆生に施される、その衆生を仏のさとりに向かわせてくださるということであります。  元照律師の「阿弥陀経義疏」は釈尊が弥陀法を説かれたことは、他の仏たちが出来ないことであり、また十方世界に見たためしがないもの希有のものでありました。同じく同小 経義疏に、念仏の教えは愚者と智者、尊い人、賎しい人、修行の長短、人からの善悪、ただ決定して強い信心さえあれば、臨終に悪いすがたが表れても信心に備わった十声の念仏で往生させてもらうことが出来ます。煩悩の愚かな凡夫であれ、いかなる生業であれただちに仏になることができるのです。また、この悪世に修行成仏することは難しいもろもろの衆生に、阿弥陀仏の法を説くのも難しいが諸仏が如来を讃嘆されることが無意味でなく、それを衆生に聞かせて信じさせてやりたいと述べております。  律宗の用欽の「超玄記」に大経には往き易い浄土と説いていますが、往生することに疑いを生ずるので難信の法であるといっております。  戒度律師の「聞持記」を引いて、ただちに飛び越えて浄土に往生することが出来るのである真に信じがたい法ではないか、と述べています。  “阿弥陀如来は、真実明:平等覚:平等覚:畢竟依:大応供:安大慰:無等々:不可思議光と号したてまつるなり、と。” 真実明:  真実の智慧の光明を放って一切の世界を照らす仏、阿弥陀如来 平等覚:  如来は一切の衆生を平等に照らし、平等のさとりをひらかしむ、阿弥陀如来 平等覚:  如来は人間の思議する事の出来ない光明をもっている、阿弥陀仏 畢竟依:  如来一切のものの最後のよりどころ、阿弥陀仏 大応供:  如来は一切の衆生の供養を受けられる徳が備わっている、阿弥陀仏 大安慰:  如来は一切の衆生に大いなる安らぎを与えられる、阿弥陀仏 無等々:  日:月の光にも超えた光を備えているから、阿弥陀仏  宗暁律師の「楽邦文類」の後序を引いて、自らを妨げるものは貪受であり、自らを覆い隠すものは疑いであり、浄土門だけはこの二つの貪受と疑惑を往生の妨げとしない、弥陀の本願は煩悩を隔てることをしない、常におさめまもってくださる、これは本願他力自然の道理であります。弥陀法の徳をここでもとりあげ助顕しております。  “それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念有り。「一念」は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。 真実信楽:     三心はともに疑蓋無難で真実の一心に納まるのでありますから、 ゆえに三心即一の信楽を真実の信楽といいます。 信楽に一念あり:  行一念とここでいう信一念があり、又、時間を示す一念があります。 信楽開発の時剋の極促: 信のひらけるはじめての時間 広大難思の慶心:  信心の内容であるおもいはかることの出来ない大きな喜び  浄土真宗の教義は信心正因、称名報恩であります。浄土に往生する正因が決定すると いうその時刻で、信の一念を説きますのと、信心二心無をもって信一念を両面で説いて おります。ここでは信心を得る時のきわまりをいっております。  親鸞は「一念多念文意」で“「一念」というは、信心をうる時のきわまりをあらわす ことばなり。”と述べられています。ここでは一瞬時の一念はそのまま本願を信じたニ心 のない信心に他ならないことをいっております。  「大経」「如来会」成就文、「大経」聞名の文、「如来会」の聖徳名の文、の四文を引 いて信の一念を助顕しております。  「涅槃経」を引いて聞信について説き、半信半疑の聞き方、全体を十分に読みこなし ていない、議論をするために名聞利養のためそれらを聞不具足といっているわけです。  善導は「散善義」で一心専念、専心専念の二句を引いて信の一念を助顕いたしており ます。  “しかるに「経」に「聞」と言うは衆生、佛願の正起:本末を聞きて疑心あることなし。 これを「聞」と日うなり。「信心」と言うは、すなわち本願回向の信心なり。「歓喜」と 言うは、心身の悦予の貌を形すなり。「乃至」と言うは、多少を摂するの言なり。 「一念」と言うは、信心二心なきがゆえに「一念」と日う。こえを「一心」と名づく。 一心はすなわち清浄報土の真因なり。“ 佛願の生起:本末: 阿弥陀如来が因位の時、本願を起こされた本:末のいわれを聞いて 「大経」の成就文を解釈して聞信の一念についての親鸞の私釈  “金剛の真心を獲得すれば、横に五趣:八難の道を越え、必ず現生に十種の益を獲。 何者か十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の 益、四つには諸佛護念の益、五つには諸佛称讃の益、六つには心光常護の益、七つには 心他歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚には入る益なり。“  金剛の信心を得た人は五趣八難といわれる迷界をひととびに越え十種の利益を得られると言っています。  真宗における現生利益として上記の現生利益を信心の利益としてあげていますが、これはあくまでも信仰による精神的な利益をいっていますのであって、物欲的な現生利益をいっているのではありません。呪術的な、非合理的な、因果の道理を無視した、人間の努力を否定した、非科学的な、迷信的な現世の物質的な欲求をすることを現に厳しく批判しております。  「高僧和讃」の善導讃に“佛号をむねと修すれど 現世をいのる行者をば これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらわるる。” 親鸞は現世の利益を求める加持祈祷や迷信を強く否定し、邪教の宗教であると退けました。現世の利益とは現実に生きる精神的な功徳利益が中心であり真の念仏者は現世の真実を正しく見つめ、人生の苦しみを正しく捉え真の智慧によって、現世を明るく強く生きていく、そうすることにより現世利益が備わってくる。真実なるものを求めてさとりへの道、信の一念が現世の望みをおのずから差し向けられる。後生を願うものには現世の望みもおのずから得られる。現代流に言えば、金は後から付いてくる。ということであります。 “宗師の「専念」と云えるは、すなわちこれ一行なり。「専心」と云えるは、すなわちこれ一心なり。”  善導の『散善義』の専心専念は行をはなれない信であり、信の一念、一心であります。  “しかれば、願成就の一念は、すなわちこれ専心なり。専心すなわちこれ深心なり。深心すなわちこれ深信なり。深信すなわちこれ堅固深信なり。堅固深信すなわちこれ決定心なり。決定心すなわちこれ無上上心なり。無上上心すなわちこれ真心なり。真心すなわちこれ相続心なり。相続すなわち淳心なり。淳心すなわちこれ憶念なり。憶念すなわちこれ真実一心なり。真実一心すなわちこれ大慶喜心なり。大慶喜心すなわちこれ真実信心なり。真実信心すなわちこれ金剛心なり。金剛心すなわち願作佛心なり。願作佛心すなわちこれ 度衆生心なり。度衆生心すなわちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわちこれ大菩薩心なり。この心すなわちこれ大慈悲心なり。この心すなわちこれ無量光明慧に由って生ずるがゆえに。願海平等なるがゆえに発心等し、発心等しきがゆえに道等し、道等しきがゆえに大慈悲等し、大慈悲はこれ佛道の正因なるがゆえに。”  一念の信を転釈して信心の徳を示しています。  曇鸞の「浄土論註」に、かの安楽浄土に生まれたいと思うものは必ず無上菩提心の信心をおこさねばならない。是心作佛というのはこの衆生の信心が仏のさとりを開く正因となる。是心是佛は、この信心の他に別の名号の法はない。名号すなわち如来の火、衆生の煩悩の木に燃えついて離れることはない、信心の火が煩悩の木を離れられないから如来の火は良く煩悩の木を焼くのであります。煩悩の木が信心の火によって焼かれるから煩悩の木が信心の火となるのであると述べられています。  善導も「定善義」で是心作佛ということを、この信心が佛果開く正因となるものであり、この信心の他に別に名号の法はない。 親鸞はこの是心作佛:是心是佛の是心をこの信の巻き於いて他力の信心、一心帰命の信心とされています。 また、親鸞は「浄土文類聚鈔」で“この心すなわち畢竟平等心なり、この心すなわち大悲心なり、この心作佛す、この心これ仏なり、これを「如実修行相応」と名づくなり。知るべし、「三心すなわち一心の義、答え終わり竟りぬ、と。” 他力の信心が煩悩具足の凡夫の心中に入り込み、みちて凡夫がそのまま仏になるという生佛不二、佛凡一体を示しているものであります。  “かるがゆえに知りぬ。一心、これを「如実修行相応」と名づく。すなわちこれ正教なり。これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、こえ正智なり。三心すなわち一心なり、一心すなわち金剛真心の義、答え竟りぬ。知るべしと。” 一念の信を結釈して、本願の三心は一心に納まりそれは金剛の信心であると総結をいたしております。   “「横超断四流」と言うは、「横超」は、「横」は竪超:竪出に対す、「超」は迂に対するの言なり。「竪超」は大乗真実の教えなり。「竪出」は大乗権方便の教、二乗:三乗迂回の教えなり。「横超」は、すなわち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また「横出」あり、すなわち三輩:九品、定散の教え、化土:懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾に速やかに疾く無上真道を超証す、かるがゆえに「横超」というなり。”  横超というは本願他力、真実円満の教え、すなわち真宗の教え。本願によって成就された清浄の報土には位や階級などはなく、一念のところに速やかに佛果菩提をさとるので横超といいます。「大無量寿経」三文を引いて、横超の義を明らかにしています。如来は世に超えた優れた願をたて、必ず無上の佛果をきわめ、十方に超えひびくだろう浄土の信じさえすれば、たやすくその人を受け入れてくださるだろうと。述べております。また、「大阿弥陀仏経」の文を引いて、同じく横超の義を助顕いたしております。  「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣:四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」というなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。 また生:老:病:死なり。”  信の一念は迷いの四流を断ずる。往生を得る一心の獲得を起こすことは未来に迷いを受けることもなく、受けねばならない果報もなく、六趣四生の因もなく、その悪もなく、三界の生死を断ち切ってそれゆえに断といいます。  「大経」、「平等覚」、「涅槃経」の三文を引いて生死の流れを断ずることを助顕しています。  善導の「般舟讃」、「往生礼讃」を引いて、生死をいとえばこの娑婆を永くはなれ、浄土を願えればさとりの世界にいつもいることができる、寝てもさめても称名念仏を捨ててはならない、成仏して、生死の迷いから抜け出すこと、断四流を助顕しております。  “「真佛弟子」と言うは。「真」の言は偽にたいし、仮に対するなり。「弟子」とは釈迦: 諸佛の弟子なり。金剛心の行人なり。この信:行に由って、必ず大涅槃を超証すべきがゆえに、「真佛弟子」と日う。  信心の行者、他力の信心を得た人は他力回向信行によりて、まちがいなく涅槃のさとりをひらき真佛弟子となります。 「大経」、「如来会」、「観経」を引いて、広大勝解者、大威徳の者、広大異門の者、人中の分陀利華になり、真佛弟子となることを助顕しております。 また、道綽の「安楽集」五文を引いて、善導の「般舟讃」三文、「往生礼讃」二文、「観念法門」「序分義」「散善義」計八文を引いて、真弟子とはと助顕しています。 王日休の「浄土文」、ならびに「大経」、「如来会」さらに用欽律師の「超玄記」を引いて、衆生がこの一生を終われば必ず浄土に往生してさとりを開くという記別(証)を授けてくださるのは、この弥陀の名号の不可思議功徳の利益より他ならないと、真佛弟子の信の一念ならびにそれの利益を助顕しております。  “真に知りぬ.弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。かるがゆえに「便同」と日うなり。しかのみならず、金剛心を獲る者は、すなわち韋提と等しく、すなわち喜:悟:信の忍を獲得すべし。これすなわち往相の回向の真心徹到するがゆえに、不可思議の本誓に藉るがゆえなり。 弥勒大士:    弥勒菩薩 等覚金剛心:   菩薩最高の位で、佛にほとんど近い菩薩の菩提心は堅いので金剛心 横超の金剛心:  他力回向の真実信心 真佛弟子は弥勒菩薩と等しい位になる、すなわち、便同であることを述べ、念仏衆生は他力回向の真実信をきわめるがゆえに臨終一念の夕、大般涅槃を超証して金剛心を得ることが出来ます。それは他力信心がとどいた如来の本願によるものであります。  禅宗の智覚、律宗の元昭もいっています、その宗の智者たちも臨終にのぞんで「観経」 をあおぎ、浄土を讃えて往生せられた。儒学者達もにな筆をとって浄土の往生を願われた。  “「仮」と言うは、すなわちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。  真佛弟子に対して仮の佛弟子というのは、聖道の教えを修する人たち、および浄土の教えの中の自力の人たちのことを言います。 善導は「般舟讃」で仏教には多くの教えがあり、八万四千の法門があると言われております。それは衆生の機類に不同があるからであります。また、「法事讃」に方便の権化の教えもみな同じですが教門はそれぞれ違っており、みな漸教であり、苦行してやっと無生のさとりをひらくだけです。  “「偽」と言うは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり。”   「涅槃経」に説いている釈尊は、一切の外道は95種の間違った道理を学んで悪道におちいっていると言っています。また、善導の「法事讃」で95種の外道はみな世人を惑わしていますと、言っています。ただ仏の一道のみが一人清らかな教えでありますと。  “誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。”  定聚の数:     信心を得た者はこの世において浄土に往生することが定まった仲間の数に入っている 真証の証:     浄土に往生して佛さとりをひらく これは親鸞の自己省察による悲嘆の表白、懺悔の述懐であります。真の仏弟子がどう あるべきかを自覚して如来の恩徳の広大さを仰げば仰ぐほど、いよいよわが身の あさましさを嘆き、極悪劣機、罪悪深重の凡夫である自己を見つめ、如来の本願に救 われるしか手立てのない自分を見つめ法の深信を深化させ自己批判の中から悪人正機の 救済観を明確に論理構成していきました。 親鸞は「正像末和讃」の悲嘆述懐讃に “浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心さらになし” “悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修行も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる “無漸無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう”  “それ佛、難冶の機を説きて、”  「大経」の抑止文を釈くし、本願の正機を明らかにします。まず、「涅槃経」の四文を引いて難化の三機を示し、大乗の教えを謗る人、五逆罪を犯す者、一闡提(信不具足)であり、それらの三種類の人は佛:菩薩:一乗の教えに従って法を聞くなら無上の菩提心すなわち、信心をおこしえますが、声聞:縁覚:菩薩」の三乗の教えでは菩提心を起こすことも出来ないとことを述べております。 ここに五逆ということは何なのか、その釈義が信の巻きの最後に示されておりますのでここで引用いたします。五逆というは永観律師の「 往生十因」の淄州の智周の釈をひいて、五逆罪には大乗と小乗との釈がることを示して 「薩遮尼乾子経」に説かれている大乗の五逆とは塔を破壊し経を焼き三宝の財物を盗む、 小乗を謗ってこれは仏教でないと云い広める。出家在家の人を罵り責めて還俗せしめ死にいたらしむ、父母を殺し、佛身より血を出し、阿羅漢を殺す、因果などないと主張して不善等をおこなう。これ等五つを指して言います。元に戻って、 「梵行品」又は「観経」にある王舎城の悲劇の物語を示して、この物語とは釈尊の在世当時に於いてもっとも悲劇的な事件でありました。長い間教団の指導的立場でありました提婆達多は邪見と驕慢の思想からついに釈尊に対抗して独善的な行為をあえていたしました。 頻婆沙羅王の太子阿闍世をそそのかし父王を殺害させ、母后の韋提希夫人を監禁させたのであります。阿闍世は父王を殺し王位を奪ったのですが父を殺したことによって煩悶し、六師外道の教えに頼ってそれを治癒することができず、耆婆大臣の薦めで始めて仏法を聞くようになりました。釈尊の教えを聞いて阿闍世王は救われ、悪人正機のいわれを明らかにしています。阿闍世王を救うために釈尊は涅槃に入らないで阿闍世の病気を治癒して、さらに心の病気を治し阿闍世が仏教を信じて外護者となったと述べられています。 次に迦葉品を引いて阿闍世王の害毒の顛末を詳しく述べ釈尊入滅の予言などを述べております。親鸞はここまで「涅槃経」の文を長々引用しているのでありますが親鸞の言いたいことを要約いたしますと、ただこの「涅槃経」を解釈するために引用しているのでなく、親鸞本人自身を阿闍世の立場に置き換えて己の罪悪感を深く自省し、自分の問題として深化させこの悲劇が弥陀の救いの本願を開顕する機縁になっていることを承知して、阿闍世王の逆害が五逆を作るところのものと一切の凡夫とが共通の者であることを承知して、この罪悪深重の凡夫悪人を救うのは弥陀の本願力であり、弥陀の誓願一佛乗によってのみ救われると言うことを明にしています。 難化の三機:難冶の三病である五逆、謗法、闡提は阿弥陀如来の本願によってのみ救われるほかに道はないことを説いています。 親鸞は教行信証の一番重要な書き初めの総序に“しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。”(第2編第2章 教行信証:序を参照してください) “ここをもって、今大聖の真説に拠るに、難化の三機:難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、憐憫して療したまう。たとえば醍醐の妙薬の一切の病を療するがごとし。濁世の庶類:穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと。知るべし。” 利他の信海:   他力回向の信心 矜哀して治す:  如来はこれをあわれんで 醍醐の妙薬:   弥陀の本願を醍醐の妙薬に譬えて  難化の三機:難冶の三病、(五逆、謗法、闡提)という仏教では救われにくい三種の機類、治療しにくいほどの重病人の三種の病気のことをいい、これは本願一乗の教えによってのみ救われるといっています。  “それ諸大乗に拠るに、難化の機を説けり。今「大経」には「唯除五逆誹謗正法」と言い、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」(如来会)と言えり。「観経」には五逆の往生を明かして謗法と説かず。「涅槃経」には、難冶の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。”  五逆、謗法は除くといった抑止文について、「大経」「観経」「涅槃経」の文をあげて、その相違を問いただしこれ等の教説を如何に考えればよいかを、下記に論じております。 「大経」の第18願に五逆と誹謗するものは除くとあり、五逆罪と謗法罪のものとは仏の救いに預からないと言うう事と「観経」のいわゆる五逆の者も念仏すれば救われると説く事、この二つの抑止文には矛盾があるのではないかという疑問が生じてきます。これについて曇鸞は「浄土論註」において五逆と謗法との二罪を合せて犯すものは救われないといい、「観経」は唯五逆を犯すだけの一罪に留まるという事で救われるという単複説を採って解釈いたしました。 ところが善導は「散善義」および「法事讃」において八番問答を展開し、その未造己造説をたて解釈いたしました。この説とは「大経」に二罪は除くとしてあるのは、このニ罪がきわめて重い罪であるので、如来が衆生がこの二罪を犯すことを心配して、あらかじめ慈悲をもって二罪を犯しては往生できないですよと、諭さんが為に言われたと解釈いたしました。 如来の真意をうかがえば、初めから救われる意のあることが知られるのであります。また「観経」には五逆だけをあげ、謗法をはぶいているのは五逆は下下品の衆生がすでに作った罪で、大悲の如来は勿論見捨てないで救いなさるが、ところが謗法罪は未だ作っていないので、あらかじめ作らないように戒めて、もし謗法罪を作ったとしても如来は見捨てることなく救いになさると、親鸞は救済の機根を善導の「散善義」「法事讃」の八番問答釈を引用して逆謗除取を論じ、真宗の悪人正機がここにもある事を明らかにいたしました。 第6章         証の巻  “必至滅度の願”  “難思議往生”  証の巻に明らかにされる内容は第11願に誓われたものであり、それは難思儀往生であることを述べております。この第11願には往生定聚と必至滅度との二つの願が誓われていますが、他宗にあっては往生定聚の願と名づけて衆生が浄土に往生してただちに正定聚に住し、やがて滅度をさとるという、これを彼土にとって解釈していますが親鸞は他宗と違って他力の信心を得たならば直ちにこの世で正定聚に住し、さらに生命が終わり次第に浄土に往生し、そして直ちに滅度をさとると解釈しております。(この正定聚については第2編第5章、信の巻を参照してください。)さらに難思議往生をあげていますのは往生即成仏という立場から、はかり知ることが出来ない往生であることを明示しております。ここで再度、正定聚、邪定聚、不定聚、をあげ難思議往生は絶対他力の真実証を明らかに示しております。