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どんなときでも 安心という境界がある

先日、別院の講習会でのテーマが「無縁社会の衝撃」でした。 誰にも看取られずに亡くなる人、引き取り手がないご遺骨が年間3万2千人あるとの事です。

また、現代の終の棲家といってもいいのか、ある老人ホームで生活している人には、
@家族の世話になりたくない
A病気が進んで家族の介護が困難
B家族から見捨てられた
と三つの種類があり、@Aは年に数回の家族の面会があるが、Bは面会もなく、亡くなられてからの遺骨も引き取られず、あれば貯金通帳のみ持ち帰られる との事。
そして、過去の栄光をいつまでも振りかざし、思うようにならないと周囲を怒鳴りつける老人たちの現状に衝撃を受けたとの報告文がありました。

安心決定鈔に

「しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、わがいのち とおもいたらんおり、善知識 もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、 わがいのちすなわち無量寿なり  と信ずるなり。」
とあります。いただいたいのちであることは、仏から願いを掛けられて恩をいただいておりながら、恩に背き安心という境界に目を向けようとしないのが 我が身です。

親子だから、家族だからお互い面倒を見て当然というより、一人一人が仏に出遭う自己形成が益々問われることになったのではと思います。

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