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誰にでも頭の下げられる信心が 他力信心である

覚如上人が著された『最要鈔』には

「信心をば、まことのこころとよむ」
とされています。まことのこころー真実とは本当は触れられたくないもの、聞きたくないものなのかもしれません。本当のことを聞くより、嘘でもお世辞の 方が耳に心地よいと不謹慎ながら思います。
親鸞聖人は真宗という言葉の前に
「大無量寿経 真実の教 浄土真宗」(聖典150)
と著されています。寿というのは老人の老という字と受けるという字が合わさってできているといわれます。老人というのはいのちの豊かさを表すような 存在であり、文化とは老人や病人をどれだけ大事にするかということではないでしょうか。

今年に入って葬儀が何件と続きました。葬儀を通じて初めて仏事を知り、経験される方が多かろうと思います。初めてではなくても、いざ自らが葬儀に携わる となると戸惑い、上手く事を運ぶのは難しいものです。
「この年になって何も(仏事が)解らないもので、恥ずかしいわね。」
と聞かれ問われます。永く生きていても解らないことは多いものなのですが。
「教行信証」の「信巻」に  

「大信心はすなわちこれ、長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術‥」(聖典211)
私の抱く信心とは長生きしたい、どうすればいいかを願っているものとおっしゃられています。
他力信心に出遭うとは仏に出遭うこと、しかし私は自らの経験や年齢に従っているに過ぎないと気づかされます。

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