(この教、行、信、証、の構造は第2編第1章の教行信証構造を参照してください。)  “謹んで真実証を顕さば、すなわちこれ利他円満の妙位、無上の涅槃の極果なり。すなわちこれ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づくなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、そくのときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり。法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報:応:化種種の身を示して現わしたまうなり。” 利他円満の妙位:    如来が衆生を利益する利他のはたらき、すなわち他力がまどかに備わった位 無上涅槃の極果:    最上の悟り、佛果 証大涅槃の願:     必至滅度の願 往相回向の心行:    衆生が浄土に往生するための因、如来より回向された信心と称名 畢竟寂滅:       究極のさとり、煩悩を滅した静寂の境地、涅槃 無為法身:       人間のはからいをはなれた、色も形もない如来の法性法身 報:応:種々の身を示し現わしたまう: 一時的に現れてまた姿を消すような如来の変化の身を言う  阿弥陀如来が一如の法性法身から現して衆生の機類に応じて応身化身などいろいろな 姿を示し表れます。これは阿弥陀如来が一切の仏の根源であるという根拠であり阿弥陀如来の法蔵菩薩の因位のとき願を誓われていろいろな形を現し、名を示しています。それは方便の法身でありますが釈尊が弥陀の本願のまことを捉えて衆生に指し示したことを、親鸞は釈尊の出世の本懐と捉え、弥陀:釈尊の二尊教と位置づけ親鸞思想における如来論を形成いたしました。  親鸞は「一念多念文意」で、“真実功徳ともうすは、名号なり。一実真如の妙理、円満せるがゆえに、大宝海にたとえたまうなり。一実真如ともうすは、無上大涅槃なり。涅槃すなわち法性なり。法性すなわち如来なり。宝海ともうすは、よろずの衆生をきらわず、障りなく、へだてず、みちびきたまうを、大海のみずのへだてなきにたとえたまえるなり。この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり。”  「唯信鈔文意」で、“この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち佛性なり。佛性すなわち法性なり。 法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、心もおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうすは御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となずけたてまつりたまえり。この如来を報身ともうす。誓願の業因にむくいたまえるゆえに、報身如来ともうすなり。報ともうすは、たねにむくいたるなり。この法身より、応化等の無量無数の身をあらわして、微塵世界のに無碍の智慧光をはなしめたまうゆえに、尽十方無碍光佛ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明のやみをはらい、悪業にさえられず。このゆえに、無碍光ともうすなり。 無碍は、さわりなしともうす。しかれば、阿弥陀仏は、光明なり。光明は、智慧のかたちなりとしるべし。”  必至滅度の願文を「大経」「如来会」より引用して、かの安楽浄土に生まれようと欲する者はみなことごとく正定聚には入るのであります。なぜかといえば、かの国には邪定聚や 不定聚の機類はいないからであります。又、みな無為涅槃のさとりにかなった虚無の身、無極の体をうけております。  曇鸞の「浄土論註」の三文を引いて、妙声功徳、主功徳、眷属功徳、大義門功徳、清浄功徳の証果を示し煩悩を断ち切らないで往生してそのまま涅槃のさとりを得ることができます。これをどうして思い量ることが出来ましょうか、これこそが難思議往生であります。  道綽の「安楽集」を引用して、弥陀と釈尊が不思議なはたらきを持っていることは同じですが釈尊は自分のはたらきを示さずことさらに弥陀如来の優れていることを示して、すべての衆生をしてことごとく弥陀如来に帰依させたい思いから釈尊は至るところで弥陀如来を讃嘆され衆生して弥陀に帰命するよう薦められました。曇鸞大師の本意も西方の浄土に帰向され「大経」によって「讃阿弥陀仏偈」をつくられ弥陀を讃嘆しております。  善導の「観経疏」玄義分、定善義の文を引用して、あらゆる善悪の凡夫が浄土の往生するのは阿弥陀仏の大願業力を最上とし、弥陀如来はかの浄土へ来なさいよ、又釈尊はこの娑婆から浄土に行きなさいといっております。この穢れた身体を捨ててかの法性常楽のさとりを開きたいものです、この一生が終わったら、かのさとりの涅槃の城に入っていくものですと述べております。  “それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。かるがゆえに、もしは因もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざることあることなし。因浄なるがゆえに、果また浄なり。知るべしなり。”  これまでの明らかにされている教:行:信:証の四法を結んで真実の証を結釈くしています。 “二つに還相回向と言うは、すなわちこれ利他教化の地の益なり。すなわちこれ「必至補処の願」より出でたり。また「一生補処の願」と名づく。また「還相回向の願」と名づくべきなり。「論註」に顕れたり。かるがゆえに願文を出ださず。” 必至補処の願:    第22願のこと、補処とは佛処を補う佛とおなじ最高位の菩薩            すなわち等覚菩薩  還相の回向は浄土に往生したものが、これを一生補処の願ともいい、また還相回向の願ともいう。それは「往生論註」で後に論じられています。  天親の「浄土論」には第5門に出るということは浄土に往生した菩薩が大きな慈悲の心もって、一切の苦しみ悩みを持った衆生を見て自在に化益する身をあらわし、生死の世界、煩悩の林の中に分け入って、神通をもって衆生を教化することを言います。これをひとえに弥陀の本願力の回向によるものでこれを第5門に出るということです。還相回向を明らかにしております。 曇鸞の「浄土論註」の九文を引いて還相回向を明にしています。 * 還相というは衆生が浄土に往生してから自利の智慧と利他の慈悲とを成就して、再びこの迷いの世界に返ってあらゆる衆生を教化し、さとりに向かわせるということであります。往相回向も還想回向もみな衆生の苦しみを除いて迷いの世界を渡らせるための如来の回向であります。これを起観生信といっています。 * 浄土に往生して、かの阿弥陀仏を見たてまつると初地から七地にいたるまで末証浄心の菩薩もついに平等法身をさとり、浄心の菩薩やそれ以上の菩薩達と同じように寂滅廟堂の法を得ることができ、衆生を救済する三昧力を得ることができます。これを観行体相といっています。 * 浄土と仏と菩薩との三種荘厳の功徳成就は法蔵菩薩の願心によって成就されたものであり、みな大乗の正定聚に入って清浄の法身を得ることができます。還相という証果も佛力の成就であります。これを浄入願心と言っております。 * 浄土の菩薩が柔軟心をおこして三界の衆生の虚妄のありさまを知り、これを救いたいという真実の慈悲を起こし迷える衆生を救済し、善巧摂化するのであります。 * 智慧、慈悲、方便、によってあまりの恵みで心が遠離する、菩提心の得の妨げになることから離れること、これを離菩薩障の心であります。 * 菩薩はこのように菩提を妨げるこの三種の法を遠離して菩薩の心を満足させる無染清浄心、安静浄心、楽静浄心をもつこと、これ順菩薩門を説いております。 * 無染清浄心、安静浄心、楽清浄心は三種を一つにまとめると妙薬勝真心となり無上菩提心、一心となる。これすなわち名義摂対となります。 * 身業:口業:意業:智業:方便智業、この五種の功徳はよく清浄佛土に生ずることができ、この五種を和合して往生浄土の法門にかなって自由自在の業が成就でき、すなわちこれを願事成就といいます。 * 漸次に五種の功徳が願事成就して還相の菩薩が衆生を済度することは自由自在で済度しておきながら済度した思いがないような遊戯のような感覚で衆生を救済する、これは弥陀の本願回向によってなされるものであり、自利、利他の行が満足して還相のはたらきがなされる教化地、第五の功徳相:利他満足といいます。  “しかれば大聖の真言、誠に知りぬ。大涅槃を証することは、願力の回向に藉りてなり。 還相の利益は、利他の正意を顕すなり。ここをもって論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。“  釈尊の言葉より大涅槃をさとるということは阿弥陀如来の本願力の回向によるものであり、浄土からこの土に返ってきて衆生を救うという還相の利益は阿弥陀如来の衆生摂化の本意であります。天親は娑婆世界の人々を導いてくださり、曇鸞は往相:還相の二回向はともに弥陀如来の大悲回向によるものであることを示し、他力の深いいわれを述べられました。往還二回向は真宗教義の重要な要素であり特に還相回向は親鸞が独自に開顕して、この証の巻きに顕しております。(往相:還相回向については第2編第3章教の巻の冒頭を参照してください。)   第7章  真佛土の巻  “光明無量之願”  “寿命無量之願”  真佛土巻に明らかにされているところの如来の真佛土とは、第12願の光明無量之願と第13願の寿命無量之願に誓われたものであります。無量寿如来不可思議光如来というのは、これはまったく阿弥陀如来のことで、不可思議光如来というのは、おもいはかることのできない智慧の光をもって一切の衆生を照らして救ってくださる空間的に十方世界に行き渡っている智慧の光、無量寿如来というははかりしれない寿命をもってあらゆる衆生を救ってくださる佛ということで、それは時間的に過去現在未来の三世を貫いて寿命に限りがないゆえに無量寿といい無量光といいます。   |~~~~~~~~~~~~~~十方を照らす 三 | 無            無量光(横)   | 世 | 量   |        阿弥陀仏の覚体     寿     **********    (竪)  「小経」には無量寿と無量光の阿弥陀仏のことを “舎利弗、汝が意において云何。かの仏を何のゆえぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし。このゆえに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民も、無量無辺阿僧祇劫なり、かるがゆえに阿弥陀と名づく。”と説かれています。  光明と寿命の関係はことばを変えて言えば空間と時間、智慧と慈悲、体と相など種々の立場から見ることができます、要するに一体の両義で光明のところに寿命があり、寿命のあるところに光明があるという事になります。  すなわち光寿二無量といいます。  “謹んで真佛土を案ずれば、仏すなわちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土と日うなり。すでにして願います、すなわち光明:寿命の願これなり。”  真佛土の巻の大要を明らかにして、真佛土ははかりしれない不可思議光如来であり、浄土はまたはかりしれない無量光明土であります。この真実の佛真と仏土とは衆生を救いたいという大悲の誓願が報われ、成就されたものであります。これにはすでに法蔵菩薩が因位のときに起こされた願であります。光明無量と寿命無量之願がこれであります。「大経」の第12願の光明無量、第13願の寿命無量の願文が述べられています。 光明と寿命の二無量は阿弥陀仏の徳をしめしたもので、これを自利の立場からいうと、光明は智慧のはたらきをしめし、寿命は涅槃の果徳をしめしたものであります。また利他の立場から言えば光明は空間、寿命は時間をあらわし、三世と十方を通じて仏の利他限りなく続けられることを意味しております。  親鸞は「正像末和讃」の三時讃に “超世無上に摂取し 選択五却思惟して 光明寿命の誓願を 大悲の本としたまえり。”  と讃じ、光寿二無量は阿弥陀仏が衆生を摂化救済するところの根本であることを述べています。  ここで再度「大無量寿経」の第12、第13の成就文を述べ、“無量寿佛の威神の光明はあらゆるものの中でもっとも尊く、諸佛の光明のとうていおよぶところではありません、十方の国土に輝きわたりその徳は聞こえぬところがない、私がその光明をほめるばかりでなく、一切の諸仏、諸菩薩達もみなともども讃嘆されるのであります。もし、人々がその光明のはかりしれぬ功徳を聞いて日夜その名を称え、信心相続するものはその願に応じて浄土に生まれることができ,諸々の聖者達にその功徳をほめたたえられるのであります。さらに仏のさとり開いた時に十方の諸佛や菩薩達がその光明を讃嘆されることは、丁度今、私が無量寿佛の光明をほめたたえるのと同じであります。無量寿佛の寿命はとても長くそれは数えつくすことができるものではない、 たとえ十方世界のあらゆる衆生がみな人間に生まれことごとく声聞や縁覚になり、あいともに一緒に集まってあらゆる智慧を絞り、百千万劫の長い間数えても、その寿命の長いこと知り尽くすことできません。” 「如来会」の第12願の成就文をあげて「大経」を助顕し、「平等覚経」を引いて無量光明土が、安楽浄土の世界に至り無数の佛を供養することができますと。また、「大阿弥陀経」を引いて阿弥陀仏の光明が諸仏のそれを超えて優れているかを述べております。また、他宗である真言密教の「不空羅索神変真言経」を引いて、阿弥陀の浄土が報土であることを示されていると案内しています。 「涅槃経」の十三文を引いて真佛真土をさらに明らかにしています。 親鸞はこの真佛土の巻に他宗の経典と見られる真言密教の「不空羅索神変真言経」と顕教の経典である「涅槃経」とを引用しているのは、この両経典が釈尊一代の経典を総括したものとして一代経のすべてが、ことごとく弥陀如来の身土を明らかにしていることを証したく、ここに顕密両経の経典を引いて佛一代の経典を代表したものが、阿弥陀如来の浄土は真実の報土であることを、また、往生者は必ず佛果を得ることができることを示したかったと思われます。  天親の「浄土論」に言っている。“世尊よ、私は一心に、尽十方の無碍光如来に帰命申し上げて、安楽国に生まれたいと願っております。かの安楽世界のありさまを見るに、はるかに三界を越えて優れ極まりないこと虚空のようで、広大にして辺際がないのです。”  曇鸞の「往生論註」の六文を引いて、真佛土を明らかにしています。 第1に清浄功徳、三界の道を越え離れたところに涅槃界があります。この浄土はどうして不可思議であるというのは煩悩をもっている凡夫でも、かの浄土に生まれると三界の業のつながりもこれを引き止めることができなく、これはすなわち煩悩を断ち切らないで涅槃のさとりを得ることができる誠に不思議なことであります。 第2に性功徳、性というのは根本という意味で安楽浄土は諸法の根本である真如の理に適い、その理にそむかない法蔵菩薩が因位のとき世自在王佛のみもとで修行を積み重ね安楽浄土を成就された。安楽浄土往生する者はどんな人でも不浄の身も心も海のうしおと一味になるが如く真如法性にかなった無為法身を得さしてもらえます。安楽浄土は阿弥陀仏の大慈悲から成就されたものありますから大慈悲を浄土の根本とするというのであります。 第3に大義門功徳、法蔵菩薩の本願力、竜樹菩薩が弥陀を讃嘆されたところの浄土には声聞が多くありましたが声聞はただ三界を逃れるためのさとりでありました。阿弥陀如来は仏道の根本である菩提心をもってその不思議な本願力をもって浄土に往生させ、無上の菩提心を起こさせ下さった。如来のこの声聞に無上の菩薩の心を起こしてくださることは誠に不思議と言うほかありません。 第4に不思議の功徳、 仏法不思議の中にとりわけ阿弥陀如来の不思議に二種類あります、一つには業力で法蔵菩薩の出世の善根と二つは48願の大願を成就させたことであります この二つは正覚を成就された阿弥陀如来がその住持力をもって全てをおさめ取っていられること。 第5に自利利他功徳、 阿弥陀如来には往生する者自身を利益するところの自利の功徳が成就されていることと、他の衆生を化益するところの利他の功徳が成就されていることの両方があります。これ等の浄土の功徳は無量でありそれらはいうまでもなく如来の威神不可思議力によるものです。 第6に不虚作住持功徳、 阿弥陀如来の本願力のことであり、もと因位における法蔵菩薩の48願と、今日果上にある阿弥陀如来の無碍自在の不可思議力とによるものであり、衆生を救いたいという因位の誓願が果上の力を成就し、その果上の力は因位の誓願によったものであるゆえにその因位の願はいたずらに起こってものではなく、また果上の力も無駄ごとにできたものでもなく、果上の不思議と因願の願力とが互いに相応して、少しもくい違いなかったので成就することが出来たのであります。 又、曇鸞の「讃阿弥陀仏偈」の文を引いて真佛土を明らかにしています。 阿弥陀如来は成仏されてから十劫をすごされたがその寿命は誠にはかり知ることが出来ないが佛身の光は法界に行き渡り、迷いにさ迷う衆生を照らしてくださるゆえに阿弥陀如来を頂礼申し上げます。 智慧の光明        無量光         真実明の如来を礼拝申し上げる 解脱の光         無辺光         平等覚 虚空の光明        無碍光         難思議 清浄の光明        無対光         畢竟依 最尊第一の光明      光炎王佛        大応供 菩提のさとりからの光明  清浄光佛        罪や汚れを除かれて 慈悲の光明        歓喜光佛        安慰 衆生の闇を破る      智慧の光佛       弥陀を讃嘆し 全ての時一切の人を通す光明 不断光佛       信心相続して往生するので 佛の光明は佛以外知らない  難思光佛       光明の功徳を讃えられて 光明無量の願によって成仏された 無称光佛     一切の諸仏もほめたたえている 光明の輝きは日月を超えている  超日月光     釈迦如来がいかに讃嘆されてもこれを讃嘆しつくすことがないとおおせられたゆえにこの無等等の如来を礼拝申し上げます。 竜樹菩薩は像法の初めに誕生され、廃れかかった仏教の要綱をととのえ邪見の教えを閉ざ し、正道の道を開かれました。竜樹菩薩こそこの世の人々を導く眼であり、釈尊の予言に応じて自ら歓喜の地の位にのぼり、阿弥陀佛に帰依して安楽国に往生されました。“わたくしは無始よりこのかた三界をへめぐり、迷いの世界にさ迷っている一念一時に作る悪業によって足は六道につながれ三塗にとどまっています。願わくは如来の慈光、私を護って菩提心を失わないようにしてください。私は阿弥陀仏の智慧と功徳のみ名をほめたたえ、十方の有縁の人々に聞かせ安楽浄土に生まれたいと思うものを、みな願いの通りにしてあげてやりたい。 あらゆる功徳を一切の衆生に施してともに往生するようにしてやりたい。不可思議光の如来に帰命し、一心に二心なく帰依し礼拝申し上げる。十方三世の佛たちは同じく一如に随って正覚をひらかれました。権実の二智はまどかにそなわって、そのさとりは平等にして変わるところがありません。おのおのその縁に従って衆生を済度されることは種々さまざまであります。私が阿弥陀佛に帰命するのは、それはすなわち一切の諸仏に帰命することであります。私が弥陀一仏を讃嘆するのは、あまねく十方の無碍人(諸佛)を讃嘆することであります。ゆえに十方の佛たちを心こめて頭を下げて礼拝申し上げております。”  善導が「観経疏」玄義分の文で述べております。阿弥陀仏の浄土は報土であるのか、化土であるのか答えて言っております。それは報土であって化土ではありません。「大乗同性経」に西方の浄土および阿弥陀仏は報佛報土であると説かれており又、「観無量寿経」にも法蔵菩薩の修行の時、願を誓んし、成就して今成仏されている。すなわちこの阿弥陀仏は因位の願に報われて報身になっています、その土地がすなわち報土であります。「観経」にも臨終の時に及んで阿弥陀仏は報身である身でありながら化佛の人を伴って行く所はもちろん報土であります。小乗の聖者、障りの重い凡夫は一人では報土に入ることができない、それは化佛の人であるからです。それが阿弥陀如来の報身佛に伴われて、その願力に乗託することで、それが強い力となり凡夫も聖者もともに報土に連れてゆかれ、浄土に往生することが出来るのであります。 序文義の文より、「観経」の韋提希夫人が特に阿弥陀浄土を選んで求めた理由を述べています。弥陀の本国すなわち極楽浄土は弥陀如来の48願に報われて成就されたもので、この極楽浄土をよりどころにして慈悲の摂化をあらわされ、智慧はきわまりがなく仏の慈悲ははかりがたく広く衆生のために法を説いてその教は一切の衆生をうるおし、あまねく群生を救って十方の諸仏は心を同じくして阿弥陀仏をほめたたえるのであります。釈迦如来は韋提希夫人に浄土を選ぶよう薦められたのであります。 定善義の文より、西方の静寂無為のみやこは究竟の世界で有無のはからいを離れております。ここに生まれた者は大悲心を起こして十方の世界に遊び、分身をあらわして衆生を利益することは一様であり、差別がない世界であります。 はかりしれぬ昔より流転し、六道の境界をへめぐって、どこへ行っても楽しみがなく、ただ生死の声を聞くばかりでした。 ここでかの涅槃のみやこに入りたいものです。 法事讃の文より、極楽は無為の涅槃界であります。おのおの因縁により自力の善根で往生することは出来ません、ゆえに如来は念仏の要法を選んで、弥陀の名号を念ずるように教えられました。弥陀に従って自然の浄土に還る、この自然の境界がとりもなおさず弥陀の浄土であります。それは無漏の世界であり、無生の境界であります。行くも帰るも常に仏に随って無為のさとりをひらくのであります。 憬興師の「述文讃」を引いて真佛土の徳である十二光讃嘆されています。内容は先の曇鸞の「讃阿弥陀仏偈」の十二光とまったく同じでありますので省略いたします。  “しかれば、如来の真説、宗師の釈義、明らかに知りぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕わす。