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花が咲く 花が散る どちらもまったく静かだ

歎異抄の第七章に

「念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。」

とあります。生きていく上には碍り、障害が多く絶えないもの。もしこの人生にどうなってもよいのだという立場が見出せたなら、そして私が何をしても差支えがないのだというような根拠があったなら、それこそ碍りがないということでありましょう。

先日、知り合いが十六歳の娘さんを遺して亡くなりました。普通高校に通っていた娘さんは、この春から専門学校に転学するとの事です。ただその専門学校というのはあまり評判のよくない学校とかで、苛められないか、無事に過ごせるのか心配だと別の友人が申しておりました。その子(娘さん)が心配で、最近よく眠れないのだとも。

しかしここは娘さん本人が決断したことであり、周囲が心配したところでどうなるものでもありますまい。周囲は見守るしかないもの、父を亡くすという障害(といっては不謹慎でありましょうが)を転じて、自暴自棄になることなく自分の進路を決断した根性は、案外強いのかもしれません。

十六歳の娘さんにはおそらく、何事もが「自因」「自果」であることが真理であり仏教の原則である、などと考えるべくもないでしょうが、自らの道を静かに受け止め、進む決断をすることの大切さを私に気づかせてもらいました。

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