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煩悩を とらえてみれば わが身なり

佛説観無量寿経に

「諦らに聴き、諦らかに聴け。善くこれを思念せよ。如来いま、未来世の一切衆生の煩悩の賊のために害せらるる者のために清浄の 業を説かん。善きかな、韋堤希、快くこの事を問えり。阿難、汝当に受持して、広く多衆のために仏語を宣説ずべし。如来いま、韋堤希および 未来世の一切衆生をして、西方極楽世界を観ぜしめんことを教えん。仏力をもってのゆえに、当にかの清浄の国土を見ること、明鏡を執りて 自ら面像を見るが如く、かの国土の極妙の楽事を見ることを得べし。心の歓喜するがゆえに、時にすなわち無生法忍を得べし。」(聖典94,95)
とあります。自分が完成して、こうなったら救われると考えることが、却って仏様を遠ざけてはいないか。 自分を見事に言い当ててくる仏様の力を信頼し、言い当てられる世界を信頼せよ、とあります。

「遠くの親戚より、近くの他人。」
年忌法要は、何年まで勤めたらいいのか、どこまでの縁者を呼んだらいいものかと、よく訊かれます。とりたてて決まりはなく、人それぞれなのですが。
呼ばれたら、行きたくないけど行かねばならん、煩わしい。迷惑掛けはせぬかと遠慮したり。逆に呼ばれないと、嫌われているのかと疑ったり して気分が悪い。どちらにせよ悩ましいところです。

無数のいのちを頂戴して生きていることを忘れると、どこかで行き詰ります。
仏に出遭わせていただく仏事に誰を呼ぶか呼ばないかで、非難を受ける煩悩の身であると知っていたいと思います。

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