仏教徒にとって愛国心とは?

愛国心論争が盛んである。私は基本的には、「国を愛する心」が法律や学校教育となじむとは思わない。ただ、このことは既に多くの方が指摘しているので、私からはあえてふれない。

ここで問題にしたいのは、「愛」がそんなにすばらしいものなのか、ということである。「愛」といっても、いろいろある。『新・佛教辞典』(誠信書房)から、「愛」の項目を引いてみよう。

仏陀は愛について、<愛より愛は生じ、愛より憎しみは生じる。憎しみより愛は生じ、憎しみより憎しみは生ずる>(増支部経典二)と説かれた。仏教者にとって、愛は憎しみと背中合わせであり、いかなる愛もその中に憎しみを可能性として蔵していると考えられていた。愛が深ければ深いほど憎しみの可能性も大きくなる。それは、愛が本質的に、自己を愛することを中心としているからである。

同辞典は続いて、「愛」を5つの段階に分けて説明している。

  1. 「愛」(piya):自己・血族・親族に対する血縁的愛情
  2. 「親愛」(pema):他者に対する友情
  3. 「欲楽」(rati):特定の個人に対する愛情(恋愛)
  4. 「愛欲」(kAma):性的愛
  5. 「渇愛」(taNhA):病的な執着になった愛

そしてこの五つの関係は次のように説明される。

この五段階は人間の愛が、自己愛から始まって性愛に到り、さらに自己愛の最も病的な形をあらわした渇愛に至るという段階的な深まりを示している。これは別の形のものになるのではなくて、本来の様相である渇愛が遂に正体を現すようになると解すべきである。

上記で明らかなように、仏教では「愛」を手放しで礼讃しない。むしろ、自己への執着の一形態であると警告しているのである。具体例をあげよう。「わが子を愛する」というとき、それは自我の延長線上にあるから愛しく思うのであって、他人の子と分け隔てなく愛しく思うわけではない。わが子が出来が良いと嬉しいが隣の子の出来が悪いともっと嬉しい、わが子が自分の意に染まないと「可愛さ余って憎さ百倍」、ありていにいえば私たちの「愛」はその程度のものである。だからして、愛が深いほど憎しみも深くなる。

これが家族のかわりに、地域だとか国だとかをあてはめても事情は同じである。スポーツの大会で、日本を応援したくなる気持ちは日本人ならほとんどが持っている。それは愛国心である。そして、「日本がんばれ」という心情は「相手国が負けることを願う」心情と同一である。オリンピックで、日本人選手が金メダルをとったことがあった。そのとき、文部大臣は「(優勝候補のライバル選手について)人の不幸を喜んじゃいけないけど、こけた時は喜びましたね」 と本音をもらして非難を浴びたが、おそらく日本人ならだれもが同じようにおもったはずだ。ただ、そういうはしたないことを言わないのが礼儀であるにせよ。

一部の人は、「真の愛国心はショーヴィニズム(排外的愛国主義)ではない」と言っているが、それは程度の差であって、本質的には同じことなのである。ただし、その「程度の差」は大きな問題であることにはちがいない。

では、仏教は「愛」を否定するのか? このように疑問を持たれる方がいるだろう。それに対しては次のように答える。「愛してはだめだ、と言われたら、あなたは愛することがやめられるのですか?できませんね。それはあなたも私も事実として持っている心情であって、論理を否定することはできても、事実を否定することはできないのです」と。愛と表裏一体の関係として憎しみがある、という事実をブッダは指摘した。愛は煩悩のひとつなのだから、それをなくしてしまうことは不可能である。

したがって、松本史朗先生の次の言明は、過激と思われるかも知れないが、論理的にはまったく正しい。

自己を愛してはならないと思っても、常に自己を愛していることは確かであるし、日本を愛すまいと考えても、日本を愛してしまうことは避けられない。しかし、仏陀の教えは絶対である。それ故、私の結論は次の主張である。『仏教徒は日本を愛してはならない(松本史朗『縁起と空』)

よく知られている通り、仏教では「愛」よりも「慈悲」にプラスの価値を見出している。が、「慈悲とは真実の愛である」あるいは「真実の愛とは慈悲である」と言ってもさしつかえないだろう。愛が自己・自己の所有物・自己の所属範囲に向けられる時、愛は憎悪や苦悩をもたらす。これに対して、他者に向けられる場合、いや厳密に言えば、自己を含む一切に対して無条件に向けられる場合が真実の愛=慈悲である。これを「無縁の慈悲」「大悲」といって、ブッダのみがよく抱くことのできる心である。

学校教育で「愛国心」を教えるくらいなら、「ほんとうの愛とは、自分をすててひたすら他者のために、一切の区別なく、尽くすことです。私にはとてもできることではありませんが」と教えるがよい。

(2006年6月20日脱稿)


付記(2006年6月25日)

共同通信は6月20日に次のような記事を配信した。

不起立に「煮えくり返る」 君が代斉唱で戸田市教育長
埼玉県戸田市の伊藤良一教育長が市議会で、市立小中学校での入学、卒業式の君が代斉唱で起立しない来賓について「はらわたが煮えくり返る」と批判していたことが20日分かった。市教育委員会も起立しなかった来賓の氏名や人数の調査を検討しているという。
君が代斉唱をめぐっては、東京都教委が地方公務員法に基づき、起立を拒否した教員を大量処分しているが、来賓に関しては教育委員会に指導権限がなく、調査することになれば極めて異例。
市教委によると、今月13日の市議会で「保護者や来賓で起立しない人がいる」との一般質問に、伊藤教育長が「(事実であれば)はらわたが煮えくり返る」と答弁。「内心の自由という人がいるようだが、生徒たちの前で規律を乱すようなことがあってはならない」と述べた。

やはり、というかなんというか... この伊藤良一教育長の憎悪の原因が愛国心ならば、こういう愛国心は人間を不幸にさせるだけだ。いうまでもないだろうが、「生徒たちの前で規律を乱すようなことがあってはならない」というのは自分勝手な理屈であって、自分で勝手に決めたルールに従わない人がいるのが許せないというのは、どこぞの専制君主の発想だ。さらに、氏名を調査するというそうだから、この日本も、いよいよどこぞの専制君主国家・情報統制国家になる前触れなのだろうか。