掲示伝道バックナンバー 晃照寺ホームページへ 第30組トップページへ
歴史はつくるものではなく 感得するものである

南無阿弥陀仏といってもそれは空念仏だ、念仏の中身は何なのか考えなければならない、とよくいわれます。
『観無量寿経』という経典に、人間を上品から中品、下品まで分類し、上品は死後仏様が金の蓮台を持って迎えに来る、中品は観音様が紫金の蓮華を 持って迎えに来る、下品は鬼が火の車を持って迎えに来る。よって下品の者は念仏を口に称えよとあります。

蓮如聖人の著された御文第五帖十通に

「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候。そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力 として、仏のかたより往生は治定せしめたまう」(聖典837)
とあります。蓮如聖人は信心をもって本とすると言い切っておられます。
また歎異抄には
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益 にあずけたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要としるべし」(同626)
と、信心が要とあります。
信心ー仏様の功徳によって救われるのではなく、仏様の功徳を信ずる心が信じた人を救うということではないでしょうか。

ここのところ毎年、一周約1500メートルを交代で走り続けるマラソンを走りました。
今年は走行タイムが昨年より遅くなっていました。 体力が衰えたのか、練習が足りなかったのか、暑さで体調が良くなかったのか、原因を色々考えました。
同時に今現在の身の事実を、感得させられました。

掲示伝道バックナンバー 晃照寺ホームページへ 第30組トップページへ