惑染の衆生、ここにして性をみることあたわず、煩悩に覆わるるがゆえに。「経」(涅槃経)には「我、十住の菩薩、少分仏性を見ると説く」と言えり。かるがゆえに知りぬ、安楽佛国に到れば、すなわち必ず仏性を顕わす、本願力の回向に由るがゆえに。また「経」(涅槃経)には「衆生、未来に清浄の身を具足荘厳して、仏性を見ること得」と言えり。  こいうわけで、釈迦如来の説法やら論釈によって安養の浄土は真実の報土であることが明らかにされていることを知りました。煩悩の衆生はこの土では仏性を見ることができません。それはこの土では煩悩に覆われているからであります。 安楽浄土に往生すること、そこが間違いなく仏性を顕わすのであります。それは阿弥陀如来の本願力の回向に由るからであります。  “しかるに願海について、真あり仮あり。ここをもってまた仏土について、真あり,仮あり。選択本願の正因に由って、真佛土を成就せり。真仏と言うは、「大経」には「無辺光佛:無碍光佛」と言えり。また「諸佛中の王なり、光明中の極尊なり」(大阿弥陀経)と言えり。「論」(浄土論)には「帰命尽十方無碍光如来」と日えるなり。真土と言うは、「大経」には「無量光明土」(平等覚経)と言えり。あるいは「諸智土」(如来会)と言えり。 「論」には「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」と日うなり。往生と言うは、「大経」には「皆受自然虚無之身無極之体」と言えり。「論」には「如来浄華衆正覚華化生」と日えり。または「同一念仏して無別の道故」(論註)と云えり。また「難思議往生」(法事讃)と云える、仮の佛土とは、下にありて知るべし。すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。 かるがゆえに知りぬ、報佛土なりということを。良に仮の佛土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを「方便化身:化土」と名づく。真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷失す。これに因って、いま真佛:真土を顕わす。これすなわち真宗の正意なり。経家:論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、特に泰持すべきなり。知るべしとなり。“  報と言うこと考えると阿弥陀如来の因位の誓願に報われて成就された浄土であるから報と云うのであります。 阿弥陀如来の誓願には真実と方便があります。 成就されあた仏土にも真実と方便があります。  選択本願の正因によって真佛土を成就するのは、 真佛とは、       無辺光佛          無碍光佛             諸佛中の王         光明中の極尊             帰命尽十方無碍光如来 真土とは        無量光明土         諸智士             究竟して虚空のごとし広大にして辺際なし 往生とは        皆受自然虚無之身無極之体             如来浄華衆正覚華化生             同一念仏して無別の道故             難思議往生 浄土には真実と方便に分かれています、方便も大悲の誓願によって報われ成就されたものであり報の仏土でありますが、方便の浄土には往生いたしますが、その業因が千差万別であるため、真実と方便の区別を知らないために、如来の広大な恩徳を見失っています。ここに真佛と真土を明らかにして、これが真宗の正しい本意であることを記しました。 釈尊が弥陀の本願の教え~~法の月に値遇し~~それを指し示した釈尊の仰せ、竜樹、天親菩薩等の説示、曇鸞、善導の解釈、これ等を仰いで特に奉持すべきであり、良く知るが良ろしです。 第8章    方便化身土の巻  “無量寿佛観経の意       至心発願の願         邪定聚機                      双樹林下往生  阿弥陀経の意なり          至心回向の願         不定聚機                      難思往生”  親鸞は第19願を至心発願の願、十方の衆生で諸々の善根を修しまごころを込めて浄土に往生したいと願うものは、臨終に来迎して浄土に往生させるという願でありますが、これは対象となる機類は自分の力をたのんで諸々の徳や善を修め浄土に生まれようとするもので、これは「観経」で説かれています往生のことであります。双樹林下往生とされ、この機類を邪定聚の機と定められています。また、第20願を至心回向の願、十方の衆生で自力念仏で名号を称えて、それを因として浄土に生まれたいと願うもので、それを必ず果たしてやりたいという願であります。これは「小経」に説かれています往生のことで難思往生といい、その機類は不定聚の機と名づけられております。  親鸞の入信経路は三願転入という言葉で説明されていますが、第19願、第20願の方便の願を捨てて、第18願の本願に転入することを云います。三願の関係を教判づけたて六三法門といいます。 六三法門 三経   三願    山門     三蔵    三機    三往生         大経   第18    弘願     福智    正定聚   難思議     真 観経   第19    要門     福徳    邪定聚   双樹林下    仮  小経   第20    真門     功徳    不定聚   難思      仮 教行信証の6巻のうち第1巻より第5巻は真実が明かされ、第6巻の方便化身土は方便が明らかにされているわけであります。真実と方便を明らかにすることにより、より真実を明らかにするという、方便を以って真実へ誘引されていることが真佛土の巻きの結文にも明らかに示されています。従って、方便ということは権仮方便ということでそれは真実に入るための方法、便宣であるということであります。弘願真実の教えに入らしめるための仮に設けた方法手段であります。  “謹んで化身土を顕わさば、佛は「無量寿佛観経」の説のごとし、真身観の仏これなり。 土は「観経」の浄土これなり。また「菩薩処胎経」等の説のごとし、すなわち懈慢界これなり。また「大無量寿経」の説のごとし、すなわち疑城胎宮これなり。“ 懈慢界:---弥陀の浄土に往生する途中にある国、快楽に満ちて、往生人はこれに愛着して弥陀の往生に生まれようとしない。 疑城胎宮:---疑惑の行者のこもる城廓、阿弥陀如来の化土、佛智を疑う行者は往生しても蓮華の中に包まれる様な所でなく、人の胎内に宿るような三宝を見聞することができないところ  “しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満:権実の法門に入るといえども、真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもって希なり。偽なる者は、はなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋げし。ここをもって釈迦牟尼佛、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまう。すでにして悲願います。「修諸功徳の願」と名づく、また「臨終現前の願」と名づく、また「現前導生の願」と名づく、また「来迎引接の願」と名づく。また「至心発願の願」と名づくべきなり。” 穢悪の含識:---穢れ多く悪業の重い衆生のこと 九十五種の邪道:---釈迦の時代の六師外道というのがあり、その各々に十五人の弟子がおり、師弟合わせて九十六人、小乗の一人を引いて九十五種の外道 半満:権実:---一代仏教の総称 福徳蔵:---「観経」に説かれています定散二善、第19願の修諸功徳 修諸功徳の願:---諸々の善根を修して浄土に往生願う者を救う願 臨終現前の願:---行者の臨終に当たって弥陀がその前に現れて来迎するという願 来迎引接の願:---臨終に阿弥陀仏が諸々の聖衆とともに来て、浄土に迎えてくださる願 しかし、濁ったこの世の人々煩悩に穢れた衆生もようやく九十五種の外道の法を離れやっと仏教の半満権実の法門に入ったとしても本当に修めるのははなはだ少なく偽りのものがはなはだ多いのであります。こういう由で阿弥陀如来、釈迦如来の二尊の能化をもって、要門の願、第19願を非願して、それらの各願を名ざして、最後に至心発願の願、五名をあげております。  ここで、「大経」の第19願を引証して、化身土の巻には要門と真門を明らかにしているのですが、まず、要門の第19願をかかげて諸行往生のありさまの五名をあげております。  しかし、この願意は諸行を修することとその来迎とが誓われ、真宗においては次の第20願とともに方便の化土の因としております。今、この第19願は定散二善の諸行を修する要門の教えで、観経の往生、双樹林下往生、邪定聚の機類であり、またこの願には臨終に当たって仏が来迎することが誓われております。  親鸞は「未灯鈔」に “来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆえに。臨終ということは、諸行往生の人に言うべし。いまだ、真実の信心を得ざるがゆえなり。――――真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなしに、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。”  「悲華経」の第19願に当たるところを引いて助顕しています。  “この願成就の文は、すなわち三輩の文これなり、「観経」の定散九品の文これなり。” 三輩の文:---「大経」下巻の始にあって、浄土の往生人に上輩、中輩、下輩、があること 定散九品:---定善と散善まとめ九品、 「観経」全体の説を指す。  「大経」の成就文を指示するところで、ここに経文を引かないのは「観経」一部が第19願を開設する成就文と見なされたからであります。「大経」上巻の道場樹や講堂などの文を引いて化土の相状を示しています。 「大経」ならびに「如来会」の疑城胎宮や不可称計の文を引いて化土の相状を明らかにしています。  善導の「定善義」に佛智を疑うものは蓮華の中に含まれ出ることができないと説かれています。僻地懈慢界に生まれるといわれ、あるいは宮胎に落ちると説かれています。  憬興師の「述文讃」には、佛智を疑うことによって、かの浄土に生まれても僻地にあっても如来の教化に預かることが出来ないゆえに、もし胎生したならば、よろしくこの疑いを捨てなければなりません。  源信の「往生要集」の文に懐感禅師の「群疑論」より引用して、はじめに発心して阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願った衆生もその途中で、懈慢界の楽しみに深く執着して、弥陀の浄土に進むことができなくなったことは、それは雑修のものは信心が強固でなく、雑業を捨てて、専ら念仏を修するならばそれは信心強固であれば、必ず極楽往生することが出来ます。真の報土に生まれるものはいたって少なく、化土生まれるものは少なくない。ゆえに「菩薩処胎経」と「観経」とは矛盾することがないと述べています。  “しかればそれ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門の中に、第18の願は「別願の中の別願」なりと顕開いしたまえり。「観経」の定散諸機は「極重悪人唯称弥陀」と勧励したまえるなり。濁世の道俗、善く自ら己が能を思慮せよとなり。知るべし。” そこで源信の解義をみると「往生要集」の念仏証拠門の中には弥陀の第18願は別願の中の別願である事が明らかにされています。「観経」に説かれている定散諸善の機類も自力の中のはからいを捨てて極重悪人と同じように弥陀の名号を称えよと薦められています。濁世の道俗たちは、よく自分の能力を考えるが良いことであります。よく知るべきであります。  “問う。「大本」(大経)の三心と、「観経」の三心と、一異いかんぞや。答う。釈家(善導)の意に依って、「無量寿佛観経」を案ずれば、顕彰隠密の義あり。「顕」というは、すなわち定散諸善を顕わし、三輩:三心を開く。しかるに二善:三福は報土の真因にあらず、諸機の三心は自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなわちこれ「顕」の義なり。「彰」というは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多:闍世の悪逆に縁って、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなわちこの経の隠彰の義なり。  ここをもって「経」(観経)には「教我観於清浄業処」と言えり。「清浄業処」言うは、すなわちこれ本願成就の報土なり。「教我思惟」と言うは、すなわち方便なり。「教我正受」と言うは、すなわち金剛の真心なり。「諦観彼国浄業成者」と言えり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。「広説衆譬」と言えり、すなわち十三観これなり。「汝是凡夫心想るい劣」と言えり、すなわち悪人往生の機たることを 彰すなり。「諸佛如来有異方便」と言えり、すなわちこれ定散諸善は方便の教たることを顕わすなり。「以佛力故見彼国土」と言えり、これすなわち他力の意を顕すなり。「若佛滅後諸衆生等」と言えり、すなわちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕わすなり。「若有合者名為そ想」と言えり、これ定観成じがたきことを顕わすなり。「於現身中得念仏三昧」と言えり、すなわちこれ、定観成就の益は念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕わす、すなわち観門をもって方便とせるなり。「発三種心即便往生」と言えり。また「複有三種衆生当得往生」と言えり。これらの文に依るに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。良に知りぬ、これいましこの経に顕彰隠密の義あることを。二経の三心、将に一異を談ぜんとす。善く思量すべきなり。「大経」「観経」、顕の義によれば異なり、彰の義に依れば一なり。知るべし。“ 「大本」(大経)の三心:---大経の至心:信楽:欲生の三心 「観経」の三心:---至誠心:信心:回向発願心の三心 顕彰隠密:---表面にある意味と裏面にある意味 三輩:三心:---上:中:下の三種類の人の起こす自力の三心 二善;三福:---定散の二善と散善の世の世:戒:行の三福 利他の一心:---如来の回向された他力の信心 欣慕浄土の善根:---浄土を願いし善根 清浄業処:---観経の顕説では諸仏の浄土、隠彰では弥陀の浄土 思惟:---顕では定散13観の方便、隠では弥陀の浄土に往生する手立てとしての定散二善 正受:---顕説では定善13観の観想、隠彰では他力回向の信心を受領すること 諦観彼国浄業成者:---顕では浄土を観することであり、隠では他力信心の人こと 広説衆譬:---顕では定善13観をひろく説く、隠では他力の真実に入らしめる方便を説く 汝是凡夫心想るい劣:---顕では韋提希夫人の心が劣っていることを示し、隠では本願の救いの対象は愚かな悪人であることを示しました 諸佛如来有異方便:---顕では浄土を現ずる13観のことで、隠では定散の諸善の他力の本願の教に入らしめる方便を顕わしています。 以佛力故見彼国土:---顕では釈尊の力によって光台に表す諸仏の浄土をいい、隠では弥陀の本願によって浄土に往生してその国土を見ること 若佛滅後諸衆等:---顕では韋提希夫人が未来の衆生のために安楽浄土を観ずる法を教えたまえ願ったことを意味し、隠では仏滅後の未来の衆生が本願の救いの対象であることを表す 若有合者名為そ想:---顕では第8像観において、定中に聞くところの妙法が経説に合わねば妄想であり、あったとしても粗雑なおもいで、隠では自力の定善観法は成就しがたい 於現身中得念仏三昧:---顕では第8像観によって真実の佛身を観ずることが出来ますが、隠では定善の観法を成し遂げて得るところの益は佛名を称える称名念仏である事を表しています。 発三種心即便往生:---顕では観経の自力の三心で往生することが出来る意味で、隠では大経の三心によって報土に往生する 複有三種衆生当得往生:---顕では殺生をしない世福のもの、戒律を守る戒福、大乗の行を修する行福で衆生は往生できる、隠では本願を信ずる一切の衆生は往生することが出来る 三種の三心:---定心と散心と他力回向の三種の三心 二種の往生:---真実報土の往生(即往生)と方便化土の往生(便往生)との二種の往生  親鸞は顕彰隠密で「観経」を見ました。方便をあたかも真実のように説いて方便から真実を誘引する手法を用いたものであります。隠顕と真仮とは自からはっきりと区別されるべきもので、真実はあくまで真実、方便はあくまで方便であるということであります。価値判断をもって、真仮廃立することです。経典の中に二法を並べて説いて、一法を採って他の一法を捨てることであります。隠顕とは一つの経典に一法しか説いていないが一方が表面ではっきりと説かれているにもかかわらず、裏面では別の法を明らかにしていることであります。 「観経」では一部全体を眺めると表面は定散二善の11観法が説かれていますが、これを裏面から見ますと釈尊の本意はまったく他力弘願の一法を説いているということであります。 すなわち、弘願他力の念仏が説かれているということであります。大経の三心と観経の三心を比較することが親鸞の隠顕釈でありますが、観経の三心を顕説の立場から見ますとそれはすべて自力の三心に他ならないのですが、隠顕の立場から見ますとそれは本願の三心と同一のものであり、至誠心は真実心であり、至心にあたり深心は深く本願を信ずる心として信楽にあたり、回向発願は弥陀の浄土に往生したいという欲願することで欲生に当たるということになります。  親鸞は「唯信鈔文意」で “一心かくるというは、信心のかくるなり。信心かくるというは、本願真実の三信のかくるなり。「観経」の三心をえてのちに、「大経」の三信をうるを、一心をうるとはもうすなり。このゆえに「大経」の三信心をえざるをば、一心かくるともうすなり。この一心かけぬれば、真の報土に生まれずというなり。「観経」 の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、「大経」の三信をえんとねがう方便深心と至誠心としるべし。” と記され「観経」の三心に真仮のあることが示されています。また、 「浄土和讃」の観経讃に “定散諸機各別の 自力の三心ひるがえし 如来利他の信心に 通入せんとねがうべし。“  善導は「観経」に隠顕のあることを釈文十四をあげて引証しております。 1)「観経」玄義分の文で「観経」には要門と弘願文のあることを示された。 2)玄義分宗旨門の文で念観両宗のあることを示した。ここで「観経」の宗体が観佛三昧か念仏三昧かの議論になりますが、聖道の諸師は「観経」を見るにその宗体を観佛三昧すなわち観念や観法を説いた経であると見ました。善導は両体があることを明らかにしました。 しかし、先にも述べられているように、経末の念仏の一法を付属する流通分から一経を逆見すると「観経」一部の宗要はただ念仏一法にあり、この念仏こそが付属されたものに他ならないものであります。ゆえに法然は善導の本意を受けて「選択集」で玄義分の釈文を引き念観廃立の釈義を施され、念仏為宗が一宗の帰趣であることが述べられました。この立場からすれば、観佛三昧は上根の機類のために説かれた方便で念仏三昧が一宗の経の真髄であることが明らかであります。 3)序分義証信序の文で如是を解釈した文によって隠顕の意味を示され。 4)序分義散善顕行縁の文で佛意を示して。 5)散善義上上品釈の文で三心釈の文によって自力の三心を示して。 6)7)8)序分義の発起序の二文、散善義の後序の一文、定散二善の説相は他力の信心に帰入せしめるための方便を示し。 9)往生礼讃前序の文、要門としての自利各別の三心を示し。 10)往生礼讃前序の文、雑修の失を判ずるのを示し。 11)観念法門、護念縁の文、雑業のものは如来の光明に摂取されないことを示し。 12)法事讃、転経分の文、釈尊一代の摂化方便を示し、よろしき随いて方便して群萌を化したまう、種々の法門みな解脱します。 13)般舟讃の正讃文で聖道を捨てて浄土の易行に帰入することを示し、一万却の長い間修行を積むことはなかなか難しい。この世に生命のある限り専ら念仏をするがよい。生命があえればすぐさま仏が迎えにあずかってきます。 14)般舟讃定散倶回の文、定散自力捨てて弘願他力に転入せしめる方便の教え、定散二善の行をともに回向して浄土に往生するがよろしい。これは釈迦如来の特異の方便であります。韋提希夫人はあさましい女性の姿であり、貪欲と瞋恚の煩悩ずくめの凡夫であります。  曇鸞の「浄土論註」に功徳の相に二種類があり、一つには凡夫の有漏の心によって出来た功徳、真如法性にかなっていないので不実功徳であります。すなわち自力の行業は不実功徳であり他力の名号は真実功徳であります。  道綽の「安楽集」の大集経と月蔵分の二文を引いて、わが末法の時に至っては、たくさんの衆生が行に励み道を修めても一人としてさとりを開くものはいない、思うに今まさに末法の時期であります。この五濁悪世にはただ弥陀の浄土の一門だけがさとりに至る路であります。一万却という長い修行が終わらないうちには、迷いの火宅を逃れることは出来ません。 各自が努力し修行に励んでも果報は異外にも虚偽に満ちたものであります。  “しかるに今「大本」(大無量寿経)に拠るに、真実:方便の願を超発す。また「観経」には方便:真実の教えを顕彰す。「小本」(阿弥陀経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもって三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなわちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。” 