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この世を穢くしたのは、各自各自の責任である

歎異抄に

「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまべからず。 善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、まだもって、むなしからずそうろうか。 詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと 云々」(聖典627)
阿弥陀様の教え(本願)を受けている私ですが、さてそれでどう行動行為を起こすかの責任は、私にあるとおっしゃられます。
弥陀の本願、法然上人の教えによって親鸞聖人はご自身の往かれる道が見つかった、法然上人は上人でありながら、親鸞聖人は聖人でありながら、それぞれ 別人格でありながら、本願のまことを感ずるという点において一つであるということに、師の御恩を感ずるという意味になりましょう。

使い古された言葉でありますが、
「全く、今の若い者は駄目だ。昔はよかった。」「親の言う通りにはしないが、するようにはする。」
伝統は築こうとして築くものではなく、築かれていくものではなかろうかと思います。

築いた、守っていると思っているようで、実は築かれたものからわが身が問われているのではなかろうか、と思います。

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