唯識と現代物理学

竹村牧男『インド仏教の歴史』(講談社学術文庫)を読んでいたら、次のような記述に出会った。

「今日の理論物理学においては、物質の本体を追求していって、アトム(原子)を構成するさらに微小な単位まで究明されることとなった。しかし、そこで究極の物体は見出されたのであろうか。しかも、ハイゼンベルクの不確定性原理によると、要するに、主観からまったく独立の客観は存在しないという。」

著者の竹村氏は唯識の専門家と目されている方であるし、私は唯識については何も知らないも同然なのだから、唯識が正しい仏教かどうかについては、今は保留しておきたい。

問題は、竹村氏が主張するごとく、今日の理論物理学は唯識の正しさを証明しているのか、ということである。

竹村氏でなくとも、仏教と量子力学がどうとか、訳のわからぬ主張をして、いかにも仏教が理論物理学の最先端と整合しているような言い方をする人がいる。しかし、これは私に言わせれば、ほとんど眉唾である。「トンデモ」の類いである。

竹村氏の主張もこの類いといってよい。問題点は二つある。

究極の物体

1897年にトンプソンが電子を発見すると、「デモクリトス以来のアトムは崩壊した、究極の物体は存在しない、唯物論はまちがいだ」との大合唱が始まった。これに対して、1907年にレーニンは『唯物論と経験批判論』を著して、反論している。要約すれば、究極の物体が見出されないことは、物質すなわち人間の意識から独立した存在が認められないことを意味しないのである。当然のことではなかろうか。自然は階層構造を有し、大は超銀河団から小はレプトン、クォークにいたるまで、無限のカテゴリーの系列に他ならない。

『唯物論と経験批判論』から下記を引用すれば足りるだろう。

「弁証法的唯物論は、人間の進歩しつつある科学による自然認識のこれらすべての道標の、一時的・相対的・近似的な性格を主張するものである。電子は原子と同じように汲みつくされえないものであり、自然は無限であるが、しかし自然は無限に存在している。」

竹村氏の立論は、100年前にレーニンによって論破された観念論の亡霊である。以上が第一点。

物質と物体と実体と自性

私は、認識論では弁証法的唯物論、いわゆるマルクス主義哲学の立場に立つものである。唯物論というと、「物質だけが存在する」という考え方のことだという誤解があるかも知れないので、一言しておきたい。

近代唯物論で言うところの物質 die Materie とは、客観的存在を示す認識論上のカテゴリーのことである。すなわち、人間の意識から独立した存在である。石ころとか鉄の塊のような無機的自然とは限らない。人間の体も物質である。エネルギーも、運動の量的表現であるだけでなく、狭義の物質(物体、der K罫per)と相互転化するところの物質である。

この物質は、実体 die Substanz とは別の概念である。実体とは、哲学諸派によってとらえ方が違うのではあるが、概ね、不変的・恒常的・絶対的な性格を有するものとされる。古代唯物論でいえば原子(アトム)がこれに相当し、カントでいえば「物自体 Ding an sich」だし、その他、神やらイデアやらであったりする。これはインド哲学では「自性 svabh嘛a」のことである。すなわち、それ自身において、他の存在とは関わりなく存在するものをいう。ナーガールジュナは、自性が成り立ち得ないこと、すなわち一切が空であることを説いたが、一切空であることは、弁証法的唯物論とはなんら矛盾しない。それどころか、エンゲルスは仏教の空の思想を、『自然の弁証法』において高く評価している。

不確定性原理と観測の問題

第二点目は不確定性原理のことである。

ニュートン力学においては、物体の運動は、初期条件が与えられさえすれば微分方程式によってその解が一つに定まる。しかし、電子のようなミクロの階層においては、値が一定しない。例えば、光は波動であると共に粒子でもあるが(電磁波としては光波、粒子としては光子)、波動の位相を確定すると粒子数が不確定になり、粒子数を確定すると波動の位相が確定しない。これは観測の技術が未熟だからではなく、本来がそのような性格をもつものである。

竹村氏が「主観からまったく独立の客観は存在しない」といっているのは、おそらく観測の問題にかかわって、フォン・ノイマンの理論のことを指していると思われる。彼によれば、観測とは何らかの意味で対象への働きかけであり、そのために観測対象に対して制御不可能な擾乱を与えることである。上述のように、量子力学においては初期条件を与えても結果の値は一つに確定せず、確率的に記述される。ところが、実際に観測してみればその値は決定される。観測以前には不確定だったものが観測によって確定される。ノイマンは、これを観測主体が観測対象にある種の影響を与えたからだと考えた。

これに対するシュレーディンガーの反論は次のとおりである。(『量子力学の現状』

「検査がなければある偏微分方程式にしたがって観測者とは無関係に変化しているはずの対象のψ関数が、検査が行われるやいなやある精神の作用の結果として飛躍的な転化をとげるのだという言い方をするのは、正しいとはまったくいえないだろう。なぜならば、対象のψ関数というものは姿を消し、もはや存在していなかったのだから。」

また、武谷三男氏の反論は次のとおりである。(『現代自然科学思想』

「測定の時に観測対象と観測器械の間に働く予測できない相互作用は、二つの物理的系が量子力学的に結合される時の結合法則に根拠があり、この法則は全体と部分の関係の新しい論理を表しているのであって、すなわち全体は部分の和以上のものである。これが観測者と対象の関係であって、観測者というのは決して主観を意味するのではなく観測器械のことである。」

ノイマンや竹村氏の誤りは、観測を物理的客観的過程と解さず、主観の対象への働きかけと解したことにある。主観は観測結果を確認はするが、観測はしない。したがって、量子力学が「主観からまったく独立の客観は存在しない」ことを証明することはありえないのである。

唯識と唯心論

「唯識は唯心論ではない」という仏教者もいるが、竹村氏はそういう区別はしていないどころか、自らを唯心論者だという分子生物学者の利根川進氏を評価している。

私の頭のできが悪いからだろうが、ヴァスバンドゥなどの原典はもちろんのこと、いくら解説書を読んでも、さっぱり分からないのだ。それは私が唯物論に固執しているからなのか? しかし、人間が誕生する以前から地球は存在するはずだ。唯識=唯心論者にいわせれば、「宇宙のビッグバンも、地球の誕生も、あなたがそのように認識しているからありうるのであって、認識のないところではそういうものは存在しないのと同じだ」ということなのだろう。しかし... 私のそういう認識はどこから生まれたのか? 単なる妄想でないとすれば、根拠がなくてはならない。それは教科書に書いてあったから、というに過ぎないとしても、もっとしっかりした根拠なくして教科書の記述はないはずだ。いやいや、そういうものはすべて幻影なんだ、と唯識論者は主張するであろう。では私は唯識論者の頭をげんこつで叩いてみよう。「痛いじゃないか、何するんだ」と怒られたら、私は「私の存在はあなたの心の描いた幻影です」と言い返してみたいものだ。(冗談です...)

(B.E.2550年/A.D.2007年5月17日脱稿)