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浄土は この世から はじまる

歎異抄に

「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための 願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐる ほどの悪なきがゆえにと云々」(聖典626)
とあります。

仏教では仏の浄土と人間の娑婆世界は二つだけれども、南無阿弥陀仏でもって二つの世界は結びつけられている、南無阿弥陀仏がもとになって二つの 世界が出来ている、いってみれば昼と夜のようなものとされています。浄土は昼でこの世は夜であるといえましょうか。
浄土が心の中に南無阿弥陀仏と念ずれば入ってきて、私共に正定聚という心境、心の世界を開顕してくださるとおっしゃっています。

齢五十も過ぎれば(人生の)先が見えてきて、身辺整理をしなければと思います。
しなければと思いますが、なかなか進みません。考えることが面倒にもなります。そして憂い不安にもなります。
そんな私にも願いがかけれている。面倒から不安から逃れようとしても、その面倒は私が蒔いたものならば゛全部背負わせていただきます、と不安が 転回されていきますまいか、と思います。

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