法要の現代語化を考える

「仏教を日常の言葉でどのように表現し伝えることができるのか、ごいっしょに考えてみませんか?」

このようなキャッチコピーをつけたチラシを作成し、日本仏教エスペランチスト連盟を主催団体として、2月18日(土)大阪泉北郡の萬福寺において「仏教と現代語を考える集い」を催しました。

漢訳経典を基盤にした日本仏教においては、ほとんどの法要が漢文で行われるため、「何を言っているのかさっぱり分からない」という声があがっています。現代人が仏教離れをおこしている原因の一つがここにあります。

このように考える僧侶は、たぶん大勢いることと思います。そうは思っていても、では実際に儀式法要を現代語で勤めることができるのだろうか、という問題にぶちあたります。現在の法要スタイルは、それなりに長い時間をかけて整備され、体系化され、洗練されてきたものですから、今日から急に現代語でやる、というわけにもいかない...こういうジレンマに私は長い間陥っていました。

しかし、儀式法要を現代語で勤める試みは、各所においてなされているのも事実です。今回講師としてお招きした戸次公正(べっきこうしょう)先生はその先駆者のお一人です。私はぜひ戸次先生のお話をうかがいたいと思いました。それは、私自身がいずれ現代日本語による法要のみならず、エスペラントによる法要を勤めるための学びにしたいという動機によるものでした。もちろん先生はエスペランチストではありませんから、基本的な考え方を押さえた上で、後は自分自身で工夫していくしかないわけですが。私が過去において実験的に行ったエスペラントによる法要は、いずれも満足の行くものではありませんでした。

そして今回、私の目的はかなりの部分達成することができたように思います。先生が「仏教を現代語化する」というテーマでお話し下さったことの一部を引用してみます。(引用文は、法蔵館の季刊誌「仏教」92年7月、第20号による)

寺に生まれた私の、子どものころの疑問は、意味不明の読経でお布施をもらえるのはなぜか?であった。(中略)教学にふれて仏法のすばらしさが身にしみて分かるようになればなるほど、この仏法を布教伝道することと、伝統的な儀式が大きく乖離していることへの不信はいっそう深まっていった。(中略)日本では漢字文化を重んじるため、日本語訳されることなく、漢文のまま受容され、信仰、研究されてきた。また、漢文を音読する時の独特の響きに、有難い功徳・利益があると信じ込まれたのか、仏教の呪術化による土着と相俟って、漢文経典の音読が儀式化されてきた。祖師たちは訓読をも重視してきたのだが、国家仏教からは音読のニーズのほうが強かったのかもしれない。こうして、漢文音読が儀式の中核になり、民衆の側からは、それこそ珍紛漢(ちんぷんかんぶん)・意味不明の読経をすることが僧の専門職となり、伝統儀式作法として保守され定着してきたのであった。それは、民衆に対しては「依らしむべし、知らしむべからず」という封建的な態度で臨むことであり、「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに...」という心情をくすぐる呪術性によって、「怨霊の祟りを鎮める」という民俗信仰の無明の闇へと自他を埋没させていく作用にもなった。

かつて、ご門徒の一人が私にこう告げたことがあります。「他所のお寺さんにお願いして法事を勤めていただいた時、『今読んでいただいたお経にはどんなことが書いてあるのですか?』と尋ねたら、『そんなことを知ってどうする』と答えられました。これってどうなんでしょうか?在俗の者はお経の意味を知ってはいけないのでしょうか?」と。私はこれを聞いて愕然としました。これは極端な例ですが、おそらくは、他にも大勢の僧侶は、似たような感覚を持っていはしまいか、と危惧します。

ただし、これは僧侶だけでなく、信徒の側にも責任があります。まず、そういう僧侶を厳しく糾弾してこなかった、むしろ育ててきてしまった、という責任。戸次先生によれば、現代語で法要を勤める、具体的には意訳文を一緒に読んでもらうと、一部には、「勉強させられてるみたいや。ちっともありがとうない」といって怒り出す人もいるそうなのです。戸次先生のお寺では、法事を依頼されると3種類のコースを呈示して選んでもらうのだとか。従来の漢文読経(加えて一部に訓読および意訳文朗読)の方式。現代語意訳文の朗読にBGMや仏教讃歌を加える方式。そして両者を折衷した方式。現代語の法要を選ぶ方はまだ少数で、多くは従来の方式を好まれるのだとか。しかし若い世代では、既成観念にとらわれないだけ、新しい方式が好まれているようです。

僧侶は意識改革をしていかないと時代に取り残されるでしょうが、私が信徒の皆さんに訴えたいことは、「もっと僧侶に圧力をかけて、漢文読経にどんな意味があるのかを問いただして下さい」ということです。僧侶の側は、「いや、お経というのはありがたくいただくもので、分かる分からぬを超越したものだ」とかなんとか屁理屈をつけるでしょう。そういう言い逃れを許さない追及をして下さい。

「でも、お寺さんはふだん、お経は呪文じゃなくてお釈迦様の教えだとおっしゃっています。全部分かるなんてことは望みませんが、少しは分からないと、私たちにはありがたみさえ感じられないのですが。」
「今のことばに訳せばいいというものじゃない。むしろ、へたに分かったつもりになってもらったら困る。」
「お寺さんが読んでおられる漢文は、三蔵法師たちがサンスクリットのお経を当時の中国語に訳しものですよね?それはサンスクリットのままでは分からないから訳したのでしょ?」
「ともかく、大谷派では漢訳の浄土三部経が所依の経典なんで、これを自分の都合で変えるわけにはいかん。」
「親鸞聖人は、浄土三部経を漢文音読みで読めとおっしゃっていますか?」

こういう「うるさがた」が増えていくことが、僧侶を育てることになるのです。(こういうことを書くと、じつのところ私自身にはねかえってくるのでこわいのですが、あえて自分にプレッシャーをかけるつもりです。)

道は容易ではありません。戸次先生は、現代語による法要には、それなりの準備が必要であるとおっしゃっています。僧侶の側が、経文の読み込みをしっかり行うこと(漢文の白文を意味を把握しながら読むなど)や朗読のトレーニング、意訳文の選定または制作...  しかし、こういうことに取り組んでいかなければ、日本では仏教は滅びてしまいかねません。

(2006年2月21日脱稿)


付記1(2006年2月22日)

この集会について、国際仏教エスペランチスト連盟のメーリングリストで報告したところ、韓国の仏教徒より反応がありました。和訳して紹介します。

興味をもって読ませていただきました。韓国でも、多くの僧侶は中国語で、正確には、漢文を韓国風に読んで儀式を行っています。ゆえに、在家のほとんどは漢文の正しい意味を理解していません。今、状況は数名のパイオニアによって、少しずつ変わりつつあります。韓国の僧侶は、古くて不適切な習慣の影に目覚めるべきだ、と私は思います。
韓国におけるキリスト教の急速な発展と比べてみることができます。キリスト教は最初から村々に布教するために韓国語だけを使用しました。伝道開始から100年を経て、キリスト教徒がダイナミックで力強いのに対して、仏教の側は平易な共通語を使用することのメリットを感じていないようです。誰かが変革をもたらすのでしょうか?

付記2(2006年4月25日)

2月18日に行われたBudhana Festoに、毎日新聞学芸部の田原由紀雄編集委員が取材に来られました。当日の様子は、4月17日夕刊で「田原由紀雄の心のかたち」として紹介されています。→紙面の画像ファイル