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老人とは 顔に皺がよった人ではなく 心に皺がよった人

高僧和讃に(聖典 491)

信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなわち他力なり

疑わないという信心と、疑いなしという信心とはどこが違うのでしょうか。
疑わないという信心は疑いによって倒れ、それに対して疑いなしという信心は、どうにも疑うことのできない確かなものに出遭ったという感動であります。
よくよく考えてみれば私達の心は一心ではなく、二心(ふたごころ)であります。信ずる私の心と信じられる如来の本願とが二つに分かれて、どうしても 一つにならない私の二心を破って、如来の本願がそのまま私の煩悩のただ中に表れて下さった姿が如来の本願ー信心、一心であります。

信ずることが思い込むことであるならば、信心をうるということはその人を頑なで、人の言葉に耳を貸さない人にしてしまうことになります。
釈尊は「スッタニパータ」の中で

或る人々が「真理である、真実である」というところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは 異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の道の人は同一の事を語らないのであろうか?
と問うて
真理は一つであって第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は争うことがない。
と語っておられます。
どんなに小さな経験も、どんな立派な理論によっても包み切れない豊かな内容を持っています。

「死」を遠ざけたり、忌み嫌うことが多いこの頃ですが。
この春から病棟ー医療の現場で働くことになった若い看護師が私に語ってくれました。
人の死に出遭って、生きていることの大切さを知りました。生きていくことの大変さも知りました。生きていくことは、どんなことかと考えました。と。
「生きているものは、いつかは死ぬんだ」という理論を他人から説かれるより遥かに豊かなものが、この看護師の中に芽生えたことと思いました。

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