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人間は 共感の世界を求め続ける存在である

親鸞聖人は末燈抄という御消息集の中で

「この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」

また

「念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなえんずるは、うたがいなき報土の往生にてあるべくそうろうなり」

と、ご教示されています。

阿弥陀経の中に、倶会一処(くえいっしょ)という言葉が出てきます。誰もが人と共に会おうとして心が通い、一つになれる場所があることで心が安らぎ生きる喜びや意欲を持つことができることをいいます。家庭やら学校、職場、近隣、サークル等、大きくは民族や国家等があげられましょう。

ただ、人が作る一処は必ずしも仲良く共感するばかりでなく、自我意識の肥大からぎくしゃくすることもあります。共に一つに会うことを求めながら、他方ではそれに背き壊すことをするわけです。

いつの頃からこうなっていくのでしょうか。

先だって続けてお参りに伺った2軒のお宅には、偶然でしょうが生まれて間もない赤ちゃんがいました。玄関先で挨拶している際には、どちらも落ち着かなさそうにしていましたが、お勤めが始まるといつの間にか一方はスヤスヤ眠りだし、一方は穏やかな表情になりました。抑揚のない読経の声が赤ちゃんには心地よかったのでしょうか。

やがて大きくなるにつれ言語を発し、賑やかな音楽を好むでありましょうが、求めるものに対して素直に反応するのは誰もが赤ちゃんの頃かもしれません。

聖人や阿弥陀経の中の、一つ処に共に出会える場所に生まれよとの願いは、求めるものに対して素直に反応する姿をいうのではないかと思います。

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