法話:母の死に遇うて

母の死に遇うて
泉稱寺 釋 賢司(成瀬賢司)

今年六月、母が白血病の抗ガン剤治療の途中、肺炎をこじらせて急死した。当初一ヶ月の入院予定で入院わずか十二日目の事であった。本人はもとより、家族も元気に退院し、帰ってくるものと退院後の準備をしている最中であった。本当にあっという間の出来事で、その後の通夜、葬儀の準備等であわただしく時はすぎてゆき、深く悲しんでいる暇もなかった。

母は夫である私の父(先代住職)を五十二年前に亡くして、私が住職になってからも、坊守として、その長きに渡ってお寺を守ってきた。思えば、母はいつも境内の草とり、掃除をしていた。そんな姿を思い出しては、最近、時間があれば掃除ばかりしている私である。この季節(晩秋)になれば、桜・梅・柿・楠・紅葉とハラハラと風に舞い枯葉が落ちてくる。はいてもはいてもきりがないかの如く、落ちてくる。

ある日、母が黙々と枯葉の掃除をし、竹竿をもって、まだ残っている柿の木の葉をはたいていた。その母に「いずれ落ちるのだから、すべて落ちてから、ゆっくりはけばいい」と笑いながら声をかけたことをなつかしく思い出す。一つ一つの思い出が、今、深い悲しみへとつながり、身がひきさかれそうになることがある。五十年以上、片親で育ててくれ、側にいてくれた。本当に感謝の一言である。

私も、住職三十一年、多くの檀家の人々を弔いながら、本当にその家族の人々の気持ちになって、悲しみと寄り添うことができたのか疑問である。ただ儀式のみ執行していたのではないか反省。人生経験しなければ、わからないことがいろいろある。

残された人生、あたえられた命を、一生懸命まじめに生きる事が、私たちにできる亡くなった人への恩返しかもしれない。