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比較する心は 善悪の差別を生む

善とは福徳、生きる意欲を駆り立て、正しい行為、周囲を幸せにすることが挙げられ、悪とはその逆ともいえるでしょう。

ただ私達が言うところの善だ悪だというのは仏教では有漏善(うろぜん)といって、私達の煩悩が含まれた善悪といえるようです。

蓮如上人の御一代記聞書の言葉に

「よきことをしたるが、わろきことあり。わろき事をしたるが、よき事あり。よき事をしても、われは法儀に付きてよき事をしたると思い、われ、と云う事あれば、わろきなり。あしき事をしても、心中をひるがえし、本願に帰するは、わろき事をしたるが、よき道理になる」由、仰せられ候う。しからば、蓮如上人は、「まいらせ心がわろき」と、仰せらるると云々

とあります。まいらせ心とは自分はよいことをしたと言い、他人に押し付け主張する。社会的にみて善いことをした、悪いことをした、そのもとにまいる(向かう)心というものが最も深く人を迷わすようです。

先日、若くして亡くなった友人の命日のお参りに伺った際、忘れ形見である3歳の息子と、妻である母親と一緒にお勤めをしました。字はまだ読めないそうですが、御文を共に唱和しました。聞いていて胸が熱くなりました。

「ありがとうございました。」と礼を言われ、ふと私はこのお勤めをしたことが、2人に善いことをしたのだと思いました。後々考えてみるとこれこそが有漏の善の行為だったのではと思いました。

お勤めの後、私の胸を熱くさせながら何事もなかったかのように部屋の中を走り回っていた息子こそが無漏の善(煩悩の混じらない)の行為ではないかと思いました。子に教えられました。

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