真門:---名号の真実を明らかにして弘願の教えに導く法門のこと、小経に説かれている第20願の立場で、自力の念佛往生しようとすること。 大経に真実願と方便願すなわち第18願と第19願があり、観経には隠顕の二面があることは前記で述べました。この観経の説相に準じて小経にも隠顕があります。これは三経全体にわたって真仮と隠顕がその性格から現れているものです。小経の法は他力の念仏ですが機が自力の念仏のものでありますから方便の教えといわれています。大経、観経、小経の宗とするところはそれが第18願の選択本願にあるということであります。したがって、大経に説かれています第18願の本意と観経、小経に説かれている隠彰の立場における念仏とは全く同一のものであります。観経と小経は隠顕があり、大経には真仮であくまで真実は真実であり方便は方便のためであります。その真価をはっきりさせるため真仮の廃立といわれるものです。隠顕は方便を真実であるように説いて方便から真実を誘引していく方法であります。  “これに依って方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願は、すなわちこれ臨終現前の願なり。行は、すなわちこれ修諸功徳の善なり。信は、すなわちこれ至心発願欲生の心なり。この願の行信に依って、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正:助:雑の三行を出だせり。この正助の中について、専修あり雑修あり。機について二種あり、一つには定機、二つには散機なり。また二種の三心あり、また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心は、すなわち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。すなわちこれ胎生辺地:双樹林下の往生なり。即往生とはすなわちこれ報土化土なり。またこの「経」に真実あり。これすなわち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕わさんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願信を宣説したまう。報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。ここをもって「大経」には「信楽」と言えり。如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆえに「信」と言えるなり。「観経」には「深心」と説けり。諸機の浅信に対するがゆえに「深」と言えるなり。「小本」には「一心」と言えり。二行雑わることなきがゆえに「一」と言えるなり。また一心について 深あり浅あり。「深」とは利他真実の心これなり、「浅」とは定散自利の心これなり。“ 臨終現前の願:---第19願、臨終に阿弥陀仏が来迎されて現前すること 至心発願欲生の心:---第19願の心のこと、自力の善をもって浄土に生まれたいと思う心のこと 要門:---定散二善の諸行を修すること 正:助:雑の三行:---五正行の中の第四の称名を正定業といい、他の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の四つの助行といいます。この五行以外を雑業といいます 定機:---精神を統一して観法をこらす行者 散機:---日常生活を営みながら悪をやめ善に励む 即往生:---真実の報土に住すること 便往生:---方便の化土に往生する 胎生辺地:---浄土のかたほりと言う事で化土のこと 双樹林下の往生なり:---第19願の行者が方便化土に往生すること 第19願に真実と方便とのあることを示して、その要門の方便から正:助:雑の三行のでることを示し、観法にも真実と方便の両面があり顕彰隠密の義より、観経には真実の弘願念仏が説かれており、これは金剛の真実信心を説いて、摂取不捨の他力の救いをあらわそうとしている。釈迦は弥陀の第18願すなわち信楽の願を説かれ、真実の報土に往生する因は第18願の信楽の願心に他ならない。 観経では深心、他力の回向の真実心、小経では一心、念仏の一行だけを修める一心を言っております。  “宗師(善導)の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸:頓すなわちおのおの所宣に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を豪れり」(玄義分)と 云えり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかって開かず」(定善義)と言えり。いかに況や無相雑念誠に獲がたし。かるがゆえに「如来懸に末代罪濁の凡夫を知ろしめす。立相住心なお得ることあたわじと。いかに況や相を離れて事を求むるは、術通なき人の、空に居て舎を立てるがごときなり」(定善義)と言えり。「門余」と言うは、「門」はすなわち八万四千の仮門なり、「余」はすなわち本願一乗海なり。” 立相住心:---立相とは住心の方向と場所、西方浄土のすがたを観じて心をそれに専注するこ     と 門:---八万四千の仮門 余:---それ以外のこと、すなわち本願一乗海のこと 仏教には八万四千の法門があり、自力の行は修し難たく本願の一乗海によるべきことが説かれています。  “おおよそ一代の教について、この界の中にして入聖得果するを「聖導門」と名づく、「難行道」と云えり。この門の中にて、大小、漸頓、一乗:二乗:三乗、顕密、堅出:堅超あり。 すなわち自力、利他教化地、方便権門の道路なり。安養浄刹にして入聖証果するを「浄土門」と名づく、「易行道」と云えり。この門の中について、横出:横超、仮;真、漸:頓、助:正:雑行、雑修:専修あるなり。「正」とは五種の正行なり。「助」とは名号を除きて己外の五種これなり。「雑行」とは正助を除きて己外をことごとく雑行と名づく。これすなわち横出:漸教、定散:三福、三輩:九品、自力仮門なり。「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離るる、これを「横超他力」と名づくるなり。これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり、これすなわち真宗なり。すでに「真実行」の中に顕し畢りぬ。それ雑行:雑修、その言一つにしてその意これ異なり。「雑」の言において、万行を摂入す。五正行に対して、五種の雑行あり。「雑」の言は、人天:菩薩等の解行雑せるがゆえに「雑」と日えり。本より往生の因種にあらず、回心回向の善なり、かるがゆえに「浄土の雑行」と日うなり。また「雑行」について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。「専行」とは、専ら一善を修す、かるがゆえに「専行」と日う。「専心」とは、回向を専らにするがゆえに「専心」と日えり。「雑行:雑心」とは、諸善兼行するがゆえに「雑行」と日う、定散心雑するがゆえに「雑心」と日うなり。また「正:助」について、専修あり雑修あり。この雑修について、専心あり雑心あり。「専修」について二種あり、一つにはただ佛名を称す、二つには五専あり。この「行業」について専心あり雑心あり。「五専」とは、一つには専礼、二つには専読、三つには専観、四つには専名、五つには専讃嘆なり、これを「五つの専修」と名づく。専修その言一つにして、その意これ異なり。すなわちこれ「定専修」なり、また「散専修」なり。「専心」とは、五正行を専らにして二心なきがゆえに、専心と日う。すなわちこれ定専心なり。またこれ散専心なり。「雑修」とは、助正兼行するがゆえに雑修と日う。「雑心」とは、定散の心雑するがゆえに雑心と日うなり。知るべし。おおよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集)と云い、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す、感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)と云えり、信和尚(源信:往生要集)は感師に依れり、空聖人(源空:選択集)は導和尚に依りたむなり。経家に拠りて師釈を披くに、雑行の中の雑行雑心:雑行専心:千行雑心なり。また正行の中の専修専心:専修雑心:雑修雑心は、これみな辺地:胎宮:懈慢界の業因なり。かるがゆえに極楽に生まるといえども、三宝を見たてまつらず、仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願、良に由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよ明らかなり。” 顕:密:---顕教と密教 堅出:堅超:---自力の漸教と自力の頓教 横出:横超:---浄土門の方便教と真実教 定散心雑る:---自力心のまじわること 仮令の誓願:---第19願のこと、真実の第18願に誘引するための仮に誓われた方便の願 仮門の教:---第19願の方便の教えで観経の教説をいう 欣慕の釈:---観経の教説は真実の世界を恋い慕うための方便に他ならないと解釈した善導の釈意  親鸞は聖道門と浄土門とを対顕し、聖道を権仮の教えとして浄土の真実の教えに入らせるための方便の教えに他ならないとし、浄土門の中に真実の教えと方便の教えを解明いたしました。親鸞は雑行とは本来浄土往生の行でない聖導門の諸行を浄土に回向して往生をもとめてもそれはできない。それは自力の行として廃すべきとしました、また、雑行の他に雑修は、五正行、すなわち、読誦:観察:礼拝:称名:讃嘆供養の五正:助の中の第4番目称名のみが他力大行の名号であり、正定業であって、その他の四つは助業であり、その称名の正定業から生ずるところの報恩行にほかならないと領解しております。本願他力の真髄に達しないものが、助業を称名の功を資助するものと思い込み、正助二業を並べて修して往生の因にするのはいまだ真に他力の信心を得てないからであります。正定の業とは報土往生の業因をさすものとして、しかもその業因の定まるのは一心専心の他力の本願を信ずる時であると示されています。  「一念多念文意」に“「一心専心」というは、「一心」は、金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず余の仏を念せず。専修の本願のみをふたごころなくもっぱら修するなり。修はこころのさだまらぬをつくろいなおし、おこなうなり-----------「是名正定之業、順彼願故というは弘願を信ずるを報土の業因とさだまるを、正定の業となづくという。仏の願にしたがうゆえに、もうす文なり。”  “二経の三心、顕の義に依れば異なり。彰の義に依れば一なり。三心一異の義、答え竟りぬと。”  観経の三心は顕説の立場では自利各別の三心で大経の三心すなわち他力の信心とは異なりますが、その隠彰の立場からすれば同一であります。  “また問う。「大本」と「観経」の三心と、「小経」の一心と、一異いかんぞや。答う。いま方便真門の誓願について、行あり信あり、また真実あり方便あり。「願」とは、すなわち植諸徳本の願これなり。「行」とは、これに二種あり。一つには善本、二つには徳本。「信」とは、すなわち至心回向欲生の心これなり。「機」について定あり散あり。「往生」とは、これ難思往生これなり。「佛」とは、すなわち化身なり。「土」とは、すなわち疑城胎宮これなり。「観経」に准知するに、この経にまた顕彰隠密の義あるべし。「顕」と言うは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本:徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして、難思の往生を励む。ここをもって「経」(襄陽石碑経)には「多善根:多功徳:多福徳の因縁」と説き、「釈」(法事讃)には「九品ともに回して,不退を得よ」と云えり。あるいは「無過念仏往西方 三念五念佛来迎」と云えり。これはこれこの経の顕の義を示すなり。これすなわち真門の中の方便なり。「彰」と言うは、真実難信の法を彰す。これすなわち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信海に帰せしめんと欲す。良に勧めすでに恒沙の勧めなければ、信もまた恒沙の信なり。かるがゆえに「甚難」と言えるなり。「釈」(法事讃)に、「直ちに弥陀の弘誓重なれるに為って、凡夫念ずればすなわち生まれしむることを致す」と云えり。これはこれ隠彰の義を開くなり。「経」に「執持」と言えり、「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり、「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり、「心」の言は真実に名づくるなり。この「経」は、大乗修多羅の中の無問自説経なり。 しかれば、如来、世に興出したまうゆえは「恒沙の諸佛の証護の正意」ただこれにあるなり。ここをもって、四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて濁世の邪偽を導く。三経の大綱、顕彰隠密の義ありといえども、信心を彰して能入とす。かるがゆえに「経」の始に「如是」と称す。「如是」の義はすなわち善く信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもって金剛の真心を最要とせり。真心すなわちこれ大信心なり。大信心は希有:最勝:真妙:清浄なり。何をもてのゆえに、大信心海ははなはだもって入りがたし、佛力より発起するがゆえに。真実の楽邦はなはだもって往き易し、願力に藉よってすなわち生ずるがゆえなり。いま将に一心一異の義を談ぜんとす。当にこの意なるべしとなり。三経一心の義、答え竟りぬ。” 方便真門の誓願:---自力の念仏をもって浄土に生まれたいと願う小経に説かれている第20願の立場、名号の真実を明らかにして弘願の教えに導く法門 植諸徳本の願:---第20願のこと、あらゆる功徳の根本である名号を自己の善根として植える願ということ 善本:---南無阿弥陀仏の名号には一切の善根がまどかにそなわっている因から名づけられた 名号のこと             徳本:---名号にあらゆる功徳が備わっているので果から名づけたという 三念五念佛来迎:---三声でも五声でも念仏するものを如来はこれを迎えて浄土に導かれるということ。 無問自説経:---問うものがないのに仏が自らすすんで説かれた経典 四位弘経の大師:---衆生が信頼して帰依することの出来る四種の菩薩 小経の隠顕について観経に准じて隠顕の義があるとされています。小経には表面に自力の念佛が説かれていますが裏面には他力の念仏が説かれています。小経の隠顕にかぎっているわけで、すなわちその法は弘願念仏の一法であるにかかわらず機の失によってそれが自力の念仏となっていますこの自力の念仏が小経の顕説の立場であり、この顕説の方便を説きながら弘願他力あらわし、無碍の信心に帰せしめるところが隠彰の義となっております。その部分は往生の因を説くところの、すなわち小経の“舎利弗よ、若し善男子や善女人があって、阿弥陀仏の慈悲を説くのを聞き、善くその名号を信じて、あるいは一日、あるいは三日と時の多少を考えないで念仏し、一心に思いを乱さないようにすれば”とあるところに隠彰があるとされています。すなわち一心不乱ということを考えてみるにこれは他の善根に心かけることなく、ただ阿弥陀仏のみを信じて称名を称えることを言うのであって、すなわち顕説の表の立場で“「顕」と言うは経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本:徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして、難思の往生を勧む。”これが自力の信心で隠彰の裏の立場は“「一」の言は無二に名づくる言なり、「心」の言は真実に名づくなり。”とあるのが他力の信心であります。  “それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。真門の方便について、善本あり徳本あり。また定専心あり。また散専心あり、また定散雑心あり。「雑心」とは、大小:一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。良に教は頓にして根は漸機なり、行は専にして心は間雑す、かるがゆえに雑心と日うなり。「定散の専心」とは、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを「自力の専心」と名づくるなり。「善本」とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。かるがゆえに善本と日うなり。「徳本」とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず、十万三世の徳号の本なり。かるがゆえに徳本と日うなり。しかればすなわち釈迦牟尼佛は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。すでにして悲願います。「植諸徳本の願」と名づく、また「係念定生の願」と名づく、また「不果遂者の願」と名づく。また「至心回向の願」と名づくべきなり。” 円修至徳:---名号の徳のことで弥陀如来の因位の円満な修行によって成就された名号の功徳 真門の方便:---第20願のこと、ここでは自力の称名を指しています 助正間雑の心:---五正行の中の第4の称名は正定業であるのに対して他の4業は助業であるにもかかわらず同一視することを間雑といい、自力の心をいっています。 罪福を信ずる心:---佛智を疑って信ぜず、そのために自分の罪を恐れて自分の福業をつのること、すなわち自力をたのむこと 果遂の誓い:---第20願のこと、名号を称えてその徳を差し向けて浄土に生まれたいと思うものを必ず救いとりたい誓われること、当面は化土往生でありますがついには第18願に転入させると言う意味があります。 係念定生の願:---浄土に生まれたいと思いをかけたものを必ず救いたいと誓われた願を言う 親鸞は第20願の願を植諸徳本の願、係念定生の願、不果遂者の願、至心回向の願と名づけ、この願は弥陀の名号を聞いてその国に思いをかけ、自力の念仏をもって浄土に生まれたいと願うものに、この望みをかなえさせてやりたいという意が誓われているのであります。親鸞はこの願いを「小経」に説かれている往生と見て、これを難思往生といい、その機類を 不定聚の機と名づけられました。それは多善根、多功徳の名号を称えて往生の助けにしようとする自力の念仏に他ならないとされています。親鸞の入信経路を三願転入ということで説明いたしますが、その三願というのは第18願、第19願、第20願の三願でその第19願、第20願の両願はやがて捨てて第18願の教えに向かう方便の仮説であると言います。 親鸞は第20願意を「浄土和讃」の大経讃として、“至心回向欲生と 十方衆生を方便し 名号の真門開きてぞ 不果遂者と願じける” “果遂の願によりてこそ 釈迦は善本徳本を 弥陀経にあらわして 一乗の機をすすめける” “定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する” 「大経」第20願の因文、及び成就の二文「如来会」、「平等経」を引いて、「大経」の第20願の成就文をあげて開説しております。  善導の「観経疏」の「定善義」などの九文を引証して念仏の徳をしめし論釈しています。 「観経疏」の定善義、念仏以外のいろいろな行は、これを善根と名づけるけれども、もしこれを念仏に比べるとまったく比べものになりません.大経の48願の中のごときは、ただ弥陀の名号を称えることによって往生ができると説いています。また小経には一日---7日弥陀の名号を称えることによって往生することができると、また観経の定散二善の文の中にもただ名号を称えて往生することが出来ると記されています。 「観経疏」散善義の三文、一切の凡夫が念仏にて間違いなく往生できると証明して薦めていることを信じなさい。阿弥陀仏の本願の本意は自力雑善とまったく異がう正念をもって名号を称えることを薦めています。観経には定散二善の法門が説かれていますが衆生をして一心にもっぱら弥陀の名号を称えるよう薦めています。 「法事讃」の三文、自力善根だけでは往生することは難しい念仏は弥陀の誓願の本意である凡夫が念ずれたちどころに往生することができます。 「般舟讃」にいわれている、仏教の八万四千の門に分かれているのは衆生の機根が同じでないからです、身を安んずる常住の境地を求めたいなら、一代経の要行を求めて真門に入る べきです。 また「礼讃」に、このごろいろいろ僧俗を見まするにその心得も勤めも皆まちまち専修あれば雑修有り、心を一つにして念仏を修める人は往生しますが、これに反して雑行を修める者は至心でないので千人のうち一人も往生することができません。 元照律師の「弥陀経義疏」にいわれています、わたくしはちかごろ「阿弥陀経」の本文を見たところかねがね言っておった事を世の人は疑って信じてくれなかったが、私の見解と一致していることを知りました。善男子:善女子よ、阿弥陀仏のいわれを説くのを聞いて、一心に心を乱さないでもっぱら名号を称えるのがよい、称名の功徳によって全ての罪は消滅する。なぜかと言えば名号には優れた多功徳、多善根、多福徳の因縁がそなわっていると説かれています。 弧山の智円法師の「弥陀経義疏」にいわれています。弥陀を信ずる力によって 名号を受け入れ心に納め、弥陀を念ずる力によって名号を保って忘れないでくれと。  「大経」に説かれています釈迦如来の出世にあうことは難しく、また諸仏の教えを聞くこともむずかし。菩薩の優れた六道の法を聞くこともむずかし。善智識に遇って法開き、それを修業することもむずかし。まして、この「大経」に説かれていることを聞いて信ずることもまた難中の難で、これに過ぎた難はないのであります。ゆえに釈尊は「大経」にその法を指し示され、弥陀の因果を説かれ、このように教えられたのであります。ゆえにその教えに信順して法のとおりに行ずべきであります。  