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人格者とは 謙虚な人のことをいう
「竊に以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(教行信証 総序 聖典P.149)

「竊(ひそか)」には「こっそりと」という意味がありますが、ここではそうではなく講の義、つまり謙虚という意味 があると言われます。謙というのは唯一仏法に遭った者だけに成り立つ姿勢です。人間は謙虚になれない、なると したらそれは仏法に遭ったものだけにあり得るのだと言われます。教えに遭うというところに初めて、教法に対する 姿勢が与えられるのかもしれません。
「竊に似(おもん)みる」というのは、自分の境界を超えた仏の世界を窺(うかが)い見るということです。
自分の境界を超えたものは自分では語れません。自分では語れない、述べられないものが述べられているー自分 の見解ではなくて、仏法によって賜った見解によって「似み」たのです。

最近インターネットを介した日記のやりとりでのことです。
「ないたあかおに」という童話があります。人間から怖がられているあかおにが、何とかして仲良くなりたいと 友人のあおおにに相談し、それを受けたあおおにが一芝居打ち、願いをかなえさせてあげます。
そして、僕が いれば君も人間達も居辛らかろうから、という張り紙を残し、おかおにの元を去ります。張り紙を見たあかおに は、ないたという話です。

要求するこのあかおには、私の姿を表わしていると思います。あおおには仏が姿を変えたものでしょう。
私は深い願いを掛けられているのだと気づかされた時、 願い(仏法)に目覚めさせてもらったと、謙虚になけることができればと思います。

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