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幸福な人、不幸な人、そんな区別なんぞ、はじめから、ない

親鸞聖人が著された正像末和讃に

「小慈小悲もなき身にて 名利に人師をこのむなり」(聖典509)
何が是か非か、邪か正かも知らず、母が子に抱く慈悲のかけらもない私であるにも関らず、名誉や利益のために人の前に立ちはだかるのは、なんという 嘆かわしいことであろうか、とされています。

むかし、山陰の鳥取に源左という男がおりまして、あるとき母親に「いもを掘ってきてくれ。」といわれ畑に行くと他の男がいて、いもを掘っている。 いも盗人なのですが、「こらーっ!」となるところを「ようこそようこそ。」後に母親に尋ねられると「うん、きょうはおらの番でなかった。」
本当にあったことなのです。
あるとき女房がかたい飯を炊くと「ようこそようこそ、かたい飯はようかむと味があるでのう。」お粥のような飯を炊くと「ようこそようこそ、 おら、お粥がええがなあ。」
怒りを表している人に向かい、「旦那さん、何とあんたはええ持っとんなすんな。癇癪は癇癪玉(かんしゃくだま)ちって、宝ですけなあ。宝は 滅多に人にみせなはんすなよ。」

仏教では心に決めることを決定心(けつじょうしん)といいます。立ち戻れる原点ともいえましょう。原点に戻れば幸福不幸と区別するわが身を知る ことになります。

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