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一人(いちにん)のよろこびが 一切人のよろこびである

私が自分の口で称えているように感じる「南無阿弥陀仏」のお念仏の名号ですが。実際にはそうではないようです。教行信証の「行巻」には

「南無の言は帰命なり。帰の言は、至るなり。また帰説(よりたのむ)なり、説の字、悦の音、また帰説(よりかかる)なり、 説の字は、税の音、悦税二つの音は告ぐるなり、述なり、ひとの意を宣述るなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり 、信なり、計なり、召なり。ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。(聖典177)
また「信巻」には
「欲生と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり」(聖典232)
私の「帰命すること」も「浄土に生まれたいと思う心が起きること」もいずれも阿弥陀如来からの先手の働きー招還であるとの事、私が唱える 「南無阿弥陀仏」の称名は、実は「呼び声を聞く」ことである。自分で唱え、それを聞くことに意味があり、唱えるのではなく、「聞く」のだという解釈 です。ただ実際には聞けない私がいます。よろこべない私がいます。

先だっての葬儀で、葬場に着くと真っ先に喪主の方から訊ねられました。
「ところでお布施は、おいくらでしょうか?」
善行を積む喜びであり、修行でもある布施行が単なる読経の対価となっていることに、考えさせられました。

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