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仏の本願 それは いたみのない私をいたんで下さる

正信偈に

「憶念弥陀仏本願」(聖典205)
とあります。「本願」はもとからあった願いで、私達には思いも及ばない遠い昔からはたらき続けている「願い」のことをいいます。
「憶念」はいつもとどめ忘れないこと。本願のことを理解するのではなくて、「願い」がはたらいている事実に心を持ち続けることをいいます。

正像末和讃に

「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまう 正像の二時はおわりにき 如来の遺弟悲泣せよ」(聖典500)
とあります。宗祖はこの末法の世を悲しんでおられますが、私達には悲しむ心が果たしてあるでしょうか。私達自身が末法の時代ということを何とも 感じなくなるところに、末法の姿があります。

先だって、40年前に生まれて間もなく亡くなったお子さんのご命日にお参りさせていただきました。
そこのご門徒に、こう言われました。
「自分が仏様を拝ませてもらっているつもりが、いつの間にか自分が拝んでいるつもりになっています。でもお寺さんにお参りしてもらうと、本当に拝ませてもらえた んだな、と思えて気持ちがすっきりするんです。」

いたみのない私が、いたんで下さる仏に出遭えて、拝ませてもらえたと知らされるご縁をいただきました。
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