「涅槃経」の「迦葉品」二文、「徳王品」の一文、又「華厳経」の唐訳の二文、計五文を引いて信心ならびに善智識の徳を明らかにしています。 「迦葉品」第一文、すべての仏道の因となるものは善知識であり、全ての仏道の因となるものは無量であります。全ての悪行の因は邪見であり、全ての悪行の因は無量であります。無上の佛果を得るには信心を因とし、このさとりの因も無量であります。信心をあげると全てその中におさめ尽くすことができます。 第2文は以下三つの不具足を持っていることを明にしています。 信不具足: 信あっても推求しない 聞より生じて思より生じない 法があることを信じても、法の道を体得したことを信じない 道があることを信じてもその道を体得したことを信じない 物事の因果の道理を信ずることを正といい、道理を信じないのを邪という、その邪を信ずること 戒不具足: 有為無為涅楽の戒も西方善果を生ずることを信ずるのは 聞不具足: 議論のために、他の人に優れるために、世俗の名利のために、読んで解脱するために 「徳王品」の諸仏と菩薩は善智識を持っています。一切の衆生のもっている貪欲、瞋恚、愚痴の三つの病を乗せて生死の大海を渡らして下さるからであります。 華厳経の唐訳二文では、如来は大慈悲をもってこの世に出現され善智識をもって、一切の衆生を救うために計り知れない苦行をされました。 どうしてこの佛恩に報いることができましょうか。  善導の「般舟讃」、「往生礼讃」および「法事讃」の二文、計四文を引いて難信の法を示して、信心をすすめて如来大悲の恩を奉ずべきことを明らかにしています。 「般舟讃」には、もし釈尊のすすめがなかったならばどうして弥陀の浄土に参るこが出来ようか浄土に往生して佛恩に奉ずべきであります。 また「礼讃」には、佛の出世に生まれ合わせること、信心を得て法を聞くこと、自分も信じ人にも信せしめること、またまた難しいことです。弥陀の大悲の誓願をひろく伝えてて教化することが、誠に佛恩報謝の行であります。 「法事讃」二文には、佛につれられて故郷の浄土へ帰ろう、浄土に還れば修めねばならない行も、起こさねばならない願も全て成就されます。釈迦の教えに依らなかったならば弥陀の名号をいつ聞くことができただろうか、釈迦の慈恩は報じても報じがたい。一切の衆生は十方世界の六道を転回してとどまる所がない、長い間愛欲の波に漂ってく苦しみの海に沈んできた、人身受けがたく、これを受けることができ、仏法は聞きがたいのに、これを聞くことができました。信心起こし難いのに、これまたいま発起する事ができたのであります。  “真に知りぬ。専修にして雑心んなるものは大慶喜心を獲ず。かるがゆえに宗師(善導)は、「かの佛恩を念報することなし。業行を作すといえども心に軽慢を生ず。常に名利と相応するがゆえに、人我おのずから覆いいて同行:善智識に親近せざるがゆえに。楽しみて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆえに」(往生礼讃)と云えり。悲しきかな、垢障の凡愚、無際より己来、助:正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、佛願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲嘆すべし。おおよそ大小聖人:一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、佛智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。 自障障他:--- 自分の往生にもさまたげになり、他人の往生にもさまたげになる 助:正間雑:---五正行の中の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の前三後一の助業と第四の称名 の正定業をまじえて修すること 定散心雑:--- 定善と散善の自力の心のまじわること 微塵劫:---大地を微塵に打ち砕いたほど無限に長い時間を形容して  親鸞は第20願の真門の教意を明らかにしております。自力の雑心のものは大慶喜心を得ることができない、善導は「往生礼讃」で言っています。このような人は佛恩を奉ずる思いがない、念仏の行業を励んでも心に人をあなどる思いをいだいて、いつも自分の名聞利養のことだけを考えています。みずから我執にとらわれて同行や善智識に親しみ、近づくことがなく、みずから悪縁に近づいて、自分及び他人の往生をさまたげるのであると言っています。 愚かなる私たち凡夫は無始よりこのかた自力の心に閉ざされているため、いつになっても生死の迷いを出ることができません。ひそかに流転輪廻の自分をふりかえって見ると、いつまでたっても仏の願力に帰することが難しく、また大信海に入ることも難しい。まことに嘆かわしいことであり、また悲しむべきことであります。おおよそ大乗:小乗の聖者たちやすべての善人たちは、本願の名号を称えてそれを自分の善根とするから、まことの信心を起こすことが出来ず、又不思議の佛智を了知することが出来ないのであります。すなわち阿弥陀如来が浄土往生の因を建立されたこを知らないために往生することが出来ないのであります。  “ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行:諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本:徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入れて、深く佛恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。” 万行:諸善の仮門:---定散二善を修する第19願の要門の教え 双樹林下の往生:---第19願の行者が方便化土に往生するのに名づけたもの 善本:徳本の真門:---第20願の自力念仏の真門の教え 難思往生:---第20願の行者が方便化土に往生するのに名づけもの 難思議往生:---第18願の佛願の法門によって真実の報土に往生する  この文がいわゆる三願転入の理論であり、親鸞自らが第19願、第20願、そして第18願の三願に転入し自力から他力に入られたその信仰の歴史を示されています。第19願の要門から第20願の真門に入り、そこから第18願の弘願に入られたことを法理的に明らかにしています。 この三願転入論は第19願第20願とが第18願に入るための方便であるという見解のもとにその過程が論理構成されていることを確認しておかねばなりません。 “信に知りぬ。聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末:法滅の時期にあらず。すでに時を失し機にそむけるなり。浄土真宗は在世:正方:像末:法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや。”  在世正法:---釈尊の在世の当時と正方の時代 機にそむける:---機根にそむいている 悲引する---導いてくださる 聖浄二門を挙げて、聖道門の教えがすでに時代遅れになっており浄土真宗が時期に適っていることを示しています。 “こをもって経家に拠りて師釈を摭きたるに、「説人の差別を弁ずれは、おおよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説んり。」しかれば四種の所説は信用に足らず。この三経はすなわち大聖の自説なり。” 経家:---釈尊のこと 師釈:---道綽の「安楽集」や善導の「玄義分」のこと 経典の五種説があると言われ仏説以外の他の四説は信用することが出来ません。浄土三部経のみが釈迦牟尼佛自ら説かれたもので信用に値します。  竜樹菩薩の「大智度論」で四依説で、正しく依るべきところの修道の規範を示しえいます。 * 法に依るべきで人に依ってはいけない * 法に随うべきで、それを説く人に随ってはいけない * 義利によるべきであった言葉によってはいけない。義利を表すのに言葉があるのであって義利そのものは言葉ではない。 * 智慧によるべきであって識によってはいけない。智慧はよくその善悪を知り分けるのでありますが識はつねに欲楽を求めて正しい要道にはならない * 了義経によるべきであって不了義経によってはならない。智人の中で佛が第一であり、経の中では仏法が第一であり大衆の中では比丘僧であります。  “しかれば末代の道俗、善く四依を知りて法を修すべきなりと。しかるに正真の教意に拠って、古徳の伝説を披く。聖道:浄土の真仮を顕開して、邪偽:異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して、正:像:末法の旨際を開示す。”  末代の僧俗たちはよくこの四依のいわれを心得て仏法を修めなければなりません。正しい如来の教えにもとづけば、聖道門は権化の教えであり浄土真宗は真実の教えを明らかにしています。邪偽異執といわれる外道に惑わされない様に誡め、釈迦如来が入滅された時代を考えて、正法、像法、末法の三時代のあり方を示します。  道綽の「安楽集」の四文を引いて、正像末の三時代を明らかにして、聖道の教えは末法の時代には適さず、ただ弥陀本願の教えのみが通入すべき路であることを示しています。 釈迦の入滅後の500年:  弟子は智慧を学ぶ        1000年: 禅定を学ぶ        1500年: 多くの教えを聞いて経を読む        2000年: 塔や寺を建て功徳を積み、懺悔する        2500年: 教えが隠れて争いが起こり        3000年: わずかに善法が残る 今の時代に衆生を考えてみると仏が入滅後2000年に当たり誠に罪を懺悔して功徳を納め仏の名号を称えねばならない時であります。一声、南無阿弥陀仏と称えたならば八十億劫の生死の罪が除かれるのであります。一声でそうですから、ましていつも称名念仏するものはその限りがありません。釈尊が説かれた教法は正法500年、像法1000年、末法10000年、でその末法の時代には修行する衆生もいなくなり、聖道の諸経はことごとく無くなってしまい、そのために如来は焼かれていく経を思い苦しんでいる衆生を哀れみ、特にこの浄土の経典をとどめて百年さらに永久に残されました。 末法の時代には数多い衆生が如何に行に励んでも道を修めても、おそらく一人として悟りを披くことができないといいます。ただ浄土の一門だけがさとりに入る路であります。  “しかれば穢悪:濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、己が分を思量せよ。三時教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘がうるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで、二千百八十三歳なり。また「賢劫経」:「仁王経」:「涅槃」等の説に依るに、己にもって末法にいりて六百八十三歳なり。 三時教:---正像末の三時の教法 般涅槃:---完全なさとり、ここでは釈尊の入滅 正像末の三時を決定して、釈尊の入滅後、わが国の元仁元年(1224年)迄、2183年末法に入って683年であります。末法の無戒の有様が示されています。 伝教大師最澄の「末法灯明記」の文を引いて、正像末の三時を決定し、末法の時代にあって仏法の真髄は三時一貫して変わらぬことをしめしています。 まず、「末法灯明記」の始に述べています。法王すなわち釈尊は真諦の法を教え、仁王である天皇が俗諦の法を教えて、天下にそれぞれ、それらの教化をはかろうとするのでありますが、仏法の行われるのに正像末の三時があり、人にも三種あり、時代にも盛衰がり、機類や智慧も、さとりも、まちまちでどうしても一つの方法で救うということは道理に適っていないのであります。こいうわけでありますから、正像末の三時の区別をはっきりしたいと思います。 正法五百年、像法千年この千五百年後は正法は滅尽して、今このときはすでに末法の時代であり、末法の中においてはただ言教のみあって行証なく、もし戒法あっても破戒であり、すでに末法には戒法がありません。したがって持戒もありません。 破戒のものは僧の仲間に入ることが許されておらないが、末法にはすでに戒がありませんので僧の仲間に入れる、入れないはもはや問題ではありません。  僧のあら行はみな知り尽くしていますのに、何故、自分達僧俗の間違った生活を貪るために,この名ばかりの比丘をこの世の真の宝とせねばならないのでありますか。この他によりよい福徳を見出すことが出来ないからであります。もはや末法の時代に戒を持つことが、そもそもすでにおかしい事なのであります。 末法の名ばかりの比丘を世の真宝とすることはどの経典に出ているのですか、それは「大集経」の第九に説かれていますが、この名ばかりの比丘でも護り養ってやるなら、この人はやがて無生法忍の位を得ることができると説かれています。この経には八重のこの上ない宝があると説かれています。 1)如来 2)縁覚 3)声聞 4)前三果の賢聖-----------------------------正法 5)禅定の凡夫 6)持戒の比丘 7)破戒の比丘----------------------------像法 7)破戒の比丘 8)無戒の比丘--------------------------------------------------末法 これによって破戒、無戒の比丘、全てが末法の時代の宝であります。 しかしながら「涅槃経」「大集経」には、何故か国王や大臣が破戒の比丘を供養すればその国に飢饉、戦乱、疲励、の三災が起こってついに地獄に生まれると説かれています。如来は一つの破壊についてある時期は毀り、ある時は讃ずるのは一人の大聖の説かれるのに両面があり過失があるのではないのですか、その疑問は道理に合っておらない、それは「涅槃経」などに説かれているのは正法の時代について破壊を誡め、像法:末法の時代の比丘について言われたものでないからです。時代の応じて判断しているのであって釈尊の旨超であり、判断に過失があるのではありません。 将来末法の時代には無戒名字の比丘でも世の導師となることが説かれています。ゆえに、もし正法の時代に用いる誡めや制文をもって、末法の世の名ばかりの比丘を誡めるならば、教えと機類とがあい反して、人と法が合致しないことになる、こういうわけで「四分律」には制してならぬものを制すると、せっかく如来の智慧によって定められた禁制もその真の意味を断ち切ってしまう、これはかえって罪になります。 最後に正法と末法とを比較しますと、末法時代には正法はすたれ、身:口:意:の三業が整はないので記す価値はなく、行住坐臥の四つの威儀、その日常の全ての作法も佛の制定にそむくであろう。 正像末の三時思想は仏教における特殊な歴史観でありますが、浄土真宗では釈尊入滅後、正法五百年、像法千年、そして末法一万年としています。 道綽の「安楽集」より引かれていますが、教えと時代の機根についての深い宗教的反省と罪悪感的反省、救済の問題より聖道を捨て弥陀の本願の大道に帰入した道綽の新しい宗教観の展開によるものです。 親鸞はこの末法思想の時代に己の宗教的体験と罪悪観を深く内省し、阿弥陀仏本願によるしか救済されることが出来ないことを自覚して、末法の思想の時代の他力本願思想を大成させました。 「正像末和讃」の三時讃に “大集経にときたもう この世の第五の五百年 闘諍堅固なるゆえに 白法隱滞したまえり” “末法第五の五百年 この世の一切有情の 如来の悲願を信ぜずば 出離その期はなかるべし” 「正像末法和讃」において末法思想と罪悪感とに基づいて如来の本願に遇う喜びを親鸞は詠嘆いたしております。 “釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまう 正像の二時はおわりにき 如来の遺弟悲泣せよ” “末法五濁の有情の 行証かなわぬときなれば 釈迦の遺法ことごとく 竜宮にいりたまき” “正像末の三時には 弥陀の本願ひろまれり 像季末法のこの世には 諸善竜宮にいりたまふ” 親鸞はこの方便化身土にこの「末法灯明記」を引いて言っている事は末法時代における宗教者のあるべき真の姿を今より八百年昔に示され、当時は肉食妻帯の在家仏教のあり方をこの時代に始めてはっきりと明らかにいたしました。 ここより方便化身土(末)になります。  “それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、”  仏教以外の教えである外教の邪偽であること、諸経論を以って誡め、内道の真実を明らかにしています。「涅槃経」を引いて、佛に帰依するものは一生涯佛以外の諸天と諸神に帰依してはならないと述べています。また、「般舟三昧経」から二文を引いて、在家の人でこの念仏三昧の教えを聞いて行をしょうとするものは、自ら仏に帰命し、比丘僧に帰命し、三宝に以外の外道に使えてはならぬ、天神を拝んではならぬ、鬼神を祀ってはならぬ、日の良し悪しを選んではならぬ、と説いています。また、在家の人でこの念仏の教えを聞いて行をしようとするならば、天神を拝んではならぬ、鬼神を祀ってはならぬ、と説いています。 種々の諸経を引用して、鬼神を祀ってはいけないこと、迷信を信用してはいけないこと、鬼神や諸神に現世の幸福を祈るような邪教を捨てて、弥陀のお教えに帰依すべきことを明にしています。 「菩薩戒経」には、出家したものの規則として国王に向かって礼をしてならぬ、父母に向かって礼をしてもならぬ、六親に仕えてもならぬ、また、鬼神をあがめてもならぬ、事を説いています。 「弁正論」は、李道子が仏教を非難したことを破斥する意味で老子と道教批判をいたしております。  孔子の儒教に対しても、道徳を説くものでありますが神人の通力に依る奇跡を説くものでありその証明は偶然を必然化しているに過ぎなく、利益の有無を信徒の責任に転嫁しているのは邪教の通説であります、と批判しています。 源信の「往生要集」の中で「摩訶止観」の文を引いて、魔鬼が仏道修行の障碍になること示して、 最後に、外典の代表として孔子の「論語」を引いて“季路問はく、鬼神に事へむかと。子の日く。事ふること能はず”と 鬼神に仕えることは無意味であると、記されています。  ここより後序の文で、この教行信証の最後の山場であります。 聖浄二門の盛衰について述べ、法然及びその門下の流罪ならびに法然の赦免とその往生を述べています。 親鸞29歳の時、法然のもとで専修念仏に帰依して、法然より「選択集」の書写と真影の見写を許されたことを回顧し、「教行信証」を製作したことは、まったく報恩感謝の為でありますと結んでいます。  “竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり。然るに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、太上天皇諱尊成、今上諱為仁聖暦:承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨みを結ぶ。これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。皇帝諱守成聖代、建暦辛の羊の歳、子月の中旬第七日に、勅命を豪りて、入洛して己後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。奇瑞称計すべからず。「別伝」に見えたり。  然るに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳、恩恕を豪りて「選択」を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼佛今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。また夢の告げに依って、綽空の字を改めて、同じき日に、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。「選択本願念仏集」は、禅定博陸月輪殿兼実:法名円章照の教命に依って撰集せしむるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見る者諭り易し。誠にこれ、希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を豪るの人、千万といえども、親と云い疎と云い、この見写を獲るの徒、はなはだもって難し。しかるに既に製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。仍って悲喜の涙を抑えて由来の縁を註す。  慶ばしいかな、心を弘誓の佛地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これに因って、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う。ただ佛恩の深きこと念じて、人倫の嘲りを恥じず。もしこの書を見聞せん者、信順を因とし疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。  「安楽集」に云わく、真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくば休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。  しかれば末代の道俗、仰いで信敬すべきなり。知るべし。  「華厳経」(入法界品)の偈に云ううがごとし。もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善:不善の心を起こすことありとも、菩薩みな摂取せん、と。“  第3編    教行信証の弁証法       第1章    弁証法の歴史的展開  人類の歴史の中で哲学的なものが見出されるのは、ギリシアにおいて詩人ホメロス でありますが、そこには学問としての哲学はありませんでした。 哲学はあくまでも真実を探求する態度であり、その真実を今、己が知らないのでそれを明らかにするという学問的な姿勢がなくては成り立ちません。  哲学の概念はヘラクレトス(BC.535-475),ソクラテス(BC.469-399), プラトン(BC427-347)、アリストテレス(BC384-322)に依って次第に確立されてきました。  古代ギリシャのヘラクレトスは“万物は去りつつあり、なにものも止まってはいない。万物はみな反対の限定を自らの中心に持っている。万物は常に生成消滅、或いは変化運動をして止まらないものであり、世の中に固定不変、静止不動のものは何もない。万物の変化の中に隠れた美的調和がり、そこに普遍の法則が支配している。この法則をロゴスと呼んでいる。” 彼は天才的な哲学的直感を持ってこの自然、宇宙全体を理解いたしました。従って、彼のことを後世の人々は弁証法の祖と呼んでいます。 ヘラクレトスと同時代のパルメニデスは“有るものは有り,有らぬものは有らぬ。生成消滅は運動の変化とともに不可能であり、確固不動のものこそ確かな実存である。” これが当時の常識的世界のことであり、これが、当時の真実の学問 「形式論理学」ということでありました。  プラトンは諸概念の帰納と演繹とを極めて理論的に展開しました。彼の弁証法は初めて哲学的方法の名に値するものになりました。  アリストテレスは実証的な諸材料を科学的に整理しようとしましたが、それは科学の準備的手段、論争の方法論に陥り、哲学的な本質論に進むことが出来ませんでした。  ギリシャ:ロ-マの哲学以来、弁証法をその体系に上程したのはカント(AD1724-1804) でした。 カントの先験的論理学はまだ弁証法的論理学までに成長せず、矛盾は全く論理外にあるべきものとして斥けられていました。まだ、アリストテレスの形式的論理学の中にありました。  19世紀になって、古代ギリシャのヘラクレトスの弁証法を基本に、カントの天体発達史、および宇宙発達史、生物学の進化論、物理学の引力と斥力との対立の観念、シェリング(1775-1854)の自然哲学の分極の理論をまとめて近代化して学問の方法論として発展させたのが、ヘーゲル(1770-1831)でした。 ヘーゲルは日常的で常識的な領域では形式論理は厳重に守られる必要があり、私たち人間の思考はこのような形式論理を基礎にしていますが、この範囲を超えて問題を深く掘り下げようとしますと、現実の中に客観的な矛盾があり、この現実を正確に捉えようとすると弁証法的な思考が必要になってくると考えました。弁証法的に考えねばならない領域や場面であるのに形式論理に固執して、これを絶対化しますと誤った思考となります。これをヘーゲルは形而上学的思考と呼び、形式論理には限界がありますが誤っていません、しかし、形而上学的思考となるとこれは誤った思考だと考えました。 ヘーゲルの哲学の方法は弁証法であります。弁証法というのは認識の発展の論理であり、又同時に存在の自己発展の論理でもあります。  ヘーゲルの認識は概念的であり、次のような段階を経て発展するものでした。  (1)まず一つの立場が直接的に肯定され定立されます。ところがその立場は、一つの規定をもつのでありますから、この規定によっては律することの出来ない別の立場が生まれ、これに矛盾対立します。すなわち 、即自 (2)最初の立場を否定する別の立場が反定立されます。しかしこの立場も同様に一面的であります。こうして矛盾対立する二つの立場がそれぞれ一面的でありながら、具体的思惟にとっては、ともに必要であることが認識されますと、より高次の第三の立場に移って行きます。すなわち、対自 (3)矛盾対立する二つの立場を綜合統一する立場に発展いたします。すなわち 即自かつ対自  この綜合統一することを止揚(aufheben)と呼び、止揚するということは矛盾する(1)、(2)の立場をその一面において破棄するとともに、矛盾する規定の両者をより高次な立場に保存することを意味します。こうして止揚統合されることによって生じた第三の立場もまた自己矛盾の立場を露呈して、さらに次の段階により具体的な認識に到達するべく発展を繰り返します。 以上が認識の発展の論理としての弁証法であり、それはまた存在の発展の論理でもあるわけです。 本質=即自――(種)――を実現するために自分を否定して異質なもの(水、空気)なものを採り入れなければなりません―――対自、その結果、この異質なものが自分の存在を支える不可欠な契機であることを知り、すなわち、 即自かつ対自 上の二つの方法でヘーゲルは、この弁証法を用いて論理学,法学,道徳学、宗教学、歴史学、哲学などの諸科学の体系を作り上げました。 ヘーゲルは理性的なものが現実的であると言いました。 宇宙とは無限の絶対的精神が自らを有限化して自己の本質を自覚していく過程だと認識しました。つまり、世界が今このように存在しているということは、何らかの根本的な主体が運動を通して作り上げた結果或いはその過程としてあるに違いないと考えたのであります。 その主体こそ、精神―――絶対的精神といわれるものであると考えました。  そのような絶対的精神とは自分自身を自覚しながら、自分の中に区別を持ち、自分自身を自分自身で区別しながら作り出していく働きです。全ての現実的なものは、この絶対的精神が有限化されたものですから、全ての精神のもつ理性的原理を持っていると考えられます。理性的原理を含むものだけが現実性を持っているということになります。 ヘーゲルにおいては、絶対者は理性であり、智であり、それは歴史を通して自己を展開していくものでありました。したがって、絶対者の展開は理性的展開であり、理性が自己を自覚し展開して行くことになります。そこでそのような絶対者の自己実現の過程が、即自:対自:即自対自の過程をたどる弁証法と考えてきました。 ヘーゲルの哲学には理性主義的形而上学、観念論的弁証法に陥らざるを得なかったのであります。 ヘーゲルの弁証法に反対する立場は三つほどありましたが、特に実証主義的立場からの批判は今後の弁証法の発展をもたらしました。  フォイエルバッハ(1804-1872)はヘーゲル学派の左派、すなわち、青年ヘーゲル学派に属しており、人間は自然から生まれたものでそのままでは人類は真に人間になれない、歴史を通して人類は人間になるという人間学の立場でありましたが、観念論との論争、対立から 次第に唯物論に傾斜、近接していきました。  マルクス(1818-1883)はフォイエルバッハの唯物論的傾向とヘーゲルの弁証法の発展に影響されて、唯物論の立場に立ってヘーゲルから分離するとともに、ヘーゲルの弁証法を採りあげることによって弁証法的唯物論を創出いたしました。 そして、マルクスは経済学批判の序文に有名な唯物史観の公式を記述し、その後の世界の哲学界の一方の主流として現在もその有効性は健在であります。その影響力は世界のあらゆる分野にわたっていますが、しかし、その理論の適用に後世の継承者が本来の理論の真髄を活かしきれず、弁証法であるにもかかわらず教条的に社会、政治、国家、経済、市民生活、国際関係、等に適用し、進歩、発展、展開を修正主義と決め付け活力ある発展を阻害してきました。社会の発展を阻止する結果となりました。 20世紀末にしてその影響力も縮小しております。 最初の継承者であったレーニンの一言一句を金科玉条の如く祭りあげてしまい、批判することさえ出来なかったことを反省して、21世紀の初頭に入ってやっと、レーニン時代の、その特殊な限定された条件の下で作られた間違った命題を批判することから始まりました。  エンゲルス(1820-1895)は、マルクス:エンゲルスの思想といわれるほど両者は一体であり、マルクス主義を発展させ哲学についてはマルクスの唯物史観を再認識するとともに、新しく自然の弁証法を提唱することによって、弁証法的唯物論の総体的:基本体系を完成させました。  エンゲルスの自然の弁証法は、全自然が、最小のものから最大のものまで、砂粒から恒星まで、原生生物から人間まで、永遠の生成と消滅との中で、絶え間ない流れの中で、休みない運動と変化の中で、存在しているという、古代ギリシャ哲学の創始者達の見かたに再び立ち戻ったわけであります。 弁証法的法則を自然の中にはめこむことでなく、その法則を自然の中に発見し、自然の中から展開することでありました。すなわち彼は量から質への転化の法則、など弁証法の諸法則を物質的自然の運動の中に見つけようとしました。たとえば、0度と100度という単なる温度の量的変化が水の質的変化を引き起こすというごとき例の中に見出しました。 自然科学の研究の過程のそのもののうちに弁証法の法則が必然的にあることを証明しています。 そのものの存在を認めることが、自然科学の研究を意図的に促進することになります。自然科学の研究が自然の弁証法によらねばならないことが明らかであります。  20世紀後半になって先端的自然科学の研究がすすみ、宇宙創生論、量子宇宙論、分子生物論など、新しい学問が出来その研究が進められております。 特に、この人間が住んでいる宇宙と人間の宿っている生命に関する研究は飛躍的に進みましたが、その結果はますますカオス、複雑系になってきております。いま、人類には認識できないが、自然の弁証法に貫かれている法則が存在しており、この法則に適応することが必然的に、自然科学の研究の促進に連なると科学者達は確信を持っています。  古代ギリシャの宗教は多神教でギリシャ神話の世界でありました。自然の中に弁証法を見出しておりました。しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の時代には、自然を作ったのは神である。自然を研究することは神の意図を理解して、神の存在を証明することである。時代を重ねるにつれ、神の存在を証明する自然科学が逆に神の追放をしてきました。自然科学の法則が神への挑戦に変わっていきました。 もはや聖書の教義が通じない世界になってきました。 現在の、仏教を除く、主要な宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、が自然の中にある弁証法、その法則に、背を向けたことになっています。  19世紀中ごろになって自然科学が神は退場願いたい、と申し出て、自然の弁証法がギリシャ以来の再登場となりました。  古代インド、中国の大乗仏教の中に弁証法的な思考の萌芽が見出されます。 大乗仏教の宇宙論は「無数の宇宙論」であり、その無数の宇宙の中に佛国土があり、諸仏がその佛国土をキリスト教のように創造したとかというものではなく、 自然の中に、三千大千世界の佛国土が在り、十方諸仏がいるということです。 大乗経典「大無量寿経」の第十二願、第十三願、の願文が誓われ、その国土に生まれれば、「阿弥陀経」の無量寿と無量光が十方の国土を照らしており、その佛国土にすなわち極楽往生土がある、ということです。 ここには自然的佛国土があり、自然の弁証法に背を向けるものは何もありません。  インドの竜樹は、「中論」で、人間がその思想的な営みの中で物事を固定的に捉えようとする態度を有無の見として打ち破り、人間の知的分別の迷妄を「不生:不滅、不常:不断、不一:不異、不去:不来」の「八不」を打ち破りました。全ての物事は相互依存関係にあり、物事が成立し、消滅していく、自己矛盾、自己否定、が、ある媒介を通して新しい物事に変転していく、当時AD2—3世紀インドの論理学に触れて、それを批判的に取り入れていきました。  天親は「浄土論」で 真実に生きるものは固定した考えでなく、転生して安楽浄土に入っていくものですと、述べています。 曇鸞の「浄土論註」には、往相と還相がり、その関係はまさしく弁証法的であります。 道綽は「安楽集」で、仏道を求めれば求めるほど、仏道が無限に遠ざかる。真面目に修めれば修めるほど、仏の教えに背く自分。 これらの矛盾を感じ取り模索して行きました。 善導は「観経疏」で、真実に生きようとすればするほど決して真実に生きることが出来ない私、我執的存在。 その矛盾に目覚めて、私を生かしていく如来の真実に随うほかにないという二種の深信。  これ等のインド、中国の先師の教えに導かれ、又道を求めて平安末期に法然:親鸞に依って新しい浄土教が誕生いたしました。 ヘーゲルに先立つこと約600年前、日本の仏教:浄土教に、その教義に、その思想の根底に弁証法的なものが何か連なっていた由けです。              第2章   宗教と科学     ヨーロッパでは科学が宗教のスコラ哲学の一部として、自然哲学として生まれました。 従って、宗教がその存在理由を主張するにはどうしても科学に限界があることを云わなければなりませんでした。ヨーロッパの神学者や観念論者は宗教と科学との間に境界線を引いて、宗教こそが人間の生活や生命を解明できるものであって、科学より優れたものであるといってきました。 しかし、19世紀に入って科学者による天動説の否定、進化論の台頭、科学の発達は、科学の中に万物に貫徹されている普遍的原理、法則があることに確信を持ちました。 宗教の名において、科学的法則を無視したり、人格神の介入によって科学的法則をゆがめたり、非常識な現実を作ったり、科学の法則に随わない奇跡の実現を教義の基盤に据えたり、啓示宗教とする宗教には相容れないものになりました。  科学と宗教とはそのように対立するものでしょうか。対立するものではなく又対立させてはいけないのです。 宗教信仰が科学的知見と矛盾しない方法で把握することは可能であるわけです。 現代自然科学が到達した、又明らかにした自然界の法則、自然の弁証法を普遍的な法則と認めますが、あらゆる万物の現象が今まだきわまりない複雑さがあり、その先には今まだ現在不可知のところが続いているが現在であります。例えば、ニュートン力学がアインシュタインの力学に取って代わられたのでなく、前者より後者の方に適用範囲が広いのです。一つの真理が他の広い真理に包括されたのです。そのアインシュタインの力学が最後的なものではなかったです。 圧倒的に存在する自然の法則性そのものに限界があるのでなく、私たちの観察、技術、数式や言葉で表現した理論に限界があるわけです。 現在の理論の範囲が観察経験などにより矛盾が生じた場合、それをある媒介を通じて発展させ新しい理論が形成され適用範囲を拡大しますが、それもまた次の発展に進んでいきます。宗教もこの自然の法則をよく理解しておかなくてなりません。  現在、個人的に、人間の心の問題、人間の有限の問題、生死の問題、己の心の超越的な世界、に対して、宗教の分野:領域が機能し、存在する価値が、現代社会には、益々増加しております。宗教と科学が共存する世界が広がっております。又、自然科学者、宗教家との間における交流、共存と協調も進でおります。アインシュタインの宗教論に、“宗教と科学の諸領域はそれら自身において相互に明確に区別されるとしても、それにもかかわらず、両者の間には、強い交互関係と依存性が存在している。目的を規定するのは宗教かも知れないが、宗教は、どの手段が自らの設定した目的に到達するのに寄与するかについて、もっとも広い意味において、科学から学ぶことが出来る。これに対して、科学は真理と理解への熱望を徹底的に吹き込まれている人々によってのみ創造されるのである。しかしながら、感情のこの源泉は宗教の領域から由来する。これには、現実実存の世界に妥当する諸規則が合理的である、すなわち諸規則は理性にとって理解可能である、との信念も属している。私は、この深い信念を持たないような本物の科学者など考えることが出来ない。この状況は次のような比喩を用いて表現できるのであろう。宗教のない科学はまっすぐ歩くことが出来ない、科学のない宗教は行き当たりばったりである。”、“この領域において成功裏に成し遂げられた前進を強く経験したものであるならば誰でも、現実存在の中に顕れされた合理性に対する深い畏敬によって動かされるのである。理解という道を通って、人々は、個人的な希望という束縛から、はるかに自由となり、それによって理性の崇高さに対する心の謙虚な態度に達するのである。しかしながら、この態度は、私はその最も高い意味で、宗教的であるように思われる。”と述べています。  科学者が科学的な立場から、自然の法則の偉大さ崇高さに宗教的感覚を踏まえた方向がますます進んできています。 その点では、ヨーロッパの宗教、ユダヤ、キリスト、イスラム教といった宗教は、今までは、自然科学を宗教の手下として利用し、その後対立する立場になった時以降、闘争的な態度をとってきたのは歴史の示すところです。 日本の仏教については、そもそも初めより、自然科学と対立する要件が無かったのです。 もしその仏教の一部の勢力が対立するものであるならば、その一部の勢力は仏教から悦脱したものになっていると解釈できます。仏教特に浄土教思想の中には上記のヨーロッパの宗教のような問題は在りませんでした。否むしろ、仏教はその根底に自然の法則と通低しているのではないかと思われるほどです。 仏教、特に浄土教思想と自然科学とが共存共栄できる基礎的要件は既に初めから出来上がっていると解釈すべきです。 自然の中に貫徹している法則に従って自然科学の理論は益々発展しております。それと共に自然の実態が益々複雑化して、宇宙、物質、生命体、など等、発展進化しそれらに対して 解明すべきことが増えてきております。  科学理論の発達と共に、さらに宗教と科学とが整合性のある関係が見出しえます。  宗教と科学の関係を良好に保つべき「新しい哲学」が求められていると、言われていますが、 自然の中に貫かれている「自然の弁証法」これは現在の先端の科学者が拠りどころにしている哲学です。 ヘーゲルによって確立された弁証法は観念論的弁証法になり、それを批判して出来た社会科学、人文科学の分野におけるマルクスの弁証法的唯物論、史的唯物論は、不幸にして、その後継者であるレーニンを初めとするこの哲学の実践者の全てが、その社会科学と人文科学の分野においての運用に間違いを犯してしまい、弁証法の哲学であるにもかかわらず弁証法的な理解を欠き、マルクスの言葉を一言一句固定的に捉え、新しい事態に流動的に弁証法的に対応することが出来ず、新しい理論を弁証法的に確立することが一度も出来ませんでした。 それに比べ、「自然の弁証法」は自然の中に貫徹している法則にしたがって自然科学の分野において、自然科学者達は新しい発見、発明に挑戦しており、現在も十分に有効性を発揮しております。  人類が発生し、この自然の中で他の動物と違って、頭脳が発達した高等動物、人間が生まれてきました。人間は智慧を持っており、考えることが出来る唯一の生命のある動物であります。 この自然の中で人間が人間と生きていくと共に宗教らしきものに関心が出てきたのではないかと思われます。人間発生以来、自然との闘いが宗教のようなものを必要としたし、又、人間が集団生活に入っていき、道具を作り、言葉、言語を持つまでに発達するに従い、自然の中で自分達一族が生きていくためには団結し、協力するにも係わらず常に良くない偶然、不幸に直面せねばならなかった。 一族の親子、兄弟、姉妹、その他の親族の死に直面すること、生:病:老::死 という避けがたい悩みに直面せざるを得なかったわけであります。 このような状態は、ますます原始宗教的なものに関心を持つようになってきました。 社会が発達した現代人も、この宗教の問題について、いや、発達した現代文明社会であるからこそさらに、人間としての根源的な問題に無関心でいられるものは唯一人としておらない訳です。「私はいったい何か」という問題が、自分がこの有限に生きていること、「生:病:老:死」の中に生きていること、死に直面するようになった時、ぬきさしならぬ問いになっていること、そのときどきに、あるときは強く、又あるときは日常に埋没して忘れることがありますが、人間生きていく根源の問題として宗教は私たちの心の中で、人とそれぞれ関心の程度の大小はあっても、心から離れるものではありません。「私とは何か」、それは自己自身が有限であり、矛盾した存在であることに気づき、その苦痛に基づく自己そのものへの確かな根拠、「真の自己」、とは何か、無限について考える、有限から無限を求めて道を求める。 仏教に云う「菩提心」と言うことになります。  科学というものには、自然科学、社会科学、人文科学の三つの分野が在ります。その中で自然を扱った分野にさらに三つの分野に分けることが出来ます。 1)自然の中での無生命体  ------------------- 無機質自然界 2)自然の中での人間を除く動物一般---------- 有機質自然界 3)人間、この特殊な動物------------------------- 有機生命体の特殊なもの人間 1)は自然の物質、宇宙、等 の一般の学問。2)は生命体(人間を除く)一般の学問、 1)と2)は自然の中に絶対的な法則が貫かれている、自然の弁証法の下の世界であります。 3)は生命のある動物の一種に過ぎないものありますが、全く特殊な動物である人間、それを扱う学問、それは別枠で既に社会科学、人文科学として扱われております。しかしながら、 社会科学も、人文科学も、人間の根元的課題を解決することが出来ません。人間を除く自然の万物は、その相関的に自然に貫かれた法則、自然の弁証法の下にありますが、人間、我一人として、孤独に宇宙の中で唯無比の存在として、有限の世界に生きているこの不安(無明の世界に生きていること)に目覚めた時、宗教心の出発点に付くことになります。 第3章    有限と無限 (一)  有限  有限なものとは、その典型が人間の存在であります。宗教に関心が起こるとき、私たち人間は自己の有限性に目覚める時でもあります。人間が有限のものから無限のものに成り得ないのかと考える時でもあります。 有限のものは人間の周りのあらゆる物体、個々に存在している実体、それら一つ一つの物、他の物、複数の他の物によって制限され、お互いに依存しあい、相対的な存在であります。 スピノザは「あらゆる規定は否定するという事です、つまりAであることは同時にBでないと同時にAも他より否定されていることを意味します、つまり相互制限こそが有限的存在の所以であります。」と述べています。   有限の物が進化して、多くの物が集まり、その物が無限大に集合しても、それは何も無限ではないのであります。有限と無限の境目、境界線というものは無いのであります。それらは全く別の領域、場なのであります。有限である人間が認識できるこの世の一切の万物は有限であるのです、無限を生み出すことは不可能なことです。 ヘーゲルは「有限世界の中で、人間の精神が意識の状態から自己意識の状態になり、それを経て理性の段階に入り、そして自己意識が個々の内面から客観的な集団的精神に上昇する過程で有限存在としての自己意識が全体に到達する、これを全体の側から言えば、全体としての絶対精神が徐々に自己を発現する過程で最後には自己意識と絶対精神が同一化して絶対知になる。 絶対知を得た時の人間は完全に自己自身に満足する。人間は有限世界の全体という意味での無限の一つにつながることが出来、無限の中での絶対知を知ることが出来る。」と述べていますが、しかし、歴史のあるものは歴史と時間を持ちます、それは有限であり、有限が全体としての無限の同一の場に立つことはありえません。人間が有限であることには変わりはありません。これはヘ-ゲルの観念論が陥っている欠点から来ているからです。 (二) 科学的認識の無限  エンゲルスは自然の弁証法で、「ある永遠の循環過程の中で物質は運動している、それはわれわれの地球を尺度としてもはや十分に測り得ないほどの長時間を経た後にやっとその行程を完結するような循環過程であり、そこにある物質のどの有限の存在の仕方も、たとえそれが太陽であれ、個々の動物であれ、化学的な生成、結合、分解、消滅であれ、一時的なものしかない。そのような循環過程であって、ここでは永遠に変化し続ける永遠に運動し続ける物質とその物質が運動し変化する際に従っている諸法則との他には何も永遠なものは無いのである。 すべての真正な自然認識は自然諸法則の認識可能性か、或いは自然諸法則の永遠性の確認の永続的追求であります。永遠なもの:無限なものの認識であります。それが自然認識の弁証法であり、本質的に絶対的であり、絶対の真実であります。」と述べています。   (三) 宗教的無限  有限である人間、その私が、自分自身の確かな根拠を求めることが宗教の出発点であることは既に申しました。宗教は無限の事実存在を信じることから始まります。最初は無限と有限とはいずれも外部であり各々が分離しています、そこで無限の中に有限を迎え入れる事、それが宗教であります。無限とはいかなるなにものにも制限されない、独立した、絶対一者、全体完全、宗教とは有限と無限、相対的存在と絶対的存在、絶対者との関係を作り上げること、その関係を全くきわめて統一し一体となることです。絶対同一になることであります。 自己自身が有限でありそれが絶対同一になることは全くの矛盾であります。しかしながら、これが宗教の究極的哲学的課題であります。  人間という生き物はこの有限世界に於いてそれぞれ個別の考え方に閉じこもり利害を異にする者同士の利害関係を脱することが出来ません。たとえ世界の事物と他の人々たちに己の尊厳が認められ、己の欲望が承認されても満足しないものなのであります。それらの承認、欲望が数的無限に積み上げられてもそれらはあくまで有限であります。人間は有限を越える何物か、質的無限と呼ばれるもの、これを信じることが出来て初めて、それに拠って満足するものであります。  仏教は無限の世界を宇宙の中に見出そうとしました。キリスト教とか他の宗教が啓示的宗教になったのと違い、宇宙のすべての事物は単一としては、それらの事物の運動は互いに制限しあい制約されているので有限でありますが、宇宙一体、それも無数の宇宙はなにものにも制限制約されていませんので無限であると考えられます。いかなるものにも制限されない、制約されない世界、無数無限の世界、八百万の神=十方諸佛の住んでいる世界、無数無限の原理が貫かれている世界を考えています。 仏教の中にコスモロジ-は優越した位置を占めています。有限と無限の絶対同一の一つの円の中にいることは絶対矛盾であります。 有限の世界の中で無限を追求すること、無限は人間と本質的に異なっている、無限は人間に語らない、語るのは人間であり、しかし人間は無限について納得いく易しく語ることは不可能であります。人間、有限者の側からどうしても跳び越せない深淵な存在が横たわっている、人間の力では手に負えない、それを承認して無限を信じて、無限の側からこの有限の人間を迎え入れてくれる、この飛越を可能にしてくれる無限の側からの働きかけ、宇宙からの呼び声、 理性はここでは沈黙しか出来ない、ここでは理性を超えた意味での宗教的理性、万有の理性、不可思議力、それを信じることが菩提心と言うのでありましょう。ここまで来ますと、おのれ一人一人が飛び越えねばならないは各自の宗教的自覚、信念ということになります。 (四) 有限から無限の世界へ  仏教において無限とはけっして人間の言葉で語れるものではありません、沈黙しか無いわけですが、あえてそれを語るときは比喩的言語にならざるを得ないわけです。語りえないものを語るのには、その媒介を必要とするものです。 無限と接触することは宗教的経験であり、個人的経験であります。それは理性を超えた宗教的理性:不可思議な経験であります。 浄土門では有限的自我がどのようにして無限に係わっていくかは、無限世界にある宇宙、無数の宇宙に存在するところの一大理法の存在することを信じ、十方諸仏の中の阿弥陀仏の存在を承認して、人間が得てきた思議し得るべきところのものを越えた、不可思議のものと諒解し、阿弥陀仏の力として大能力持つ無限に接触し、有限である人間と無限である阿弥陀仏が同一円の中に満足を持って絶対的同一になり得ると言う事であります。  親鸞は自らの遭い得た仏道を公開する書である「教行信証」全体の主題を、教の巻きの冒頭で 大無量寿経――― 真実の教え、 浄土真宗 と、端的に示して、大無量寿経の教えこそが、親鸞の開顕した仏教、すなわち浄土真宗であると、続いて記しています。謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。それ、真実の教を顕さば、すなわち「大無量寿経」これなり。 また、続いて、この経の大意は、弥陀、誓い超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝をほど施することをいたす。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。 親鸞は「大無量寿経」を真実の教えとして決定し、一切の衆生の帰すべき法としての阿弥陀の名号の選択と回向成就が、如来の本願として説かれています。人間のはからいによる行でなく、摂取不捨であることであります。   諸仏称名の願     選択本願の行      浄土真実の行 阿弥陀仏の本願が衆生の念仏となり、その念仏する衆生を往生の一道に立たすことです。 明らかに知りぬ、これ凡聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向の行と名づくなり。 大小の聖人:重軽の悪人、みな同じく斎しく選択の大宝海に帰して、念仏成仏すべし。  有限の世界から無限の世界へは、仏教の救済論であり、仏教的目覚めであり、さとりであります。 阿弥陀仏=法蔵菩薩が因位のとき願行の成就が一切衆生の摂取不捨にすること、 有限な法蔵が無限の阿弥陀仏に成ること、これは人間各自の自由であり、現世内的存在から出世間存在へと自己を変換するのは、一切衆生の自由であり万人に開かれています。法蔵菩薩に成ることもでき得るし、さらに、ひいては阿弥陀仏的存在(摂取不捨するもの)になる、目覚め、から、智慧、絶対知、無限の展現、無限の阿弥陀仏による摂取、無限世界の自覚、 さとりであります。これ等にはアニミズム的なものは何もありません。   無限の世界と現世の世界と比べて見ますと、無限=阿弥陀仏によって迎え入れられ、摂取不捨になる、場所は浄土の佛国土、そこには無数の諸仏が存在し、人間自分そのものの存在自体を無限に提供することにより、現世に生きながら現世の自我から脱却し、開放されて、目覚めた人間として生かされる。 現世的自我が取り払われる,宗教的目覚めを語ること、不可思議の世界を哲学的に語ることは難しいことです。それは宗教の世界であるからです。それは「大無量寿経」の世界なのであるからです。 光明無量之願”  “寿命無量之願 「大無量寿経」の第12願と第13願で誓われた無量寿如来不可思議光如来、これは全く阿弥陀如来のことで、はかり知れない智慧の光をもって、はかり知れない寿命をもって一切のあらゆる衆生を救ってくださるという佛、それは時間的に過去現在未来の三世を貫いて寿命に限りがなく、無量寿といい無量光といいます。  謹んで真佛土を案ずれば、仏すなわちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土と日うなり。すでにして願います、すなわち光明:寿命の願これなり。 安楽浄土に往生すること、そこが間違いなく佛性を顕すと、しかれば、如来の真説、宗師の釈義、明らかに知りぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕わす。惑染の衆生、ここにして性をみることあたわず、煩悩に覆わるるがゆえに。「経」(涅槃経)には「我、十住の菩薩、少分仏性を見ると説く」と言えり。かるがゆえに知りぬ、安楽佛国に到れば、すなわち必ず仏性を顕わす、本願力の回向に由るがゆえに。また「経」(涅槃経)には「衆生、未来に清浄の身を具足荘厳して、仏性を見ること得」と言えり。 それは阿弥陀如来の本願力の回向に由るからであります。   ここをもってまた仏土について、真あり,仮あり。選択本願の正因に由って、真佛土を成就せり。真土と言うは、「大経」には「無量光明土」(平等覚経)と言えり。あるいは「諸智土」(如来会)と言えり。 「論」には「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」と日うなり。往生と言うは、「大経」には「皆受自然虚無之身無極之体」と言えり。「論」には「如来浄華衆正覚華化生」と日えり。または「同一念仏して無別の道故」(論註)と云えり。また「難思議往生」(法事讃)いま真佛:真土を顕わす。これすなわち真宗の正意なり。  有限な人間が無限と同一円化することによって安心立命を得ること、この有限から無限に変転して行くのには、ある過渡的なものを必要としています。有限である人間にはそれ自身にその潜在的能力が無いので、阿弥陀仏という無限の力によって、包摂される故に無限世界に達することが出来ますが、これは阿弥陀仏即浄土の世界でありますが、これを絶対的過渡期の無限と呼ぶことが出来ます。 絶対的無限の世界、無上佛の世界、自然の世界へと移行していく、この絶対無限には阿弥陀仏が媒介の役目を果たしていることになります。阿弥陀仏と無上佛は地続きなので阿弥陀仏をも絶対無限とも呼ぶことがあります。        第4章    因果、因縁=縁起、 宿業  上記の主題の言葉が世間一般の語義としても、又仏教上の語義としても釈尊入滅以降現在までその意味の解釈及び使用方法に大きな混乱が生じております。 特にこの問題を取り上げるのは、仏教の特に浄土門の弁証法に大変密接に関係が在るからであります。その弁証法は釈尊から出発して、龍樹によりよく発展され、すでに親鸞によって確立されているにもかかわらず現在の混乱が生じているわけです。 ウィキペデイア辞典によると、縁起の原語はPratiiya-samutpaadaで原意は、因縁生起の略と考えられ、旧約(鳩摩羅什)では因縁、新約(玄奘)では縁起と訳されています。 一般の語義では、きざし、前兆、の意味に理解され、縁起を担ぐ、縁起が良い、縁起が悪い、と言うこのような意味から、縁起直し、縁起物などという風俗や習慣が行われ、縁起を故事来歴の意味に用いて、神社仏閣の沿革や、そこに現れる功徳利益などの伝説を指すようなこともあります。 また、仏教上の語義でも、部派仏教では業感縁起を指し、人間の幸不幸、社会生活の成功失敗を、人間の行為(業)の結果とするものなどです。 これは明らかに間違いであります。 仏教本来の意味は、釈尊自身が悟った縁起の法は、甚深微妙にして悟りにくいものであるが、この世の自然のあり方であり、真実であると言う事、仏教はこのように天地自然の真実を見極め、それを身につけて実行するものであること、仏とは、この縁起の法を自覚自行することを指していますと述べ、宇宙の万物の生滅変化を貫く理法と見なしております。 因果の言語はHetu-phala,で、一般的には原因と結果のことであります。ある事情を惹起させる直接的なものと、それによってもたらされた事象。一般には、事象Aが事象Bを引き起こす時、AをBの原因といい、BをAの結果といいます。このとき、AとBの間には因果関係がるといいます。 また、通俗的仏教では因果と言う場合には、業(ごう)思想と結びつき、自己の存在のあり方にかかわる因果性をいうことが多いのです。善因善果、悪因悪果、人間や天人として生まれる善の結果や、地獄:飢餓:畜生として生まれる悪の結果を得るのは、前世の自己の善業あるいは悪業を原因とするという、方便としてしばしば使われます。 この因果は自然科学的法則ではなく、われわれの行為に関するものであります。したがって因果応報というように、人間の行為を社会的に倫理的に規定する教説として言われてきたものです。 しかし、このような通俗的仏教の考え方は、俗説であり、仏教本来の考えからすれば明らかに間違いであります。 釈尊は、原因だけでは結果生じないとし、間接的要因(縁)によって結果はもたらされるとする、因縁果。そこで、因縁=縁起と呼ぶ法によって全ての事象が生じており、結果も原因も、そのまま別の縁となって、現実は全ての事象が相依相関として成立しているわけです。 釈尊は、此があれば彼があり、此れがなければ彼がない、此が滅すると、彼が滅す。と説いています。これは、此と彼とがお互いに相依相成しているのであり、それぞれ個別に存在するものでないことを言っていうのであり、すなわち有無によって示される空間的社会的にも、生滅によって示される時間的歴史的にも、すべての存在現象は、孤立でなく相互の関係によっての現象していることを説いたものであります。 一切のものはすべて独一存在でなく無我である。しかし、無我でありながら、無我のまま価値を持ち存在性を持ち得るのは、すべてが縁起の法であるからです。此は彼に対して此であり、彼と対さなければ此は此でない。このような関係においてのみ存在は存在性を獲得すること出来るのであります。 縁起の法の下に因果の法則があります。  この二重性を既に 釈尊の説いた教説の中に見出す事が出来るのであります。  明治に入り、浄土真宗の立場からこの問題に哲学的に立ち入ったのが清沢満之であります。 彼は「宗教哲学骸骨」と「他力門哲学骸骨」の二つの小著で彼の言う有機組織論(清沢満之の弁証法)として、哲学的に、理論的に、縁起の理論の再構築を試みました。 「骸骨」の第五章で因果性の法則の中で生成の法則を説明しています。その前にショペンハウア-の充足理由の原理を批判し、又、フイッテ、ヘ-ゲルの三項進化の法則(ヘ-ゲルの弁証法)を先なるものと後なるものとの間にある必然を主張するのみであると、批判しています。 彼は、その中で、単一の実体がそれ自身で生成したり変化したりすることができるなどと言うことは、決して考えることが出来ない、と述べ、既にヨーロッパの哲学では常識的に確認されているヘ-ゲルの弁証法を理解することが出来ませんでした。 そこで、彼の生成の法則は、原因は条件とともに結果の中に発展してきました。有限世界の事象はみなことごとく変易の法に従い因(原因)と縁(条件)との二要素より果報(結果)生ずるとしました。 原因  |      条件---------------結果(原因)                           |     条件-----------------結果(原因)                                  |        条件--------------------結果(原因)                          |                         条件--------------------結果(原因)                 また、有機組織論を述べています。  有限世界の中では全てのものが相互関係の中にある。万物は個々のものとして生成いたします。この相関性はそのつどの条件(縁)との出会いの集合が万物相関論の意味であります。一個のものは、万物相関の空間的及び時間的連続の産物であり、相関の結果であるわけであります。 万物は世界のあらゆるものの生産過程の結果であり、その要素は顕在的なものもあれば、潜在的なものもあります。可視出来ないもの、不在的で現前するものでありながら確固として捉えきれないもの、そのようなものを不在の要素の膨大な集積に注目しました。 彼は因果論の中に二重の因果論を見出しました。 1)は、先なるものが後なるものを決定する。原因~~縁因~~結果  と言う演繹的方法と、 2)は、後なるものが先なるものを生む。 結果~~縁因~~原因 と言う帰納的方法、 結果から出発して世界を把握する方法、万物が結果であり、結果を生み出した生産過程へと 視点を移して、結果の原因と縁因を分析的に取り出す此れが彼の有機組織論の中の主伴互具 論でありました。  万物の相関のなかで「主」として結果をすることもあれば、「伴」として結果することもあります。いやむしろ、万物はつねに同時に「主」たり「伴」たりとして存在すると、 又一方、事物は個別の観点から見れば、偶然の出会いの結果でありますが、 よくよく結果を分析して原因と縁因を取り出し相関関係を再構築した場合、万物はつねに 必然的相関関係にあることを有機組織論として理論化しました。 ここで、二重性についてその対象が無機的自然一般の存在と、有機生命体とによって異なることを明らかにして、清沢満之の有機組織論をより解り易くする必要があります。 万有が無機的自然一般である場合、万有の相関関係は水平的:横的関係で法則性の関係であります。法則性と必然性の関係であります。あるがままに存在し、事物は必ず必然的であり、時間と場所をどのように変更しても、永遠に事物の本質を変更しないまま存在すると云う事です。   因果性は有機体生命体にのみ有効であります。それは垂直:竪の関係であり、 原因と結果はその作用原因=条件があれば必ず結果を生ずるものであります。 もう少し大胆に云えば、因縁の法則性:必然性を基礎としてその横の法則性の上に原因:結果の竪の因果性を重ねて、有機組織論を語れば、宇宙万物を動かすものがあります、宇宙の法則であり、それが絶対他力であり、それが解らない者が無明の中にさ迷い、その本来の言葉の意味もはき違え我をも迷わす、因果、因縁=縁起、宿業の言葉を使っているのが現状であります。 親鸞は横の法則と竪の法則を教行信証の中でどのように扱っているかを確かめてみました。 横超を検索すれば11件、堅超は4件検索されました。その中から、横超を二箇所引用しますと、(第2編 第5章  信の巻 を参照ください。)  “しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪について、また二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。「竪超」:「竪出」は権実:顕蜜:大小の教えに明かせり。暦劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横について、また二種あり。一つには横超、二つには横出なり。「横出」は、正雑:定散:他力の中の自力の菩提心なり。「横超」は、これすなわち願力回向の信楽、これを「願作佛心」と日う。 願作佛心は、すなわちこれ横の大菩薩心なり。これを「横超の金剛心」と名づくなり。横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといえども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、 永く聞不具足の邪心を離るべきなり。”  “「横超断四流」と言うは、「横超」は、「横」は竪超:竪出に対す、「超」は迂に対するの言なり。「竪超」は大乗真実の教えなり。「竪出」は大乗権方便の教、二乗:三乗迂回の教えなり。「横超」は、すなわち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また「横出」あり、すなわち三輩:九品、定散の教え、化土:懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾に速やかに疾く無上真道を超証す、かるがゆえに「横超」というなり。” 横超というは本願他力、真実円満の教え、すなわち真宗の教え。本願によって成就された清浄の報土には、無限の世界が開かれ、無上真道を証して下だされる。横超という横的、水平的関係、の万物相関の理法によって、必然的に、人間にも佛性が与えられるという事になります。それに目覚める、菩薩心、万物相関的に生きる、自然の弁証法の下で生きる、我一人宇宙の中で唯一無比の存在として生きていく、有限の世界で、無限の阿弥陀仏に摂取不捨されて生きていく、それが横超の世界で生きて行くという事と思います。  因果、因縁=縁起をもう少し哲学的に解り易くまとめてみました。第3編の第2章 宗教と科学の最後のところを再度掲載いたしますと、 “科学というものには、自然科学、社会科学、人文科学の三つの分野が在ります。その中で自然を扱った分野にさらに三つの分野に分けることが出来ます。 1)自然の中での無生命体  ------------------- 無機質自然界 2)自然の中での人間を除く、生命体---------- 有機質自然界 3)人間、この特殊な動物------------------------- 有機生命体の特殊なもの人間 1)は自然の物質、宇宙、等 の一般の学問。2)は生命体(人間を除く)一般の学問、 1)と2)は自然の中に絶対的な法則が貫かれている、自然の弁証法の下の世界であります。 3)は生命のある動物の一種に過ぎないものありますが、全く特殊な動物である人間、それを扱う学問、それは別枠で既に社会科学、人文科学として扱われております。” 2)と3)は宇宙万有のなかに、有機質生命体が出現している世界、そこには 垂直、竪の関係。 有限の世界、相互=相依の関係の世界、そこには原因があって条件=作用原因=起生原因があれば、それを因果性と呼び、必ず結果を生ずる。 しかし、3)特殊な動物、人間は単なる有機質生命体の領域でないのであります。 因縁の法則性と因果性を分けて考えますと、自然の弁証法と相互反応行為とに分けられます。 A) 万物が相依相関関係にあるときはつねに法則性と必然性があります。自然の弁証法が貫徹しているわけであります。 しかし、B) 行為する生命体が相手に働きかけ(客体)それを変形し、別のものにする変形行為は行為する主体をも変形変換するという主体と客体相互に共同して変形変換するという、主体が客体に相互反応行為をしてその結果新しい主体が出来、又新しい客体が、これの行為によってあれが生ずる。 この行為は人間の自由な行為がなされ、特殊な動物である人間社会では、因果性に対して自由な行為が加わり、目的論的意図的な行為に基づいた独自の(したがって単に生物学的な=自然弁証的な因果関係でなく)因果性が成り立つのであります。 仏教はこれで始まり、これで終わるという言葉があります。「悉有佛性」すべての万有には佛性があると言うことです。しかしながら、この特殊な動物、人間のみが佛性を持ち合わせておりません、まさにそれ故に人間だけが例外的に精神的に佛性を求めねばならない。これが宗教、仏教なのであります。人間の世界は、時間的であり、歴史的であり、空間的であります。人間のみが自由な行動を起こし、目的:意識的行為が働いて独自の結果が生まれ、自然の絶対的な法則から外れた行為を続けているのであります。人間は自己意識があるために、自己の行為を自覚し、現在の自己を先行過程の結果として自覚し、自己としての結果に至る過程を遡及的に理解します。そのとき、原因は過去性を、結果は現在性(と未来性)を示します。厳密には人間は時間と歴史を持っており、特殊な動物である人間は、行為をし、自覚をし、それを契機として過去全体の認識までに至ります。それぞれの事情に応じた角度を持って収斂するのであります。すなわち、3)、と B)の立場に立っていることになります。 人間以外の存在者はすべて佛性のまま生きています、いまさら目覚める必要が無いのであります。人間以外の存在者は既にして仏陀であるのです。 他の存在者のようにあるがままに生きられない例外的存在者、人間。人間存在の悲しみ、人間のみが佛性の中に生きていない、佛性を顕現するには、我の自覚、我の目覚めであります。自然的宇宙論的な法則の認識、それは1)の自然の法則の確認でありますが、それを宗教的認識に目覚めること、これには不可思議の世界に超えていく媒体が必要であります。これが仏教であります。大経の世界であります。 有機的生命体が行為をして自然宇宙に介入する場合、人間は必ず必然的に自覚的目的的に応じて行動します、世界と対立し、これを繰り返して、人間的世界を作り、原因と条件と結果を繰り返し、縁起の法の下に因果の法則、縁起と因果の二重性を形成しているのであります。 人間存在の特殊性、自然と断絶しているこの空間を埋めるのが仏教であり、目覚めであり、智慧であります。      第五章    自力と他力、自利利他  自力と他力、他力の往相回向還相回向、自利利他は親鸞が教行信証で明らかにしておきたかった最大のテ-マであったと思われます。 その証拠に化身土の巻を作り、当時の仏教界の常識であった教行証の三法であったのにわざわざ付け加えているのであります。 自力と他力について、教行信証の化身土の巻には、  “宗師(善導)の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸:頓すなわちおのおの所宣に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を豪れり」(玄義分)と 云えり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかって開かず」(定善義)と言えり。いかに況や無相雑念誠に獲がたし。かるがゆえに「如来懸に末代罪濁の凡夫を知ろしめす。立相住心なお得ることあたわじと。いかに況や相を離れて事を求むるは、術通なき人の、空に居て舎を立てるがごときなり」(定善義)と言えり。「門余」と言うは、「門」はすなわち八万四千の仮門なり、「余」はすなわち本願一乗海なり。”  仏教には八万四千の法門があることを述べ、自力の修行は修し難いので本願の一乗海によるべきであると説いています。   “おおよそ一代の教について、この界の中にして入聖得果するを「聖導門」と名づく、「難行道」と云えり。この門の中にて、大小、漸頓、一乗:二乗:三乗、顕密、堅出:堅超あり。 すなわち自力、利他教化地、方便権門の道路なり。安養浄刹にして入聖証果するを「浄土門」と名づく、「易行道」と云えり。この門の中について、横出:横超、仮;真、漸:頓、助:正:雑行、雑修:専修あるなり。「正」とは五種の正行なり。「助」とは名号を除きて己外の五種これなり。「雑行」とは正助を除きて己外をことごとく雑行と名づく。これすなわち横出:漸教、定散:三福、三輩:九品、自力仮門なり。「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離るる、これを「横超他力」と名づくるなり。これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり、これすなわち真宗なり。すでに「真実行」の中に顕し畢りぬ。それ雑行:雑修、その言一つにしてその意これ異なり。「雑」の言において、万行を摂入す。五正行に対して、五種の雑行あり。「雑」の言は、人天:菩薩等の解行雑せるがゆえに「雑」と日えり。本より往生の因種にあらず、回心回向の善なり、かるがゆえに「浄土の雑行」と日うなり。また「雑行」について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。「専行」とは、専ら一善を修す、かるがゆえに「専行」と日う。「専心」とは、回向を専らにするがゆえに「専心」と日えり。「雑行:雑心」とは、諸善兼行するがゆえに「雑行」と日う、定散心雑するがゆえに「雑心」と日うなり。また「正:助」について、専修あり雑修あり。この雑修について、専心あり雑心あり。「専修」について二種あり、一つにはただ佛名を称す、二つには五専あり。この「行業」について専心あり雑心あり。「五専」とは、一つには専礼、二つには専読、三つには専観、四つには専名、五つには専讃嘆なり、これを「五つの専修」と名づく。専修その言一つにして、その意これ異なり。すなわちこれ「定専修」なり、また「散専修」なり。「専心」とは、五正行を専らにして二心なきがゆえに、専心と日う。すなわちこれ定専心なり。またこれ散専心なり。「雑修」とは、助正兼行するがゆえに雑修と日う。「雑心」とは、定散の心雑するがゆえに雑心と日うなり。知るべし。おおよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集)と云い、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す、感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)と云えり、信和尚(源信:往生要集)は感師に依れり、空聖人(源空:選択集)は導和尚に依りたむなり。経家に拠りて師釈を披くに、雑行の中の雑行雑心:雑行専心:千行雑心なり。また正行の中の専修専心:専修雑心:雑修雑心は、これみな辺地:胎宮:懈慢界の業因なり。かるがゆえに極楽に生まるといえども、三宝を見たてまつらず、仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願、良に由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよ明らかなり。” 聖道門と浄土門を対比して、浄土門は真実であり、聖道門は権化であることを明らかにし、その浄土門の中に方便の教えと真実の教えのあることを示し、さらに自力の行である雑行:雑修の内容について親鸞は独自の解釈をいたしました。   “それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。真門の方便について、善本あり徳本あり。また定専心あり。また散専心あり、また定散雑心あり。「雑心」とは、大小:一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。良に教は頓にして根は漸機なり、行は専にして心は間雑す、かるがゆえに雑心と日うなり。「定散の専心」とは、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを「自力の専心」と名づくるなり。「善本」とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。かるがゆえに善本と日うなり。「徳本」とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず、十万三世の徳号の本なり。かるがゆえに徳本と日うなり。しかればすなわち釈迦牟尼佛は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。すでにして悲願います。「植諸徳本の願」と名づく、また「係念定生の願」と名づく、また「不果遂者の願」と名づく。また「至心回向の願」と名づくべきなり。”  親鸞は第二十願について明らかにして、すなわちここでは真門の教えを薦めていますが、果遂の誓い:当面は化土往生でありますがついに第十八願に転入させるという意味であります。  “真に知りぬ。専修にして雑心んなるものは大慶喜心を獲ず。かるがゆえに宗師(善導)は、「かの佛恩を念報することなし。業行を作すといえども心に軽慢を生ず。常に名利と相応するがゆえに、人我おのずから覆いいて同行:善智識に親近せざるがゆえに。楽しみて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆえに」(往生礼讃)と云えり。悲しきかな、垢障の凡愚、無際より己来、助:正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、佛願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲嘆すべし。おおよそ大小聖人:一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、佛智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。  第二十願の真門の教意を明らかにしています。  “ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行:諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本:徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入れて、深く佛恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。”  三願転入、聖道をすてて浄土に帰し、第十九願の要門を出でて第二十願の真門に入り、その真門から第十八願の他力の弘願に帰するというそこには方便を媒介としていることが明らかであります。 “信に知りぬ。聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末:法滅の時期にあらず。すでに時を失し機にそむけるなり。浄土真宗は在世:正方:像末:法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや。”   聖浄二門をあげて時期を判じ、聖道の教えは釈尊在世の時代はその時期に適っていますが、像法や末法の時代にはそれは適応しないという歴史観をもって、浄土真宗の教えは、他力の教えは、末世のどのような時代にも、悪衆生にも救われるということを説きました。(詳しい読解は第2編 第8章 方便化身土の巻を参照にしてください)。  教行信証の行の巻には、“他力と言うは、如来の本願力なり”と明らかにして、行の巻に解き明かした大行は、まったく他力に他ならないことを示し、その他力は如来の本願力であることを結論付けられたのであります。本願というのは如来の願心のことで、一切の衆生を救いたいという如来の佛力の事を言っており、故に他力は人間の能力を超えた絶対者ということになります。(詳しい読解は第2編 第4章 行の巻 を参照してください)。 この自力他力について、清沢満之の二つの著作、「哲学骸骨」を参考にして哲学的分析をいたしますと。宗教は自分自身が無限の存在を信じることから始まり、有限と無限が絶対同一体である事を認める。それは科学的には、また哲学的には絶対矛盾であります。宗教はそれを飛び越えていく事であり、それを横超することが仏教の他力の浄土門に入る事でありますが、飛び越えていく方法には二つの門が分かれております。 自力門と他力門であります。 まず自力修業門については、有限と無限の統一は有限者の内的潜在的能力の発展によって達成されるという立場であります。自己の中に無限の本性と能力があると悟り有限の中に無限があると考える。 心の平安を得るために宇宙のすべてが無であり、潜在的無限を霊魂の中に無限の力を認めるため、有限者の自力による認知であり、有限の心の平安であります。 修行、徳の開発は有限の底から無限の最上段まで上昇する階段でありますが、無限の時間を貫いて無限の修行をいしないと成就しないことです。有限者の寿命には結局は成就しない事になります。それは個人の自力の努力での有限の達成があるのみです。 極言すれば、自力門は自力修行を手段として、自分達の考えた結果をもたらそうとして、有限世界で有限な手段を持って、無限の世界に属している事を解決しようとしている事は、本来有限者にとって不可能である事であります。それを知ってもなお自力修行、他者教化を続ける事は呪術に落ちる事にもなると私は思います。 次に他力救済門について、有限と無限の統一は有限者である自分自身の力を使うのでなくて、外部の顕在的な助けまたは恩恵によって統一に導かれる、達成されると考えるという立場であります。宇宙のすべての事物は個々には有限でありますが、その連関の中で生成が起き運動ないし活動は自然の法則が貫徹し、その不可思議な他者の働きだとする考え方であります。従って、宇宙の働きは他力門にしか成立しないわけであります。自己の有限の無力さを自覚して、無限はわれわれの外部にある現実の力と見なし、他力の恩恵による無限の心の安らぎを得るのであります。そこには無限の側で修行、徳の開発がなされ、往生の空間に遊び、有限者は至福の土地から、無限の顕在的能力を外部に見て、これを通り抜け無自覚無認識的に自分の存在を無限の国土に預けます。無限の数も無限でなければならない。無限の数の光明を受けるものが存在する宇宙は無限の数の無限な心にとって、無限の数の無限の宇宙に生成いたします。他力門の往生は誰であれ至福の国土に入る事を妨げられません。無限が成就し完成されるわけです。他力と言うは無限である如来の本願力であるという事です。  他力の往相回向と自利、還相回向と利他は各々が対になって、又裏表になっております。 教行信証の教の巻には、“謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。それ、真実の教を顕さば、すなわち「大無量寿経」これなり。” 教行信証の証の巻には、“二つに還相回向と言うは、すなわちこれ利他教化の地の益なり。すなわちこれ「必至補処の願」より出でたり。また「一生補処の願」と名づく。また「還相回向の願」と名づくべきなり。「論註」に顕れたり。かるがゆえに願文を出ださず。” また、次に証巻の巻を終わるにあたって、 “しかれば大聖の真言、誠に知りぬ。大涅槃を証することは、願力の回向に藉りてなり。還相の利益は、利他の正意を顕すなり。ここをもって論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。”  浄土真宗の教義は往相と還相の二回向と教行信証の四法に他ならない事を示し、第二十二願をあげ、証果のはたらきとしての還相回向を明らかにして、往還二回向の自利利他の関係を明らかにしています。(第2編 第3章教の巻の冒頭と第6章 証の巻の終末の部分を参照してください)。また、往還二回向の読解は第2編 第3章の教の巻の冒頭、自利利他の 読解は第2編 第4章の行の巻、を参照してください。  自利利他について今村仁司は清沢満之の二つの哲学骸骨を解説するに当り、次の通り定義しております。“往相と還相は同一事態の二つの側面であります。同一事態とは「我」が無限に包摂された「自己」に目覚めるという事態であります。目覚める事は同時に二つのヴェクトルをもつ運動を含むということです。往の相は「我」が無限的に自己に目覚めること、すなわち自己が浄土に迎え入れられることを「知る」或いはさとることであり、それが自利であります。還の相は目覚めた自己と他人の関係をさします。還相は対他関係である目覚めた自己が他者に対して覚醒させる相において関係します。目覚めた自己とは無限の自己であり、無限による包摂と同じ振る舞いを他者にいたします。それは目覚めた自己は阿弥陀仏の縮小型になっている。還相の自己は衆生を迎え入れることを繰り還すのであります。” 無限に包摂された自己に目覚める事とは、それは他力の信念を得たとき、(観念論的に自我を棄て無我でありようとするのは自力論の無我になります。) 世俗的な自我(対他欲望をもつ自我),我執、世俗的な道徳規範を断念し、棄てることが出来るのです。それが自己(無我)への道であります。無我としての自己が無限に包摂された、非-我、無-我、が他者を迎え入れる事が出来るのであります。還相の利他になるわけです。 無我、我執を離れた他力の道、念仏の道を歩む時、どうしても、世俗的道徳、倫理、正義、政治、経済、体制、現世の世俗的価値観と衝突する事が出てきます。 これは親鸞が言った「悪人」と通低するものであります。現世で生きる事は煩悩の中で生きる事であります。 煩悩の中で生きるにしろ、他力の念仏の道は自我を棄て、我執を離れ、無限による包摂の中で無我の境地に生きる事です。自己が毅然とした価値観の下で生きることになる事です。そこには無限の出会いが、現世の世俗的価値観を超えたところに、往相が還相に、自利が利他であることは、与えられた慈悲の心、行動が自己と他人の苦しみを開放して、自己配慮が同時に他者配慮であり、自己配慮=自利はそれだけでは充足完結しないで他者配慮をその成就のためには絶対条件として要求する事であります。他者の配慮の中でのみ自利としての自己配慮が実現するという事です。二つは一つであります。            第6章   自然  自我の否定、非我の立場は分別によって認識されたり、分別によって獲得されたりするものではなく、むしろ分別:認識の限界を自覚してそれから離脱すること。親鸞には“他力には義なきを義とする”“他力とはとかくはからひなきを申候也”と記しております。 人間の構成する作為的秩序の歴史的世界から離脱して転入する世界は、義、分別、はからひを超えた自然と言う世界であります。 そこは何も現実を逃避した世界ではありません。 現世における歴史的残存、分別から離れ、自然の法則に従った自由な決断の拠りどころを得るところであります。  他力の立場が自然の世界に転入していく事は必然性であります。 おわりに  今年(2004年)の初めに親鸞の学習に書き集めていたメモを整理するうちに、親鸞と弁証法との関係が、どうしても気になって仕方がありませんでした。 そのうちに親鸞学習の私なりの方法、歴史学、教学の学習、哲学的=弁証法的方法論、この三つの方向から親鸞学習、研究を進めました。   何しろ今まで宗教の勉強をしたこともなく、ただ、浄土真宗、親鸞にだけは大きな興味を持っていただけでした。  数年かかると思っていましたが退職して暇になった事もあり、1年で一応の学習の目途が着きましたので、一つのレポ-トを作成いたしました。  冒頭での、“はしめに”に書きました目標には程遠いものになりましたが、第1篇から第3篇にまとめてみました。 これを纏めるにあたって、先輩諸氏の多くの成果を参照、また、引用させていただきました。学習、研究を進めるに大きな助力となりました。あらためて感謝いたします。 参考文献: 真宗聖典    真宗聖典編纂委員会 浄土真宗聖典    教学伝道研究センタ- 口語訳、教行信証附領解    金子大栄 教行信証の意訳と解説    高木昭良 親鸞集(日本の思想)    増谷文雄 真宗概要     真宗大谷派教化研究所 浄土の真宗    真宗大谷派教科書編纂委員会 口語訳浄土三部経    浄土真宗聖典編纂委員会 浄土三部経を読む    NHKラジオ編集部 選択本願念仏集    大橋俊雄校注 歎異抄(第1巻-4巻)    弥生書房版 歎異抄を読む     NHKラジオ編集部 親鸞思想    古田武彦 親鸞の思想と生涯    林田茂雄 歴史のなかの親鸞    西本願寺教学振興委員会 現代思想:親鸞     青土社版 親鸞のコスモロジ-    大峯顕 仏教のコスモロジ-    W.ランドルフ:クレツリ 伝統と現代:親鸞    伝統と現代社版 親鸞入門     早島鏡正  親鸞-悪の思想    伊藤益 教行信証入門    石田瑞磨 清沢満之語録    今村仁司編訳 清沢満之と哲学    今村仁司 親鸞研究     二葉憲香 真宗信仰の思想史的研究     奈倉哲三 中世民衆思想と法然浄土教    亀山純生 日本人の歴史意識     阿部謹也 日本人の宗教意識    湯浅泰雄 親鸞    野間宏 親鸞    澤田ふじ子 物理学と神     池内了 哲学       協同出版編集部 弁証法の理論:ヘ-ゲル弁証法の本質    許満元 新しいヘ-ゲル    長谷川宏 ヘ-ゲルを学ぶ人に    加藤尚武 ヘ-ゲル      城塚登 自然の弁証法    エンゲルス、秋間実訳                                   完                  2004年10月31日     完稿                         辻   友久                  郵便番号654-0076                  兵庫県神戸市須磨区一の谷町2丁目8-53